ところが米国では昭和 53 年 ( 1978 年 )に 航空行政に対する規制撤廃 がおこなわれた結果、航空事業に新規参入の会社が多数誕生し航空券の安売り、サービス合戦をした結果、大手も新規参入航空会社もその多くが経営に行き詰まり、共倒れの倒産をしました。これから述べる イースタン航空もその中で消えて行った航空会社のひとつです。( 写真は在りし日の イースタン航空の トライスター機、316 人乗りです )
ところで世界の航空界では年に 1 〜 2 回 飛行機内での出産が報告されていますが、その際に新生児の国籍の決め手になるのが航空日誌に記された出生時刻です。その時刻から入り組んだ国境付近でも飛行機の位置が判明し、出生した国を確定できるからです。
日本では国籍の取扱いに 属人主義 を採用していますが、英国では 属地主義 の考え方が強く、国籍付与については国内の出生だけに留まらず、英国籍の飛行機や船舶にまで大英帝国の領土 ( ? )とみなしています。もし日本人の夫婦が英国航空 ( 写真 ) に乗り、フランスの上空で奥さんが出産した場合には、生まれた子は日本、英国、フランスの 3 ヵ国の国籍が与えられます。しかも英国は二重国籍を認める国なので、その子は ペルーの フジモリ元大統領同様に、生涯 二重国籍のままでいられます。航空日誌は裁判の場でも、証拠力がある重要な書類とみなされます。
注:1 ) ちなみに英国人と結婚した日本人配偶者の 90 パーセントは日本と英国の二重国籍を保有していますが、その理由は国際結婚の離婚率が 50 パーセントと高いため、万一の場合に備えているのだそうです。国際結婚した場合の子供については、日本の国籍法では二重国籍の場合は 22 才に達するまでに片方を選び、他方を放棄することが義務付けられていますが、建前と現実とは差があります。法務省によると国際結婚の親から生まれた 二重国籍の子供は、現在約 40 万います。(平成17 年12 月3日、読売新聞) 注:2 ) 韓国では韓国人と正式結婚しても、 外国籍のままの配偶者には 就労権 さえも与えられません 。韓国の ヨンさまに憧れ 、韓国人男性と結婚し日本国籍を離脱した日本人女性が離婚した場合は、日本に帰国すると在留外国人扱いになります。自分の意志で離脱した日本国籍の再取得は決して生易しいものではなく、半年、1 年毎に在留許可申請書提出を何年も繰り返すことになりますが、その間仕事を求めて働くには更に 「 就労ビザ 」 の申請が必要になるなど、日本への帰化( 日本国籍の再取得 )の道は前途多難です。 参考までに国際結婚することと、本人の国籍とは全く関係がありません。外国籍の男や女と結婚しても、日本国籍のままでいられます。日本人と結婚し日本に住む外国人は、ほとんど外国籍のままです。選挙権が無いだけで永住権、就労権がもらえ、医療保険、年金にも加入できて、生活保護も受けられる点で、韓国における外国人配偶者に対する 非人道的法律上の処遇に比べて、天と地ほどの開きがあります。 外国人、特に在日に対する取り扱いは、 国際的に相互主義、互恵が大原則 であるにもかかわらず−−−です。
注:2 ) 韓国では韓国人と正式結婚しても、 外国籍のままの配偶者には 就労権 さえも与えられません 。韓国の ヨンさまに憧れ 、韓国人男性と結婚し日本国籍を離脱した日本人女性が離婚した場合は、日本に帰国すると在留外国人扱いになります。自分の意志で離脱した日本国籍の再取得は決して生易しいものではなく、半年、1 年毎に在留許可申請書提出を何年も繰り返すことになりますが、その間仕事を求めて働くには更に 「 就労ビザ 」 の申請が必要になるなど、日本への帰化( 日本国籍の再取得 )の道は前途多難です。
参考までに国際結婚することと、本人の国籍とは全く関係がありません。外国籍の男や女と結婚しても、日本国籍のままでいられます。日本人と結婚し日本に住む外国人は、ほとんど外国籍のままです。選挙権が無いだけで永住権、就労権がもらえ、医療保険、年金にも加入できて、生活保護も受けられる点で、韓国における外国人配偶者に対する 非人道的法律上の処遇に比べて、天と地ほどの開きがあります。
外国人、特に在日に対する取り扱いは、 国際的に相互主義、互恵が大原則 であるにもかかわらず−−−です。
アメリカ ・ ニューヨーク州 J F K (ケネディー) 空港発の フロリダ州 マイアミ行き イースタン航空 401 便の トライスター機が、昭和47 年 ( 1972 年 )12 月29 日の午後11 時42分 ( 東部標準時 ) 頃、フロリダ半島南端にある エバーグレイズ ( Everglades )国立公園にある湿地帯の中に墜落しましたが、マイアミ空港の西北西 17.8 マイル ( 33 キロ ) の地点でした。この事故で乗員乗客合計176 名 のうち103 名 が死亡し、 73 名 が重軽傷を負うという事故になり、安全とされた ワイド・ボディ( 広胴 ) 機による最初の墜落事故になりました。
私も昭和33 年 ( 195 8年 )の 1 月に小型機を操縦して マイアミ国際空港に着陸したことがありましたが、エバーグレーズやこの付近の沼地には、 ワニ がいるから気を付けるように教官に言われました。今では 20 万人の キューバ難民が住み治安が悪い マイアミ市内も、その当時の治安には問題ありませんでした。マイアミ ・ シティから入り江を挟んで沖にある マイアミ ・ ビーチには豪華 ホテルが立ち並び、アメリカ北部の冬の寒さを逃れてやってきた老人夫婦が大勢宿泊していました。
注:) ワイド・ボディ ( 広胴 ) 機とは、客室内の通路が 二列ある大型機のことです。
事故機は マイアミ空港に着陸のために車輪を降ろしたところ、機首車輪 ( ノーズ ・ ギア ) が完全に降りて ロックされたことを示す 緑色 の表示灯が点灯しなかった ため、いったん着陸を中止し自動操縦装置 ( オート ・ パイロット )を使用したままで上昇しました。その後 マイアミ管制塔の指示を受けて高度 2,000 フィート( 600 メートル ) で旋回しながら トラブルの原因を調べ、機首車輪が降りていることを航空機関士が確認しました。原因は機首車輪の ダウン・ロック( Down Lock )を示す緑灯の球切れしと判断し、豆電球の交換作業をおこなうことになりました。
写真は同型機の操縦席の計器板ですが、黄色の枠内にある 緑色 に塗った部分の球切れが悲劇の発端になりました 。その上部にある扁平で丸いのが、全車輪を上げ、下げするレバーですが、黄色の枠内にある 6 個の四角形はそれぞれ機首車輪、主車輪 ( 左右 2 個 )の ロック表示灯です。着陸の際に車輪を下げた状態 でロックされていれば、安全を示す 3 個の 緑灯 が点灯しますが、ロックされていなければ危険を示す 赤灯 が当該車輪の表示に点灯します。
ところが豆電球交換作業の最中に パイロットの 1 人が誤って操縦桿に触れてしかも前に押したため、高度を保持していた自動操縦装置 ( オート パイロット ) が解除されてしまい、機体は徐々に降下を始めました−−−。誰も気付かぬうちに!。
周囲は目印となる地上の灯火もない広い国立公園の湿地帯の上空で、水平線も不明な闇夜でしたが、暗い操縦室内で運航乗務員たちは飛行機の姿勢の変化にも気づかず、豆電球の交換作業に没頭し、高度計や飛行計器に注意を払う者もなく、衝突の寸前まで高度の変化に気付きませんでした。つまり401 便は運航乗務員たちの高度計に対する注意の欠落から、 墜落したのではなく 、 地上に衝突するまで正常な飛行を続けていたのでした。
右の写真は同型機の計器板上部 ( Glare Shield Panel ) にある 二重装備の自動操縦装置 ( オトーパイロット ) の操作部分の写真ですが、黄色の枠内にある 2 組の自動操縦装置( オートパイロット )の スイッチは濃霧や吹雪などの際に自動着陸する場合に使用し、通常は片方のみを使用します。写真では左側の スイッチが上にあるので、ナンバー・ワンの自動操縦装置( オートパイロット ) を使用して飛行中です。
この墜落事故の教訓からその後、意図的であろうとなかろうと自動操縦装置が解除されると、警告音を発して パイロットの注意を喚起するように システムが改修されましたが、最初からそのようになっていたらこの事故を未然に防ぐことができたはずです。
飛行機事故が起きる度に多数の犠牲者が出て墓石が立ち並ぶと、以前より 少しだけ 安全性が改善されることを 墓石の安全 ( Tombstone Safety ) と言いますが、最近の尼崎における列車脱線事故後に J R 西日本がおこなった、速度 オーバーの列車に対する ブレーキ機能を持つ新型 A T S の設置工事についても、同じことが言えます。
1903 年に人類で初めて 12 秒間空を飛んだのは自転車屋を営む ライト兄弟でしたが、写真は ライト兄弟の初飛行の様子で弟が操縦し、兄は右端に立つていました。 5 年後の 1908 年にライト兄弟の弟の オービル ・ ライトが墜落事故を起こし、同乗者の セルフリッジ中尉が世界初の飛行機事故の犠牲者となりました。それ以来飛行機事故が起きる度に得られた事故の教訓、経験を基にして、飛行機の安全性が少しづつ改善されました。
そのことは現在も続き平成12 年 ( 2000 年 )7月25 日に、パリの シャルル ・ ドゴール空港を飛び立った超音速機 コンコルド が、離陸滑走中に車輪の事故により異物を吸い込んだ左側の エンジンが 二つとも止まり、左翼からも出火した結果墜落炎上して乗客ら 114 人が死亡しました。この事故では狭い翼下面に主車輪と エンジンを間近に設置した設計上の不具合 ( 事故の危険性 ) が指摘されました。巨額の開発費を掛けて製造したものの超音速機運航の不採算性から、英仏以外のどこの航空会社からも注文が無く、僅か 20 機作っただけで生産中止に追い込まれましたが、この事故により コンコルドは 引退することになりました。
23.41:47 マイアミ管制塔: Eastern 401 turn left heading one eight zero ( イースタン401 便、左旋回して針路180 度にせよ )
23.41:50 機長の会話の声: Huh? ( エ−?)
23.41:51 イースタン401便からの無線送信:、 One eighty ( 針路180度 )
23.42:05 副操縦士の会話の声: We did something to the altitude ( 我々は高度を変更したのですよね −)
機長の会話の声 What?: ( 何だって? )
23.42:07 副操縦士の会話の声: We're still at two thousand right? { 我々はまだ高度2000 フィート、( 600 メートル )を維持しているわけですが、そうでしょ?}
23.42:09 機長の会話の声: Hey, what's happening here? ( ヘイ、これはどうなっているんだ? )
操縦室内の音声を記録するために頭上の計器 パネルに設置された エリア・マイク ( Area mirophone )は、機長か副操縦士のいずれかが: [Sound of click] マイクのボタンを クリックした音を記録
23.42:10 同上: [Sound of six beeps similar to radio altimeter increasing in rate] ( 機体の降下率が増大した際に、電波高度計が出す警報音に似た、「 ビ−プ 」の断続警報音 6 回)を記録
23.42:12 : [Sound of impact] 地上との衝突音を記録
[ 6:幽霊の出現、その1 ] 墜落事故からしばらく経ったある日のこと、イースタン航空の トライスター、318 号機が マンハッタンの西側にある ニュージャージー州の ニューアーク空港から マイアミに向けて出発準備をしていると、乗客の搭乗前に ファースト ・ クラス席に 1 人の男が座っているのを、担当の スチュワーデスが気付きました。しかもその男は イースタン航空の機長の制服を着ていました。今日の乗務を終了し明日の乗務に備えて客席に乗り移動する乗員 ( 業界用語では クルーの頭数に入らないので、Dead Head = 死んだ頭、または便乗といいます ) かも知れないので、チーフ ・ スチュワーデスに連絡しましたが、チーフ が念のため男に話しかけると、その パイロットは前を向いたまま一言も返事をしませんでした。
男の様子が変なので操縦室の機長に報告に行き、機長が操縦室から出て来て、その男に話しかけようとしたとたん、機長は驚きの声を上げました。「 あれ、ボブ じゃないか! 」。その男は 401 便で殉職したはずの、機長の ボブ・ロフト ( Bob Loft ) でした。
更に不思議な事が起きました。そこに座っていた 「 ボブ 」 の姿が 一瞬にして消えてしまいました。あまりのことに周囲の スチュワーデスが驚愕し、動揺したため機長は運航事務室に行き、整備員に機内の捜索を求めました。くまなく捜索しましたが、「 ボブ 」 の姿は機内のどこからも発見できませんでした。この出来事は数時間の内に イースタン航空の社内だけでなく、他の航空会社にまで広がりました。
女性客は気を利かせて スチュワーデスを呼びました。座席にやって来た スチュワーデスに事情を話し、スチュワーデスが男に声を掛けたとたん、大勢の人が見ている中で男の姿が急に消えました。後になって女性客と スチュワーデスは、イースタン航空の航空機関士の写真の中から、その時の男が殉職した 「 ドン ・ レポ ( Don Repo ) 」であったことを確認して、ゾーツとしました。
昭和49 年(197 4年 )の 2 月に航空機関士 「 レポ 」 の幽霊が、今度は メキシコ・シティに向けて出発準備をしていた 318 号機の機内厨房室 ( ギャレー、Galley ) に現れました。私も同型機の機長経験がありましたが、その当時の旅客機では ギャレー は 一階客室と同じ床面にあるのが普通でした。しかし トライスター機だけは特別で、ギャレーが客室の床下に設備されていました。
ギャレー には電気 オーブン、電子 レンジなどがありましたが、トレー( Tray、乗客に配る食事を載せる長方形のお盆 ) に載せた機内食を、カート ( 台車 ) に格納したままで メイン ・ ディッシュ ( 主采 ) だけを加熱する、シングル サーブ ・ カートなどの 「 優れもの 」 もありました。
客室中央部には 2 基の リフト ( Lift 、エレベーター ) があり、それを利用して客室乗務員が階下の ギャレー へ移動したり、食事を搭載した フード ・ カート ( Food cart 、食事運搬用台車 )、飲み物や アルコール類を積んだ リカー ・ カート( Liquor cart、飲み物用台車 )を階下の ギャレーから 客室に運んでいましたが、フード ・ カートには エコノミー ・ クラスの食事であれば、1 台につき約 30 人分の食事を搭載していました。
ギャレーの床には数百人分の食事を温める為の大型電気 オーブンが 4 〜 6 台程度並んでいましたが、背の高い外人女性が乗務する外国機では、上下に オーブンが配置されている機体もありました。
スチュワーデスの 1 人が ギャレーで作業をしながら、何気なく 一つの オーブンの窓をみると、その中に航空機関士の制服を着た男の顔が、じっと彼女を見ているのに気が付きました。窓に映った誰かの影かと思い振り返ると、そこには誰もいませんでした。オーブンの窓 ガラスに映った男の顔に驚いた スチュワーデスは、慌てて エレベーターに飛び乗ると、上にある客室に逃げ戻りました。
別の スチュワーデスに助けを求めて 2 人で ギャレイに降りてみると、やはり オーブンの中には男の顔がありました。パニック状態になった 2 人は操縦室に電話をして、そこにいた航空機関士に事情を話しました。彼が確認のため ギャレーに降りてきましたが、そこで見たものは オーブンの中にある男の顔でした。次の瞬間男ははっきりした声でこう言いました。 注意しろ、この飛行機は火災の危険があるぞ! 。それと同時に オーブンの中の顔は跡かたもなく消えてしまいました。結局 318 号機はそのまま離陸して、メキシコ ・ シティに無事に到着しました。
ところが マイアミへの帰途に、男が予言した通りに飛行中一つの エンジンが火災になりましたが、機長は緊急操作手順に従い エンジンへの燃料供給を止め、エンジンの消火装置を作動させて火災を無事に消しました。
注:) ギャレー の数について現在では機種により異なりますが、ファースト・クラス、ビジネス、プレミアム・エコノミー、エコノミーなどの客室 クラス分けの多様化と、アッパー・デッキの使用、バー・コーナの設置などにより、長距離を飛ぶ国際線の大型機では、8 箇所 ( 他に バー・コーナーなど 2 箇所 ) 程度装備しているのが普通です。
しかしその後の運賃値下げ競争、サービス合戦の結果会社の採算が悪化し共倒れとなり、 50 もの航空会社の合併吸収がおこなわれて、 イースタン航空は 1989 年 に破産を宣告され、1991 年には遂に姿を消しました 。 パンナム、T W A 、ブラニフ、ナショナル航空 など米国で名の通った大手の航空会社も生き残れませんでした。コンチネンタル航空などは 1983 年と1991 年の 2 度も破産しましたが、1993 年には不死鳥の如く再生しました。
イースタン航空が所有していた 318 号機を含む トライスターは、次々に ホンコンの キャセイ航空に売却されましたが、そこでは最早幽霊が出ることはありませんでした。そしてキャセイ航空も後に新型機を導入した結果、平成 8 年には トライスターの運航に終止符を打ちました。
行き場が無くなった航空機は雨が降らない米国 アリゾナ州や、ニューメキシコ州の砂漠にある 飛行機の墓場 に運ばれて、そこで部品再利用の対象にされます。年数が経ち既に メーカーが製造中止をした機体の計器類や数多くの部品を機体から取り外して、中古部品として弱小航空会社に販売供給するのに使われ、最後は スクラップにされます。
私は平成の初めに、日本から アリゾナ州の メキシコ国境に近い ツーソン ( Tucson ) にある飛行機整備工場に飛行機を数回空輸し、また整備や修理済みの飛行機を日本に空輸したことがありましたが、写真はその際に郊外の砂漠にある 「 飛行機の墓場 」 の一つを車の中から撮影したものです。
そこには使用済みの民間機や軍用機が何百機も並べられていて、世界各地から訪れる機体や部品の買い手を待ち受けていました。舗装されない地面に置かれた飛行機を見たのは、これが初めてでした。
注:)日本の航空会社では人件費が高い自社で機体の オーバーホール整備や大修理をするよりも、空輸費用 ( 主に燃料代 ) を掛けても、アメリカや中国の整備会社に外注した方が経費節減になったのだそうです。
民間航空機の設計上の耐用年数は 一般に 20 年 といわれますが、主に集客上の理由から通常は 10 年前後で新型機や新しい機体に入れ替えます。太平洋戦争中に 1 万機以上作られた傑作機の D C−3 型旅客機/輸送機は、マクダネル社に合併された今は無き名門の ダグラス社製で、愛称を ダコタ( Dakota、空軍名 C−47、海軍名 R4D ) といいましたが、驚くことに最近まで 60 年近くも 南米、アフリカなどで飛んでいました。
ということは余程機体の作りが頑丈で、しかも故障が起きにくい 「 シンプル( ロウ ・ テク ) な構造 」 であったということですが、エンジンを含め整備に必要な部品は、飛行機の墓場から調達したものに間違いありません。写真は飛行機の墓場に置かれた DC−3 型機。