同様な残虐行為は ニューギニア近海でもおこなわれました。昭和 18 年 3 月 3 日に起きた ビスマルク海戦 ( 空襲 )の結果、陸軍の兵士を乗せた輸送船 8 隻と駆逐艦 4 隻が敵機の攻撃により沈められました。
、アメリカと オーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、映画撮影の カメラマンまで乗せて何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。
( 2 )、米海兵隊兵士による蛮行
昭和 17 年( 1942 年 ) 8 月 17 日の早朝、カールソン中佐率いる海兵隊は、西太平洋の ギルバート諸島の マキン島にある日本軍前哨陣地を攻撃し、守備隊を全滅させました。しかし彼等が戦場で敵の遺体におこなった蛮行は、アメリカ海兵隊の歴史に恥ずべき汚点を書き加えました。
これが手始めとなり、その後の太平洋各地での戦場から ベトナム戦争に至るまで、米軍兵士による敵の遺体を冒涜する行為は、各地で続けられましたが、いずれも人種的偏見、蔑視に基づく行為でした。
( その 1 )
ルーズベルト大統領の息子で海兵隊大尉の ジェームズ ・ ルーズベルトも加わっていた カールソン襲撃隊は、戦死した日本兵の 死体を切り刻み、男根と睾丸とを 日本兵の口中に詰め込んだ 。
太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、またテレビの連続番組 ( 戦線、Battle-Line ) の プロデューサーである シャーマン ・ グリンバーグが、20 年後に カールソン隊員の 1 人にその時の模様を ( テレビ で) 詳細に語らせている。その隊員は戦友たちのやった蛮行を写真に撮っていた。
( ジョセフ ・ ハリントン著の 「 ヤンキー・サムライ 」 から )
( その 2 )
マキン島へ救援に赴いた私 ( 谷浦中尉 )は、戦場で妙なことに気が付いた。どういうものか仰向けになった屍体が 15〜6 あり、しかもすべて下腹部を露出している。死後 1 週間経っていたため原形は完全に崩れていて、顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。
どうしてこんな格好をしているのだろう。被弾して苦痛のあまり無意識に ズボンをずり下げたのか?。アメリカ兵といえば キリスト教徒であり、日本人以上に文明人とみなされ、しかも選りすぐった精兵とこの種の蛮行を結びつけることなど、遺体収容作業に当たった誰 1 人として思いつく者はいなかった。
戦後 50 年経って意外な事実を知り、愕然とした。それは マキン襲撃の際に行われた 海兵隊の蛮行を物語る、翻訳された出版物を読んだからである 。
( マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英夫著 )
( その 3 )
作家上坂冬子の著書によれば、硫黄島の洞窟内から戦後米兵により持ち去られた日本兵の頭蓋骨は 1 千個 にもなる。彼等はそれで ロウソク立て、灰皿や ペン皿を作ったといわれ、また硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するものが、ロサンゼルスの骨董店で 1 個 25 ドル で売られていた。( 硫黄島いまだ玉砕せず )
( その 4 )、リンドバーグが見たもの
1927 年 ( 昭和 2 年 ) に チャールズ ・ リンドバーグは ニューヨークから パリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功したが、この偉業は後に 「 翼よあれが、パリの灯 ( ひ )だ 」の題名で映画化された。
彼は 1944 年 ( 昭和 19 年 ) に ニューギニアの米軍基地で陸軍将校として 4 ヶ月過ごしたが、その体験を日記に記して後に「 第 2次大戦日記上巻、下巻 」として出版した。( この本は私が読んだ後に、どういう理由からか絶版になった )
それによると彼は戦場で見たものに ショックをうけた。それは兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、 米兵が日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。
たとえ敵味方に別れて戦い軍服に違いがあるとしても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命は使命として認めなければならないにもかかわらず、太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情の カケラもないことを発見した。
そこでは士官も兵士も日本人に対する人種差別、蔑視から自分達と同じ人間とは考えず、 人間以下の 単なる動物 としか見ていなかった。
さらに ドイツ人が ヨーロッパで ユダヤ人に対して 行ったことを、われわれ アメリカ人は 太平洋で 日本人 に対して行っている と記していましたが、ニューギニア戦線において捕虜となった日本兵の数がなぜ少なかったのか、その理由は以下を読めば納得できます。
Yellow Monkey ( 黄色い猿 )
1944 年 ( 昭和 19 年 ) 6 月 21 日の日記には、日本人捕虜に タバコをやり、気がゆるんだところを後ろから押さえ、のどを 「 真 一文字にかき切った 」というのを、日本兵捕虜殺害の 一例として教えてくれたある将軍との会話を要約している。残虐行為に対する リンドバーグの異議は、嘲笑と 「 あわれみ 」をもって軽くあしらわれた。
6 月 26 日の彼の日記には日本兵捕虜の虐殺、および被弾した飛行機から脱出し パラシュート降下中の日本航空兵の射殺について述べている。降伏し捕らえられた 2 千 数百人 という日本兵捕虜のうち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か 100 人か 200 人に過ぎなかった 。残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告された。
「 仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたという話が日本兵に広がれば、投降しようという者などまずいなくなるだろう 」と リンドバーグは聞かされた。つまり 黄色い猿 に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な手間や面倒がはぶけるという理由からであった 。
7 月 13 日の日記では、
「 われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を射殺することをなんとも思わない。彼等は ジャップに対して、 動物以下の関心しか示さない 。こうした行為が大目にみられているのだ。」
と記されていた。
8 月 30 日に リンドバーグは、中部太平洋 ギルバート諸島にある タラワ環礁 を訪ねた。そこでは日米の激戦が行われ米軍も甚大な死傷者が出たのだが、日記には、捕虜になった数少ない日本兵を 一列に並べ、尋問に英語で答えられる者だけを残し、あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。
ある仲間の パイロットから直接聞いた話によれば、後ろ手に縛られた日本人捕虜達を輸送機に乗せて収容施設のある地域に輸送する際に、 彼等を飛行中に突き落とす行為がおこなわれた 。そして報告書には捕虜全員が自分から飛び降りたと記録された。( 以上、第 2 次大戦日記、チャールズ ・ リンドバーグ著 )
捕虜を取らない、とは
ニューギニア戦線での オーストラリア軍や マッカサー指揮下の第 41 師団は、
「 捕虜を取らない 」 つまり武器を捨て両手を上に挙げて降伏しようとする日本兵や、既に降伏した日本兵 を殺するので有名だった 。
軍事歴史家 デニス ・ ウォーナーは 1982 年に出版した日本の特攻隊に関する本の中で、ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、 オーストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃する。
「 しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦場で、部下の大佐が司令官に反論した。
「 私の言うことが聞こえただろう 」 と、両手を挙げた日本兵からわすか数 ヤード離れただけの少将 ( 司令官 )は答えた。「 捕虜はいらない。全員射殺してしまえ 」。そして彼等は撃たれた。
日本軍も負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関する情報をつかんでいて、戦時中の日本からの対米宣伝放送 ( 東京 ローズ )では、第 41 師団のことを
「 屠殺者、Slaughterer 」と呼んでいた。
終戦直後ある米陸軍大尉が公表した記事には、 第 41 師団、捕虜を取らず という堂々たる見出しが付けられていた。
この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。( 容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、カリフォルニア大学教授 ジョン ・ ダワー著 )
病院に対する爆撃
昭和 19 年 ( 1944 年 ) 5 月 24 日に ブーゲンビル島 ラバウル基地にあった第 8 海軍病院が、米軍機による攻撃を受けて、
患者、看護婦、医師ら 1,400 名が死傷した 。病院の屋根には国際法の定めに従い、上空からよく見えるように
赤十字の標識 を大きく塗装していたにもかかわらず、それを無視して病院の建物に対して爆撃や銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこなった。
それ以後日本軍は病院施設に対する国際法違反の攻撃を防ぐために、地下壕や洞窟内部に病院を設営することにした。
遺体を損壊する行為
日本兵を自分達と同じ人間とは見なさない連合国兵士による、死体や死にかけた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集し、戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたことも、米国民の間で戦時中からよく知られていた。
写真は ニューギニア戦線から アリゾナ州 フェニックスに住む恋人の ナタリー ・ ニッカーソン ( Natalie Nickerson、20 才 ) 宛に送られてきた、 日本兵の頭骸骨ですが、受け取る方も受け取る方で、しかも ナタリーは頭蓋骨を見ながら恋人に ラブレターを書いていました。
これを見れば人間ではなく
黄色い猿 に過ぎない 日本兵に対する残虐行為は至極当然であり、有色人種に対する蔑視が納得できます。
日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士達の会話を、ジャーナリストの リチャード ・ トレガキスが記録している。
「 ジャップは金歯をたくさん入れているそうだが、それを頂いて ネックレスでも作るかな 」 と 1 人が言う。
「 おれは奴らの耳を持って帰るよ 」 ともう 1 人が宣言する。「 塩漬けにしてな 」。( ガダルカナル日記、1942 年 )
戦後出版された水兵の日記の 1944 年 ( 昭和 19 年 )7 月の記述に、すでに
17 個の金歯を集めた海兵隊員がいて 、その最後の金歯は サイパン島で負傷してまだ手を動かしている日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出して取ったものだ、と事もなげに述べられている。( 容赦なき戦争、ジョン・ダワー著 )
太平洋の激戦地 ペリリュー島 および沖縄で、日本兵の死体から
手を切り取って戦果の トロフィーとする、金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、恐れおののく 沖縄の老女を撃ち殺し 、 「 みじめな生活から、解放してやっただけだ 」
と気にも留めない海兵隊員の様子を目撃した。( E ・ スレッジ、生物学者、1981 年に出版の回想録 )
( その五 )
フィリピンの ラグナラ州 カランバには日本兵を収容する ルソン第 1 捕虜収容所があったが、ここは フィヒリピンにおける最大規模の収容所であった。
米軍の発表によれば収容された捕虜のうち 、戦争が既に終了した昭和 20 年 ( 1945 年 ) 末までに、
栄養失調で死亡した日本兵捕虜は 1 万 2 千人 にものぼった。
もし日本側の捕虜収容所がこのような米兵の大量死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B C 級戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑になったことは間違いない。しかしここの米軍責任者は誰も罪を問われなかった。
そこには 「 バターンの死の行進 」 に対する 復讐の意図から 、敗戦後も栄養失調状態であった 多数の捕虜 に対して必要な食糧補給をしなかったからである。( 孤島の土となるとも、 B C 級裁判 )
( その六 )
ベトナム戦争においてもかなりの数の アメリカ軍兵士が ベトナム人の頭蓋骨を収集していたが、アジア人が アメリカ人兵士の死体に対してこのようなことをすれば、アメリカではどんな反応が起きるかは、考えてみる価値があるだろう。
( 米英にとっての太平洋戦争、下巻 )
太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、
人種差別に根ざすもの だと英国人 ジャーナリストの ラッセル ・ スーパーは述べています。
「 アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに、 気がとがめなかった 。彼らは太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた。新聞の大見出しになる種を探している アメリカの高官連中は公然と、日本人を殺すことは シラミ を殺すよりも悪いことではないと言明した。
この残虐性 は 4 ヶ月後に 広島、長崎でその頂点に達する ことになる。」( 著書、戦艦大和の運命 )