昔の、米国の運転免許試験

[ 1 : 敗戦後の自動車事情 ]

昔のバス 敗戦後の昭和 20 年代 ( 1945〜1954 年 ) の日本は、今では到底考えられない程貧しい状態でした。太平洋戦争の開戦前から石油の輸入が途絶えた為に、それを補う為に バスや トラックは木炭や薪を燃料にして ガスを発生させ、それで車を走らせていました。

バスの車体の後部や トラックの助手席の後方の荷台には、缶 ( カマ )と称する直径約 60 センチ、高さ 120 センチ程度の円筒形の ガス発生装置が装備されていて、上から木炭や長さ 5〜6 センチの立方体に切った薪を入れて蒸し焼きにして ガスを発生させて燃料にしていました。

そのためあまり スピードは出ず、走りながら途中で ガスが弱くなると車を道に止めて木炭や薪を補給して走りました。敗戦後も暫くは木炭や薪を燃料とする車が走る状態でしたので、私が高校を卒業した昭和 27 年 ( 1952 年 ) 当時の栃木県の栃木市には、営業用の トラックや オート三輪はあったものの、警察や市の公用車を除くと個人が持つ、いわゆる レジャーや通勤に使う マイカーなどは 1 台もありませんでした

[ 2 : フロリダ州の運転免許試験 ]

私は昭和 32 年 ( 1957 年 ) の 1 月に 23 才で渡米し、5 月に アメリカの フロリダ州で運転免許試験を受けましたが、48 年前に受験した時のことを記します。ご存じのように アメリカは合衆国と言われるように連邦政府に対して州政府の権限が日本では考えられないほど強く、州は最高裁判所や州兵まで持っていて、州により道路交通法規も異なり最高速度や運転免許試験の方法も異なります。

日本とは比較にならない程簡単な車検がある州も、全く無い州もありました。アメリカでの生活に車は下駄代わりの必需品でしたので、中古の車をある友人と共同出資して 300 ドル( 当時の為替 レートで 約 10 万円、大卒 サラリーマンの初任給の 手取り、 10 ヶ月分相当 ) で購入し、免許を持つ別の友人君に助手席に乗って貰い車の運転練習をしました。それと共に ハイウエイ ・ パトロール ・オフィスに行き、フロリダ州の交通法規などが書いてある無料の パンフレットをもらいました。

筆記試験問題はその中から必ず出るので、それを勉強すれば良いわけですが 30 分読めば内容が分かりました。 筆記試験を受けるには事前の申し込みや書類の申請はまったく必要なくしかも無料で 、休日以外はいつでも飛び入りで受験させてくれました。

ある日友人と 2 人で筆記試験の受験に行くと、立ったままで使用する机が 六卓あり、そこが試験場でした。女性の係員が試験問題を配りましたが、受験したのは我々 2 人と黒人の男性 1 名でした。問題は 25 問ありましたが常識的なもので、4 者択 1 の回答方法でした。

例えば交通事故を起こした場合には誰に最初に連絡するか?の解答が、

1:両親や友人

2:車の保険代理業者

3:自動車修理会社

4:警察官

の内から正しい答を選ぶというものでした。15 分程で答を記入し終わりましたが、隣の机にいた黒人が私の回答を見ては答を書き移していましたが、問題の種類が違うことに気が付かないようでした。書き終わるとその場で先ほどの女性が採点をしましたが、25 問中に 4 問以上間違えると不合格 で、友人と私は合格したものの、例の黒人は不合格になりました。

すると試験官から勉強して 3 日以上経ってから来いと言われていましたが、彼は半分以上間違えていたので、当時の アメリカ人に多かった文盲の部類 ではないかと想像しました。

アメリカでは高校の卒業証書( High School Diploma )を持つのを自慢にする者が何人もいましたが、その当時から日本では高校卒の学歴は他人に自慢できるほどの代物ではなかったので、戦勝国 アメリカの教育水準の低さを知って不思議な気がしました。

それだけではなく提出書類の最後には必ず、「 上記の内容を私は読むことができ、理解した 」と書いてあり署名する欄がありました。昭和 18 年 ( 1943 年 ) の統計によれば、 新聞が読めない白人が 15 パーセントいた と書いてありましたが、黒人ではその値がはるかに高かったはずです。


[ 3:仮免許 ]

筆記試験に合格すると直ぐに仮免許証 ( Temporary Driving Permit ) を渡してくれましたが、写真も貼ってない 二つ折りの小さな厚手の紙には注意事項として助手席には運転免許を持つ者を乗せること。それ以外の人間を乗せてはならないと書かれていました。実地試験に備えて友人に助手席に乗って貰い試験 コースとなる市内で運転練習をしましたが、路上運転は直ぐに慣れたものの、やっかいなのは縦列駐車でした。

なにしろ それまで日本で車を運転したことがなかったので、右 ハンドルだろうが 左 ハンドルだろうが関係ありませんでした が、歩道の縁石 ( カーブ、Curb ) に約 45 度の角度で バックで進入し、 「 適当な位置 」 に来たら ハンドルを左に切って車体を縁石に平行に駐車するのでした。しかし 「 適当な位置 」 というのがなかなか分からずに最初は苦労しました。


[ 4 : 車検と実地試験 ]

2 週間ほど運転練習をした結果どうやら出来そうになったので、実地試験を受けに行きました。 これも事前の申し込みとか書類の提出は一切必要なく 、自分の車で免許を持つ友人と一緒に パイウエイ・パトロールの事務所に行くと先ずは車検 (?)でした。ヘッドライトの点灯と ハイ ・ ロウの ビームの切り替えから始まり、ブレーキライト、方向指示灯が点灯するかどうかでしたが、 それで車検は終わりでした

次は実地試験でしたが試験官 ( 警官 )が助手席に乗り街の中を走るのです。途中で試験官が急停止を命じるので タイヤが滑らない程度に ブレーキを踏むことと、左折右折の際には、ウインカーは使用せずに、「 腕の信号 」 を使用しました。左折の際には左手を真横に伸ばし( 左ハンドル車 )、右に曲がる際には窓から出した左腕を肘の所で直角に上に曲げ、、停止する際には真下に下ろします。実地試験の際に ウインカーを使用しない理由は、ウインカーが故障した場合に備えて、腕信号を覚えさせる為なのだそうです。

街中を一周し、その間に停止標識のある交差点では完全に停止すること、速度制限が 25 マイル ( 40 キロ ) の住宅地域ではそれを守ことなどで 10 分足らずで終わり、いよいよ事務所横で縦列駐車の テストになりました。駐車 スペースに見立てた ポールが 4 本立っていて、その間に車を歩道の縁石と平行に駐車するのですが、駐車位置修正の為の前進は 1 度しか許されずやり直しは利きません。

縁石 ( カーブ ) に 45 度の角度で バックで進入し、運を天に任せて 「 適当な位置 」 で ハンドルを左に切 りながら バックを続けて ポールの手前で停止させ今度は前進しながら ハンドルを右に戻し、ぴしゃりと縦列駐車ができました。ヨカッタ。!

仮免許証の裏に 運転試験合格 ( Passed Driving Test )の ハンコ が押され、試験官の署名と日付が入ってこれが免許証になりました。つまり 免許証には写真が無く 、私の自筆の住所氏名、生年月日と署名だけでした。その為に前述した車の共同購入者のある友人などは運転免許が無いのに普段から車を運転し、ダッシュボードに常時入れておく私の運転免許証を、必要な際には警官に見せていました。

車の ナンバー・プレート その当時 フロリダ州では車の税金を徴収するのに、毎年新しい ナンバー ・ プレートを発行することによっておこなって来ましたが、ドライバーは新しい ナンバー ・ プレートを購入して付け替えるのです。古い ナンバー ・ プレートの更新期限が過ぎると ハイウエイ ・ パトロールによって摘発されて、罰金を課されました。

しかしその後は制度が変更されて資源の有効活用の意味から、プレートに徴税 ステッカーを貼ることにより、有効期間の延長が図られました。初心者 ドライバーにとって アメリカの道路は運転手の マナーが良いので走り易い状態でした。それに道路標識が完備しているのと、全ての南北の道路 ( Avenue )、東西の通り ( Street )に名前が付いているので道が分かり易い状態でした。


[ 5 : カー ・ クラー ]

私が 2 年間住んでいたのは夏は暑い米国南部の メキシコ湾に面した フロリダ州、アラバマ州、テキサス州でしたが、その当時市内で カー ・ クーラーが装備されていた乗用車はめったに無く、よほど裕福な人の車だけでした。その当時の クーラーの装置は今と違い トランクの中にあり、後方の窓 ガラス付近に冷気の太い透明の吹き出しパイプがあったので直ぐに分かりました。それに クーラーを使用すると パイプの付近の ガラスが、冷気による水滴で曇っていました。

現在の日本では クーラーの無い乗用車を探すのが困難な状態ですが、昭和 40 年 ( 1965 年 )当時の日本では クーラーは贅沢品で、冷房を装備した タクシーには冷房車の表示 ステッカーが貼ってあり、その車に乗ると料金とは別に冷房料金なるものを取られました。これが時代の進歩というものでしょうか?。


[ 6 : 夜間の交通裁判所 ]

その当時の米国には交通事故を起こし又は交通違反をした昼間働く人の為に、夜間の交通裁判所 ( Night Traffic Court )もあって、週に数回夜間にも開かれていましたが、ジャッジ ( 判事 )1 人による即決裁判なので、目撃証人などの証拠を用意することが必要でした。1 件につき 10 分から 20 分程度の短い時間でどんどん判決を下すという、まことに能率的な裁判でした。


[ 7:カリフォルニアの運転免許]

フロリダ州の運転免許は初めて免許を取った者の有効期間は 3 年で、それ以外は 6 年でしたが、2 年で日本に帰国した為に更新手続きをせずに期限切れになりました。昭和 47 年 ( 1972 年 )には カリフォルニア州に 1 ヶ 月滞在しましたが、その時は日本から持参した国際運転免許を使い運転しました。それ以後も アメリカに何度も行くようになったので、カリ フォルニア州で運転免許を取ることにしましたが、アメリカでの運転経験が十分にあったので、学科も実地も問題なく合格できました。

ただ以前と異なった点は受験の際に、社会福祉番号 ( Social Security Number ) という アメリカの全国民に付けられた番号を尋ねられたことでしたが、無いと答えたら O K でした。それに フロリダ州では無料だった免許費用が、有料の 3 ドル ( 750 円 ) となり、おまけに試験場で撮影した写真が免許証に貼り付けられたことでした。


[ 8 : 米国運転免許の日本での書き換え ]

日本の運転免許証 最初の渡米から 2 年後に帰国し、青森県の八戸警察署に免許証と パスポートを持参して、米国の運転免許を日本の免許証に書き換える手続きをしましたが、日本のお国柄のせいで ややこしい運転免許申請書や写真 2 枚、住民票などが必要になりました。

その警察署では昭和 34 年 ( 1959 年 ) 当時、海外渡航が自由化されていなかったので、米国の運転免許証をこれまで見た人は誰もいませんでした。運転免許課の警察官 4〜5 人が私の免許証を交互に試し透かしつつ質問しました。

警察官の問い:「 この免許ではどんな車が運転できるのか? 」

私の答:「 どんな車でも運転できます 」

警察官の問い:「 では大型車も運転できるのだな? 」

私の答:「 ハイ 」

かくして、めでたく 大型 1種免許 がもらえることになりましたが、本当は普通免許のはずでした。私の友人は 「 バスも運転できる 」 と答えて、 大型 2種 の運転免許を貰ったそうです。

しかし学科試験だけは受験するようにと言われましたが、当時の学科試験の 「 構造の問題 」 には、4 気筒 エンジン ( 当時国産で 6 気筒の ガソリン ・ エンジンの車は無かった ) の点火順序や前照灯の視達距離についての問題もあり、アメリカの簡単な学科試験とは大違いでした。当時も今も アメリカでは高校生の時から学校で交通法規を教え、16 才から制限付きで車の運転を認めていました。

運転免許の書き換えの際には折角大型免許をもらったものの、私にとっては 「 猫に小判 」で大型 4 輪車や大型自動 2 輪をこれ迄一度も運転したことがなく、今も 2,500 C C の乗用車と、 70 C C の原付 バイクに乗っています。

注:)
日本人が自由に海外旅行ができるようになったのは、日本経済が復興し、外貨の準備高が増えた昭和 39 年 ( 1964 年 ) からでした。



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