3:関連資料



A:疎開すべき者の範囲( 甲から丙に該当する者 )

以下については地方への疎開、または疎開対象地域外への移転を 強度に勧奨する。

甲:( 建物疎開者 )

    空襲の際の延焼防止のため、主要な工場周辺、幹線道路沿いの家屋、交差点周辺などの、 防空あき地 作りのために、家屋が取り壊し対象となった者をいう。

    注:1
    防空法第5条ノ5第2項:「主務大臣ハ防空上、空キ地ヲ設クル為必要アルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ一定ノ地域ヲ指定シ、ソノ地区内ニ於ケル建築物ノ建築ヲ禁止又ハ制限モシクハ撤去スルコトヲ得。」

    注:2
    帝都重要地帯疎開計画(東京都計画局、昭和18年11月)による家屋とり壊しとしては、本所、深川方面ほかにおいて、防火帯造成、重要工場周辺の建物疎開、駅前広場の築造を目的として以下に該当するもの。

    1. 区部に幅50メートル乃至100メートルの防火地帯を作る際に該当する家屋。

    2. 重要工場を類延焼から護るため、工場から50メートル以内の住宅の疎開。疎開地の外周に50メートル以内の建物を防火改修し、あるいは空き地作りのための家屋疎開(取り壊しの意味)。

    3. 主要駅付近の家屋疎開。

東京都は昭和18年 ( 1943年 ) 11月に建物疎開事業所を2ヶ所設置し、更に19年3月には事業所を12ヶ所に設置して指定区域内の建物の除去により、防火帯や防空空き地の造成に当たりました。

これによって防火地帯内の建物1,500戸、重要工場付近の家屋3,100戸、主要駅付近の建物50戸、合計4,650戸が昭和19年3月末までに取り壊されました

その後19年7月までには合計約5万5千戸の家屋の疎開( 除去 )がおこなわれ、すべての作業が完了しました。しかし昭和19年11月下旬から始まった東京への空襲により、建物疎開が未だ不十分との認識に達し、疎開( 除去 )作業が再開されました。

昭和20年3月の東京大空襲の後、区部に幅員100ないし200メートルの防火大空き地20数ヶ所、幅員50ないし70メートルの小空き地80数ヶ所などの造成を計画し実施されましたが、空襲の被害には追いつきませんでした。

乙:( 地方に縁故を有する者 )

    地方に縁故を有する者のうち、老人、幼児、妊婦、病人、 学童 など。

丙:( 人口疎開対象地域に居住する者 )

    人口疎開対象地域に居住する者のうち、対象地域外に職場を有する者、企業整備等により転業、廃業する者、対象地域内に居住の必要性の無い者。

B:集団疎開方針の明文化

    従来から懸案となっていた「地方に縁故の無い児童」の取り扱いについて、縁故先の無い児童のために行う 一括疎開 という集団疎開の方針がこの通達により初めて明文化されました。

C:幼稚園の休園

    都内の区部にある区立50、私立270、のすべての幼稚園に対して昭和19年4月19日に、空襲に対処するため 無期限休園 を指示すると共に、園児の地方への疎開を勧奨しました。学童集団疎開開始に先立つ4ヶ月前のことでした。



(2)学童疎開促進要綱( 昭和19年6月30日、閣議決定 )

防空上ノ必要ニ鑑ミ一般疎開ノ促進ヲ図ルノ外、特ニ国民学校(小学校)初等科児童(以下学童ト称ス)ノ疎開ヲ下記ニ依リ強度ニ促進スルモノトス。

  1. 学童ノ疎開ハ縁故疎開ニ依ルヲ原則トシ、学童ヲ含ム世帯ノ全部若ハ一部ノ疎開、又ハ親戚其ノ他縁故アル学童ノ単身疎開ヲ、一層強力ニ勧奨スルモノトス。

  2. 縁故疎開ニ依リ難キ帝都学童ニ付テハ、左ノ帝都学童集団疎開要領ニ依リ、勧奨ニ依ル集団疎開ヲ実施スルモノトス。他ノ疎開区域ニ於テモ、各区域ノ実情ヲ加味シツツ概ネ之ニ準ジ措置スルモノトス。

  3. 本件ノ実施ニ当リテハ、疎開、受入両者ノ間ニ於テ共同防衛ノ精神ニ基ヅク有機一体的ノ協力ヲ為スモノトス。以下省略



(3)帝都学童集団疎開実施要領( 昭和19年7月 )

A:集団疎開セシムベキ学童ノ範囲

    区部ノ国民学校(小学校)初等科三年以上六年迄ノ児童ニシテ、親戚縁故先等ニ疎開シ難キモノトシ、保護者ノ申請ニ基キ計画的ニ之ヲ定ムルモノトス。

B:疎開先

    疎開先ハ差当リ関東地方(神奈川県ヲ除ク)及、其ノ近県トス。以下省略

    注):実際はこの通りには行かず、旧城東区(現江東区)の学校では、山形県に疎開した例もありましたが、それは非常事態発生の際の一般都民の避難を予想して、近県の避難民収容能力に余裕を残すためでもありました。

C:収容施設

    各疎開先ノ旅館、集会所、寺院、教会、錬成所、別荘ナド既存施設ノ余裕アルモノヲ充当スルモノトス。

    注):事前調査によれば疎開先の旅館は2千7百60軒、その他の施設は2千165軒でした。疎開先での授業については、現地の公立国民学校の校舎を借りての二部授業で実施できる見込みとしていました。

D:食糧

    主食は学童給食を含めて都内の標準量3合5勺を確保し、副食などのうち配給統制物資は別途「 集団疎開学童用 」として各県に割り当てるとしていましたが、実際には 絵に描いた モチ でした。

E:付き添い職員

    学童百人ニ付キ教師二名、寮母四人、作業員三人、地元ノ嘱託医一名ノ割合トスルモノトス。

F:保護者の負担

    児童一人当たりの月額経費は42円程度でしたが、保護者には一律10円を負担させ、さらに父親が応召中や戦死者の遺族家庭の児童の負担は免除されました。



昭和20年になると空襲が激化したため、更に疎開の強化要綱が策定されました。



(4)学童疎開強化要綱 ( 昭和20年3月9日、閣議決定 )

その要点は

    1. 現在空襲の頻発する地域の国民学校は、学校に於ける授業を停止する。

    2. これまで疎開から除外されていた、国民学校初等科1年、2年生は強力な勧奨により、縁故疎開を実施させる。

    3. 残留疎開をしていた3、4、5、6年生は縁故疎開か集団疎開に収容する。( 以下省略 )

(5)決戦教育措置要綱( 昭和20年3月18日、閣議決定 )

参考までに当時の小磯内閣は本土決戦必至の戦況から、
国民学校 ( 小学校のこと )初等科以外の授業を、向こう1年間停止する
旨の布告を出しました。その結果中学校、女学校に通う生徒は勤労動員をされて勉強をする代わりに、軍需工場などで生産労働に従事することになりました



目次へ 表紙へ 前頁へ