眠れる森
A Sleeping Forest
第十幕 ◆ 「サンタクロース」
Reported By No.760 しのぶ
群馬の森の診療所。
暖炉が明々と燃え、直季の父
直巳は黙々と斧を研いでいる。
診療所には直季が戻って来ていた。
直季は、実那子の実の父親の写真が入ったペンダントを直巳に突きつけた。
そのペンダントに納められた写真は、直季の父
直巳の若き日の顔だった。
直季は父を問い詰めた。
「実那子は野次馬の中に居るオヤジの事、見てんだよ。自分の本当の父親が、あの晩家の前に居るのを、実那子、見てるんだよ。
…どうして実那子だけがあの事件で生き残ったのか、俺、やっと分かった。犯人は殺さなかったんじゃなくて、殺せなかったんだよ。
実那子は、実の娘だから。どうしてオヤジが実那子の記憶を消そうとしたのかも分かったよ。忘れてほしかったんだろう?実那子が見たもの全部。実那子が見た自分の顔も!」
「黙ってないで何とか言えよ。違うんだったら違うって言えばいい。違うって言えよ!…何で言えないんだよ、違うって。それは、あの一家をアンタが殺したからだろう!」
斧を研ぐ手を止め振り返った直巳は、直季をじっと見据え、やがて語り始めた。
「お前の言うとおりだ。15年前のクリスマスイブ、俺はあの家を訪ねた。
実那子が父親から虐待を受けていることは聞いていた。あの家庭はもう、限界だった。俺は実那子を引き取りに行くことになっていた。あのクリスマスイブは、森田家の最後の団欒の夜だったんだ。ところが、俺より先にあの家を訪れた人間が居た。
一家惨殺犯だ。俺があの家に着いた時には、周りは警察官とマスコミで
ごった返していた。」
直巳の脳裏に事件の夜の様子が生々しくよみがえる。
「担架で運ばれて行く実那子と一瞬目が合ったような気がした…。そうか。俺を見てあの子はちゃんと分かったんだ。」
「直季、俺はあの子の家族を殺してなんかいない。本当だ。
お前の母さんと知り合う前の事だ。学会の手伝いで福島に行った時、偶然、学生時代に知り合った和子と再会した。和子には亭主が居た。生まれた実那子が俺の娘だと判ったのは、随分
後のことだ。
犠牲になったのは実那子だ。本当に可哀想なことをした…。和子から相談を受けて、俺のところで引き取ることにしたんだ。
だが、あんな事件が起こってしまった以上、実那子にしてやれることは
もっと別にあると思った。」
「だから記憶を…。」
直季は、父がなぜ実那子の記憶の入れ替えに あれほど熱心だったのかが やっと分かった気がした。
実那子が直巳の元に居た日々の思い出が甦る。
自分には見せた事の無い暖かな優しさで実那子を包み込む直巳の横顔が。
そして、その場に入ってゆくことを許されなかった自分の悲しみが。
「あの子は、それまでの
しがらみを断ち切って、新しい人生に踏み出すべきだった。
父親としてではない。医者として記憶の埋め込みをしているんだと自分に言い聞かせようとしたが、そう簡単には割り切れなかった。
実那子は
あの頃とは別な形で、また苦しんでいる。そんな実那子を、お前の力で少しでも救えたんだとしたら、俺はお前に感謝したかった。
済まなかった。」
今夜は泊って行くんだろう と問う直巳に、直季は直巳と実那子の診療記録テープに目を遣ると、何も言わず2階の かつての自室へと向かった。
残された直巳は自分の写真が入ったペンダントに心を向けつつ、また黙々と斧を研ぎ始めた。
同じ頃、実那子はまだ見ぬ父に思いを馳せていた。
「私に、本当の父親が存在するのだとしたら、私は結婚前夜に言ってあげたい。私は長い間、あなたのお世話にならなかったけれど、あなたが居たから、私はこの世に生まれた。
ありがとう。私は幸せになります。」
心に決めて、実那子は輝一郎が眠るベッドへと足を踏み出した。
A Sleeping Forest 〜眠れる森〜 第10幕:サンタクロース
主題歌:「カムフラージュ」/竹内まりや
ハミングのみだった導入部に、今回は歌詞が入っている。
横浜。
直季は、国府の妻
春江を少し離れたアパートの一室から見張っていた。
敬太が戻ってきた。早速、仕入れた情報を直季に伝える。
「近所の人間に聞いてきた。国分らしき男が一度、サンドイッチマンの恰好で家に帰って来たのを見掛けた人間が居るって。」
「何、サンドイッチマンて」
「サンタクロース。そろそろ季節だもんな。日銭稼ぎのバイトでもやってるんじゃないか?」
そうこうするうち、春江に動きがあった。直季の様子に、敬太も窓辺に寄る。
春江が出掛けて行く。直季は春江のアパートの見張りに残り、敬太が春江の後をつけた。
春江の兄が経営する、小さな中華食堂。
雨の中、敬太が店の様子を窺っている。
店の料理を持ち帰り、今夜も国分を待つと言う春江に、本当に国府から連絡は無いのか、と兄は問いただした。無いと答えながらも いそいそと帰って行く春江を、兄は屈託のある面持ちで見送った。
夜。春江の部屋の明かりも消えた。
春江の部屋を見張る直季の元に敬太が帰って来た。
敬太は中華街で売られている、頭がすっぽりと入る張子のお面をかぶっていた。
「何やってんだ、お前。」
「変装用だよ、変装用。お前の分も買ってきたから。あと、メシ。肉まん。」
敬太は、食糧と共にもうひとつのお面を直季に手渡した。
「きょうも動き、無いみたいだな。」
言いながら、敬太は早速肉まんを取り出した。しかし今、敬太の心を占めているのは見張っている春江のことでも目の前の肉まんのことでもなかった。
「お前さ、由理とは、その後、どうなってんの。」
「どうって、何が?」
「まだ踏み切れないのか。」
敬太の問いには答えず、直季は手渡されたお面をかぶってみた。お面に隠れて、直季の顔が見えなくなった。
「なら、俺、さらっちゃおうかな。」
「お前、5年それ言い続けてねえ?」
聞きなれた敬太のセリフに、いつもと変わらぬ調子で直季は答えた。
しかし、きょうは敬太のセリフに続きがあった。
「借金取りに追っかけられて。アザだらけになって。クソみたいな人生だけどさ。光り輝いている由理が、俺の希望なんだよ。」
敬太は、いったん外したお面をまたかぶった。
互いの顔が隠れたせいで、逆に心のうちが口をついて出る。
「でも、由理が輝いているのは、お前が光を当ててやっているからなんだよな。お前がいろんな角度から由理に最高の照明を当ててやっているんだよ。そんな由理に俺、惚れたんだと思うと、なんだか、悔しいわ。」
「お前だって当ててやってんだろ、光。」
「…俺が、由理に?」
「お前とバカっ話して、笑い転げている由理が俺、一番好きなのかもしれない。俺、由理にああいう顔させられないからさ。」
「そうか…。」
敬太はお面を取って微笑んだ。
「俺と一緒に居る由理が、好きか。」
「よし!」 笑って、敬太は肉まんに噛り付いた。
「なあ、こういうのって変装って言うのか?」
自分もお面を外した直季が、敬太に問い掛けた。
「言わねえか。」
「いつまで かぶってるんだよ。」
「もうかぶってねえよ。」
しかし直季は、敬太が心にお面をかぶったままでいる気がした。
輝一郎と実那子は結婚式の進行の説明を受けていた。
「早速スケジュールなんですが。午後8時にパーティーが始まり、新郎新婦お二人には、お客様のフロアを廻っていただきます。そして11時40分頃に…」説明は続いている。
「そして、12時の鐘が鳴るのと同時に、新郎新婦お二人の誓いの儀式が始まります。…」
12時の鐘。実那子は思った。それは同時に時効成立の鐘でもあるのだ。誰にとっての新しい人生の始まりなのか…。
その頃、国分は「タカハシ」の偽名を使い、ホテル勤務と結婚披露宴担当の職歴を偽って、船上結婚式を取り扱う業者に入り込もうとしていた。
国府の妻
春江は、店から少し離れた場所で携帯電話を使っている男に気がついた。
見覚えがある。以前、国分のことを聞きに来た男だと分かった。
春江は、自分が監視されていることを悟った。
店内に走り込み、あわただしく電話を手にすると 今は帰って来てはいけないと国府に警告を送る春江の様子を、兄がじっと見つめていた。
「ここ、直季から聞いてね。」
植物園の実那子の元に、直季の父
直巳が訪ねてきた。二人は園内を歩きながら話をすることにした。
「私、直季さんに頼んだんです。もう一度お父様の催眠療法を受けたいって。でも直季さんにダメだって言われました。お父様には二度と会わないでくれ、って。」
「フラッシュパックで思い出すことも、催眠療法で思い出すことも、それらはすべて本物の記憶とは限らない。記憶というのは、時が経てば経つほど事実とはかけ離れてゆく。」
「確かにそうですね。慌てることないんですよね。そのうち、過去のほうから私を見つけてやってくるんですから。」
「済まなかったね。ありもしない記憶を埋め込んだことは、結局、きみを苦しめるだけだった。」
「いいえ。その記憶で私はこの15年間、救われたんだと思うんです。事件のことなんか何も知らないまま、中学、高校、短大…。本当に楽しく過ごせました。
それに、ありもしない記憶じゃありません。それは、直季さんの記憶だったり、直季さんの夢だったんです。お父さんとキャッチボールしたかった夢。家族みんなでベランダから夕日を眺める夢。私、大切なものを譲ってもらったんだと思います。」
実那子の話を聞きながら、直巳は複雑な思いに捕らわれていた。
直季には可哀想なことをしてしまった。しかし、実在し得なかった直季の夢は、実那子の中で思い出になり、そして実那子を支えたのか。
実那子は言う。
「やっぱり私達は、同じ故郷でつながっているんです。眠れる森、っていう故郷で…。」
「あ、サンタだ!サンタだ!」
直季が春江のアパートを見張っていると、外で子供たちの騒ぐ声がした。
道路を見下ろすと、子供達に取り巻かれたサンタクロースの姿があった。
敬太は戻っていない。直季はカメラを手に、サンタクロースを追った。
サンタクロースは、春江のアパートの方に向かった。サンタクロースの姿を見失った直季は、春江の部屋のドアに耳を当て、中の様子を窺った。
背後に人の気配がした。直季が振り向くと、アパートの階段口からサンタクロースが直季を見ていた。
去って行くサンタクロースを直季は追った。
時には小走りになり、時には歩くサンタクロースを追って、やがて直季がたどりついたのは、体育館ほどの大きさの廃工場だった。
広い、無人の廃工場。資材が視野を遮る。奥に足を進めると、どこかで金属がぶつかる音がした。
直季は身を低くして手近にあった鉄パイプを握り締めた。
人の気配に振り返った途端、直季はサンタクロースが振り下ろした鉄パイプに、横殴りに殴り付けられた。
地面に叩き付けられた直季に、サンタクロースは容赦なく鉄パイプを振り下ろす。
身をかわし、応戦し、また倒れた直季は鉄パイプの連打を浴びた。
蹴り飛ばされた直季はコンクリートの柱に頭から叩き付けられた。夥しい血が流れ出る。
傷ついた頭部を抱えて体を丸める直季には、これ以上の攻撃から身を守る力は残っていなかった。
しかし、サンタクロースは直季にとどめをさそうとはしなかった。苦痛にのたうつ直季に背を向けると、鉄パイプを放り捨て、その場を立ち去る。
激痛に身を縮めながらも、直季は力を振り絞ってカメラを取り出し、去って行くサンタクロースの姿を写した。
フラッシュを浴びたサンタクロースが振り返った。直季はその付け髭を外した素顔もカメラに収めた。
写真を撮られたことを知ったサンタクロースは、鉄パイプを手に、再び直季に歩み寄った。
直季はカメラを守って身を縮めるが、それ以上の抵抗をする力は残っていない。
「あっ、さっきのサンタだ!サンタが居たぞ!」
子供達の歓声がサンタクロースの動きを止めた。
群がり寄ろうとする子供達を前に、サンタクロースは
そのままその場を立ち去らざるを得なかった。
「直季。居るのか、直季? …誰か!救急車!」薄れて行く直季の意識に、敬太の声が遠く聞こえた。
自室のベッドで直季が目覚めると、そこには実那子の姿があった。
「よかった…!」
「どうして?」
「中島敬太君が知らせてくれたの。」
「敬太は?」
「警察。事情聴取。」
実那子は直季のベッドの脇に腰を下ろした。
「検査もしないで病院抜け出したって、本当? 大丈夫なの?」
「うん。少し休めば。」目がまわる様子で、直季はしきりと眉間を押さえている。
「国府が?」実那子は加害者を尋ねた。
「次は殺すって言ってたからね。」
「眠ったほうがいい。」
身を起こそうとする直季を実那子は案じるが、直季は実那子と話したかった。
「久し振りだね。元気?…結婚式の準備は?順調?…もうすぐだもんね。」
頭痛か、めまいか、直季の顔が時折微かに歪む。
「私ね、やっぱり考えたの。私が思い出せば、全部解決するんだと思う。もう
あなたが傷付かなくて済むんだと思う。…お父様に催眠療法、頼んでみる。」
実那子の考えに、直季は首を横に振った。
「だって、私のせいでこんなことに…!」
「全て思い出すまで実那子は今のままで居て欲しいからさ。あの森が俺達の故郷のままで居てほしいから。」
直季の儚げな言葉に、実那子はそれ以上言葉を続けられなかった。
「俺達さ、落ちるカーブだって投げられるし。敬太とよくターザンごっこしたしさ。川の中州でキャンプだって張ったじゃん。蒟蒻のリボン巻きが好きで。リンゴの皮剥くのも上手いしさ。」
遠い、懐かしい目をして直季が続ける。
「俺、実那子と同じ思い出、できるだけ長く持っていたいから。…実那子は?」
「大切な思い出。」胸が詰まり、実那子の声が揺らぐ。
「でしょ?!」
無邪気な様子で問い返した直季は、実那子と頷き合うと、次第に眠りへ引き込まれて行った。
「楽しかったな、あの頃…。」
「本当ね。」
夢とも現ともつかない直季の言葉に答える実那子の目は、悲しい。
「森の緑がつやつやしてて…」
「せせらぎの水がおいしくて。」
「あそこ、俺達の王国だったもんな。」
「楽しかったね。」
実那子を守るために負った傷に、顔中を彩られながら、直季は幸せそうに
森に思いを馳せる。
「また行こうよ。ね?俺達の…眠れる森へ…」
「また行こうね…」
眠りに落ちた直季に毛布を掛け直しながら、実那子は直季の顔を見つめた。
額の傷に手を当てようとして思い止まり、実那子は直季を後にした。
閉じた直季の両まぶたから、静かに涙が流れて落ちた。
直季の部屋を出た実那子は、ちょうどそこへ来た由理と顔を合わせることになった。
涙の気配をまとって直季の部屋から出てきた実那子に、由理は身を固くした。
「今、眠ってる。詳しい検査はしていないみたいだけれど、骨折も内出血もしてないって。」
「そうですか。よかった。」
直季の様子を聞いて安堵した由理だったが、言葉が口をついて出た。
「敬太ったら、私より先に実那子さんに知らせたんですね。」
それきり、断ち切るように直季の部屋に入って行く由理の悲しみを、実那子は感じた。
眠っている直季を看病しているうちに、いつしかまどろんでしまった由理は、直季の身じろぎに目を覚ました。
何かうわごとを言っている。
「敬太、早く…。」
「何?」
由理は直季の口元に耳を寄せ、直季の言葉を聞き取ろうとした。
「早く…。カメラに、写っているから…。国府が、写っているから…」
由理は直季の上着からカメラを見つけると、ひとつの決心をして、眠る直季を見つめた。
植物園に面した通りで、子供たちの騒ぐ声がする。
実那子が見やると、両手に風船を持ったサンタクロースに子供たちが群がり寄っていた。
商店街のクリスマスのイベントだというそのサンタクロースに、だが、実那子は何かを感じた。
実那子がその何かを確かめるように近づいてゆくと、サンタクロースは振り返り、実那子の目をじっと見返した。
そして、サンタクロースは顔に笑いを形作ると、大きく広げた両手の風船を、放した。
そのまま しばらく自分を見つめて、やがて去って行くサンタクロースを、ただならぬ思いに捕らわれながら、実那子は目を離せず見送った。
「国府は傷害容疑で指名手配になった。これで刑務所に逆戻りは決定的だな。」
ベッドから身を起こして敬太の状況説明を聞きながら、直季はしきりに首から頭を覆う具合の悪さを軽くしようとしている。
「警察は玉置
春江に事情を聞いた。あの女、俺達が張り付いてるってことを知ってたんだよ。国府に、今帰ってきちゃ駄目だって電話入れてたらしい。なのに、国分はあのアパートにやってきた。っていうのは…」
「俺を殺すためか。」
「ああ。」
「…でも真犯人に復讐しようとしている時に、わざわざそんな警察の指名手配くらうような事…。」
直季には納得が行かない。
と、その時、直季は自分がサンタクロースの正体をカメラに収めたことを思い出した。
「俺さ、国府のこと、写真で撮ったんだよ。だからオマエ、これからすぐ行って現像…」
上着のポケットに入ったままの筈のカメラは、しかしテーブルの上に、既にフィルムを抜かれてあった。
「なんだ。もう行ってくれた?」
「いやいや。俺、今来たばっかりだよ。」
「じゃ、誰が?」
「お前の入院を知らせたのは、実那子ちゃんと、由理。」
「由理だ。」
「由理が?!」
直季は、由理が何をしようとしているのか、悟った。
「あいつ、俺達の役に立とうとしているんだ」
由理を危険に巻き込んでしまう事にならなければ良いが。直季は不安にかられた。
由理はフィルムを現像に出した。
出来上がってきた写真には、サンタクロースが写っていた。そしてその顔は、由理が知る人物のものだった。
だいぶ日が傾いてきた。
由理には電話がつながらない。直季は
いらだちまぎれに煙草に火を着けようとするが、右手ではライターを上手く扱えず、左手で火を着けた。
玄関の呼び鈴に応えてドアを開けると、父
直巳が立っていた。
直巳はその場で直季の傷ついた頭に手を当てると、目眩や手足の痺れが無いか、性急に尋ねた。
大丈夫、との返事に安堵して直季の頭から手を離した直巳だったが、検査だけは受けておくよう念を押した。
直巳は、実那子から連絡を受けて直季を見舞いに来たと言う。
直巳が実那子の職場を訪ねたことをきっかけに、連絡をとりあうようになったと。
「あの子の結婚式、もうすぐだな。」
「花嫁のパパの気分?」
問い返した直季に、直巳は黙ったままだった。
「親父。俺、親父に紹介したい奴、居るんだけどさ。」
実那子の結婚に、言葉には出さないが胸中は揺れているらしい父に、直季は自分も結婚を考えていることを告げた。
「大学の頃からずっと付き合っている奴で。そいつとだったら、苦しいことも楽しいことも
みんな半分ずつに分け合えるような気がするんだ。」
「そうか。そのうち、森に連れて来いよ。」
「うん。」
それぞれの胸に多くの思いを抱えながら、語り合う言葉の少ない親子だった。
夕飯の席で輝一郎は、警察が訪ねて来た事を実那子に話した。
「流石に調べが早いよ。15年前の事件で生き残った実那子と、国分の同級生だった俺が婚約していることを、もう調べ上げている。」
「警察は、なんて?」
「国府は伊藤
直季を襲った容疑で指名手配になった。行方をくらましている国府がどこに居るのか、当時の同級生として心当たりは無いか、ってさ。」
実那子はずっと考えていたことを輝一郎に話してみようと思った。
「私、思うんだけど。国府は、私の目の前に現れて、私に何かしようとしているのかもしれない。でも、それは今じゃないような気がするの。」
「どうして?」
「あのサンタクロース…」
「サンタクロース?」
実那子は、昼間見たサンタクロースを思い出していた。実那子をじっと見詰め、風船を握った手を開くと、ゆっくりと去っていった…。
「私の目の前に国府が現れる日は、決まっているような気がするの。」
「俺達の結婚式の日か。」
「輝一郎はどう思う?」
「もし
あいつがそのつもりでも、今回の事件で指名手配になったんだ。逮捕されるのは時間の問題だよ。」
「…そうね。」
実那子は輝一郎の言う通りだと思いたかった。が、結婚式の日に国府が現れる予感は消えなかった。
もう、すっかり日が落ちてしまった。
由理の行方が掴めず気が気でない直季の、携帯電話が鳴った。
飛びつくようにして出てみると、電話は当の由理からだった。
「お前、何やってんだよ、携帯切ったままで!」
「ごめんね。全部終わってから、直季に報告したかったの。」
「何しようとしているんだよ。
…お前さ、フィルム現像に出したろう。持ってるんだろう、国府が写っている写真。」
「言ったでしょう?苦しみは半分ずつだって。直季の苦労を、私に半分背負わせてほしいの。」
直季は不安だった。由理に危険なことをしてほしくなかった。
「そんなもん背負わなくていいから、すぐ帰って来いよ。…俺、お前に言いたいこと有るから。オマエの前で、ちゃんと言いたいことがあるからさ。」
「本当?なんかドキドキしちゃうな。」
由理の声は妙に うわずっていた。
直季は由理に会って言いたかった。結婚しよう。お前を失いたくない。 だから、帰ってこい。
「なあ、どこに居るんだよ。」
「今、ちょっとだけ言って。好きだ、って一言。じゃないと、私、怖くて逃げ出しちゃいそうだから…!」
「怖くて…?何しようとしてるんだよ、だから。」
「言って!お願い。好きだ、って。」
直季は由理の声にただならぬものを感じた。なんとしても由理をつなぎとめたかった。
「好きだ。」
「もう一回」
泣いているような由理の声だった。
「お前が、好きだ。」
由理の返事が聞こえない。泣いているような息遣いだけが、電話を通して伝わってくる。
「由理。」
堪らず直季が呼びかけると、囁くような由理の返事が聞こえた。
「…嬉しいな。」
「お前、どこに居るんだよ。おい!」
「待っててね。」
「由理!」
由理からの電話が切れた。直季にはもう、どうすることもできなかった。
由理は東京タワーに近いビルの屋上に居た。
直季と話した携帯電話を握り締めると、やがて歩き出した。サンタクロースと会うために。
直季が背負った苦しみの鍵を握る人物に会い、直季の重荷を取り除くために。
輝一郎の父 正輝は、アトリエで強い酒をあおっていた。既にしたたかに酔っている。
指で ひとすくいの絵の具を取ると、ほぼ完成した実那子の肖像画に手を加え始めた。
ふと目を上げると、実那子の肖像画の向こうに妻が居た。昔と変わらぬ美貌で微笑んでいる。
「どうしちゃったの?あなた。そんな女に魂を奪われるなんて。輝一郎と同じね…」
「本当だったのか…。輝一郎が、ひょっとしたらお前が生きているって…」
正輝の目が驚愕に見開かれた。
「許さないから。貴方や輝一郎を駄目にする女は。」
妻は婉然と微笑むと、その場を去って行った。
妻を目にした衝撃に倒れ込みかけた体を かろうじて両手をついて支えた正輝は、去り行く妻をなかば追いかけ、追い得ずその場に立ち竦んだ。
やがて正輝は泣き崩れ、怯えた目を宙に迷わせ、慟哭に身を丸めた。
真夜中、実那子はふと目覚めた。
腕枕を貸してくれたまま穏やかに寝入る輝一郎の横顔に、実那子は思った。
「私を少女時代から見つめ続けてくれた人が居る。そして、同じように見つめ続けてくれた人が、もう一人。
私が今一番大切にしなければいけないのは、この実感なのだ。
輝一郎の寝息がすぐ間近に聞こえる。幸福の実感…。」
だが、その思いは電話のベルに遮られた。
「もしもし。もしもし?」
「誰?」輝一郎も起きてきた。
電話の向こうから応答は、無い。
「国府さんですか。」
電話の向こうから揶揄するような笑い声が聞こえてくる。
やがて、声が言った。
「サンタクロースはプレゼントを沢山持ってくる。どんなクリスマスプレゼントが欲しい?」
身を硬くした実那子から、輝一郎が受話器を取った。
「国府か。今どこに居るんだ。分かっているのか、お前。お前は指名手配になっているんだぞ!」
何も言わず、電話は切れた。
うずくまってしまった実那子に、輝一郎が問い掛ける。
「あいつ、何だって?」
「何が欲しいかって…。クリスマスプレゼント」
怯える実那子を、輝一郎は抱きしめた。が、実那子を落ち着かせようとする輝一郎の声にも動揺の色が隠せなかった。
朝霧にかすむ川岸。鉄橋を、電車が過ぎて行く。
立ち枯れた草叢のなかに、二度と物言わぬ姿となった由理が横たわっていた。
☆ レポ後記 ☆
レポは大変でもありましたが、それ以上に楽しかったです。
私の目で見た第十幕は、あなたが見た第十幕と同じものでしたか?
思いがけず長くなってしまいました。読んでくださった方、どうもありがとうございました。