麻 酔 の 話
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[ 1 : はじめに ]![]() [ 2 : 人 類 最 古の医薬 ]![]() 原始社会における集団の首領や部族長などは、 呪術的 能力 や 宗教的権威 を以て 統治能力を補ってきま したが、『 三国志 』 の 魏 書 ・ 東 夷 伝 ・ 倭 人 条 ( いわゆる、 魏志倭人伝 、ぎ し わ じんでん ) によれば、 其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰 卑 彌 呼 事 鬼 道 能 惑 衆--ー [ その意味 ] その国 ( 倭 国 ) には もともと 男子の王 が置かれていたが、国家成立 から 70 ~ 80 年を経 た頃 ( 紀元 156 ~ 189 年 ? ) に 倭 国 乱れ、歴年におよぶ戦乱の後、女子を共立 し 王 と した。その名は 卑 弥 呼 ( ひ み こ ) である。 女王は 鬼 道 ( シャーマニズム 的な 呪 術 ) によって人心を 掌握 し 、 ---とありま した。 また皆さん 御存 じの 清少納言 ( 966 年頃 ~ 1025 年頃 ) の 随 筆である 『 枕草子 』 の中にも、 「 病 は ~ 」 で始まる 一節があります。( 角川 ソフィア 文庫 ・183 段 ) 病は胸、 ものの け 、脚 の け、さては ただ そこはかとな くて もの食はれぬ ここち。 十八、九 ばかり の 人の 髪 いと うるは しくて たけばかりに、すそ いとふさやかなる、いとよう 肥えて、いみ じ う 色白う 顔 愛敬 ( あいぎょう ) づ き よ しと見 ゆるが、 歯を いみ じ う 病 みて 額 髪 も し とどに 泣き 濡 ら し、乱れかかるも 知らず、面 ( お も ) も いと赤 くて、おさへて居たるこそ い と を か し けれ 。 [ その意味 ] 病気 は、胸。もののけ ( 物 の 怪 ) 。脚 の け ( 気 ) 。その 他 は、ただどこか が 悪 いと いうのではな くて、物 が食 べられないような気持ちのふさぎこみ。 十八 か、十 九 歳 くらいの人で、髪 がとても美 し くて、身の丈 ほどの長さがあり、すそも ふっさり して いて、とてもよく 肉がついて肥えて いて、色がとても 白 くて、顔 も 愛 嬌 が あって、 良 いように見える女 性 が、 歯がとても 痛 くて 額 髪 ( ひた い がみ ) も 涙 で びっ しょりと 泣 き 濡 ら し、顔 に乱れ かかるのも知らない と いう感 じで、顔 もとても赤 く、痛 む所を押さえているのだ が、そんな姿 に とても 風情 ( ふぜい ) があ る 。とありま した。 しか し 泣くほど 虫 歯 を痛 がって いる 女性 の姿 に 「 風情や、おもむき 」 を 感 じ る 清少納言 の 美 的 感 覚 については、 教養 がな い 8 3 歳 の 老 爺 ( ろうや ) に は、少 しも 理解 できませんが---。貴方 は いかが ですか?。 呪術や 祈祷 ( きとう ) だけでは体の 不調 はともかく、痛み自体は本来除去できないので、やがて痛みの軽減 に効果があると思われる 薬用植物 ( 草 根 や 木 皮、Medicinal plants ) を求めて野山を探 すようになりま した。その結果 東洋や西洋では古くから、 「 ヤナギ の枝 」 が鎮痛剤 と して用いられるようになりま した。 例えば紀元前 五世紀頃 ギリシャ で活躍 し、現在でも医学の父と呼ばれ欧米では医師と しての心得 を示 したとされる ヒポクラテス の 誓 い で有名な医師 ヒポクラテス ( 紀元前 460 年頃 ~ 前 375 年頃 ) は、 柳の樹皮 に鎮痛作用のあることを述べています。 彼の 「 誓い 」 については時代遅れとする批判があり、医師のあるべき姿が 1948 年の第 2 回 世界医師会 総会で 医の倫理 と して規定されま したが、「 ヒポクラテス の誓 い 」 の 倫理的 精神を 現代化 ・ 公式化 したもので、下記にあります。 ( 2-1、ケ シ と、 ア ヘ ン ) ![]() ![]() ![]() ![]() ケ シ は 気 が 長 い。一度 ア ヘ ン を吸 飲 した者は、また飲 むはずだ。 ア ヘ ン は、待つことを知っている。一度 ア ヘ ン を知ったあとでは、 ア ヘ ン 無 しで 生きることは難 しい 。と 記 していま した。 [ 3 : 中国の古代医薬 ]中国で医薬の祖とされるのは、古代中国において伝説上の 三 皇 五 帝 ( さんこう ごてい ) の 一人とされた 神 農 ( しん のう ) で した。彼は人々に医療と農耕 の術を教えたとされ、中国では 「 神 農 大 帝 」 と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされて います。 前漢時代の皇族で 淮河 ( わいが ) 以南、揚子江以北の淮南 ( わいなん ) 地方を治めた 淮南王 ( わいなん おう ) であり学者であった 劉安 ( りゅう あん ) が、学者を集めて編纂させた思想書である 淮 南 子 ( えなん じ ) の 脩務訓 ( しゅうむくん、人と しての在り方 ) によれば、神 農 は山野を駆け巡り百草 の 滋味 を嘗 ( な ) め、一日に して 七十 毒に 遇 ( あ ) う つまり 一日 百回も 草 根 木 皮 ( そうこん もくひ ) を 舐 ( な ) めては、その 薬効 の有無 を確かめたとされ、毒草の毒などに当たって何度も倒れては、薬草の力で再び甦 ( よみがえ ) った。とされて います。しか し 神 農 はあまりに多くの毒草を賞味 して薬効の有無を調べたために、体内に毒素が溜まり、それが原因で死亡 したといわれています。 中国最古の薬学書である「 神 農 本 草 経 」 ( しんのう ほんぞうきょう ) は神 農 氏の後世の作とされますが、実際の撰者は不詳で、本 草 ( ほんぞう ) とは、薬物のことです。 それによれば 3 6 5 種の薬物を 上品 ( じょうぼん ) ・ 中品 ( ちゅうぼん ) ・ 下品 ( げぼん )の 三 品 に分類 して記述 していますが、
[ 4 : 名医の 華 佗 ]後漢 末期の中国には 華 佗 ( かだ、華 陀とも書く、生年不明 ~ 208 年没 ) という 名医がいて 麻酔薬を使って 手術を行い、多くの人命を救ったという話がありま した。 しか し 華 佗 ( か だ、 ) が発明 し手術に使用した麻酔薬 の 麻 沸 散 ( まふつさん ) の作り方は、薬草の曼 荼 羅 華 ( まんだらげ、朝鮮 アサガオ ) が用いられたと記されているだけであり、ほとんど実態は不明で した。 後漢 末期 から三国時代 にかけての武将で、後に 蜀 漢 ( しょく かん ) の初代皇帝となった 劉 備 ( りゅうび ) に仕えた 三国志 の英雄 の 一人である 関 羽 ( かんう ) が、戦闘の際に腕に毒矢を受けま したが、名医 の 華 佗 ( かだ ) が 関 羽 の肘 ( ひじ ) を切り開き、骨を削る大手術を しま した。 その時の様子が、 三 国 志 演 義 ( えんぎ、小説 ? ) の、 「 第 七十五 回、 関 雲長 刮骨療毒 呂子明白衣渡江 」 に記載されていますが、 雲 長 とは 関 羽 の 字 ( あざな ) です。とありま した。もちろんこの時も、 局 所 麻 酔 薬 を使用 した のに違 いありません。 ちなみに華 佗 ( か だ、 )は、中国の 薬 学 ・ 鍼 灸 ( しんきゅう、ハ リ とお灸 ) に非凡な才能を持つ伝説的な医師で 、麻酔を最初に発明 したのは 華佗 とされており、「 麻沸散 」 ( まふつさん ) と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行ったと いわれて います。 彼は のち に 当時 武将であった頭痛 持ちの 曹 操 ( そうそう、魏の 始 祖 ) の侍医 となりま したが、彼の怒りに触れて獄中で非業の死を遂げま した。 [ 5 : 麻 酔 の歴 史 ]人類にとって 疼 痛 ( とうつう、ずきずきする痛み ) は最も不快な感覚なので、この痛みを除 くために 人類は太古から薬草探 しを してきま した。その結果 ケ シ ・ タ イ マ ( 大麻 ) ・ 朝鮮 アサガオ などに鎮痛 ・ 催眠作用があることに気付きま した。前述 した ス イ ス の新石器時代の遺跡や、メ ソ ポ タ ミ ア 文明の 「 くさび形文字 」 で書かれた粘土板の存在により、当時から ケ シ ( ア ヘ ン ) の使用を知ることができます。![]() これを混 ぜた 酒 を飲んだ者は 、目の前で家族が 殺 されても、一日の間は 涙 を 落 とすことがな い。とありま したが、これは アヘン の 陶 酔 ( とうすい ) 作用 を 描写 したものとされています。 この 「 ケ シ 汁 」 のことを キリシャ 語で オ ポ ス と呼びま したが、ここから ア ヘ ン のことを ラテン 語で、後には英語で も オ ウ ピ ア ム ( O pium ) と呼 ぶようになりま した。 西洋文明 の 源流となった古代文明の 発祥地 ギリシャ も、 紀元前 4 世紀 には 衰 亡 ( すいぼう、 Decline and Fall ) して 他国に支配されま しが、それにより ア ヘ ン の 効能 が 「 再発見 」 され、多くの医師が 鎮 痛 剤 あるいは 睡 眠 薬 と して利用 しま した。 九 世紀以後 科学 の中心は イスラム 圏 に移りま したが、 1096 年から 1291 年まで 7 回にわたりおこなわれた 「 異 教 徒から 聖 地 エルサレム を 奪 還 する 」 目的でおこなわれた 十字軍の遠征は失敗 し、ローマ 教皇の権威は大きく失墜 しま した。 しかし イスラム 文化 ・ ビザンツ ( 東 ローマ 帝国 ) 文化 ・ ギリシャ 文化 など 異文化 の 交流 を 促進 し、この時に ア ヘ ン も 再度 ヨーロッパ にもたらされま した。 ( 5-1、パ ラ ケ ル ス ス ) ![]() ( 5-2、夢の神 の名前から ) ![]() [ 注 : 単 離 ( たんり、Isolation ) とは ] 様々なものが混合 している状態にある物質から、その中の 目的物質 だけを純粋な物質と して分離 し取り出すこと をいう。 彼は アヘン に 酸と塩基 ( えんき、酸 と対になってはたらく物質のこと ) を順次加えることで不純物を除去 し、有効成分 ( モルヒネ ) だけを 結晶と して取り出すことに成功 した。 ![]() [ 6 : ヨーロッパ 医学 の日本伝来 ]貿易商で医師の ポルトガル 人 ルイス ・ デ ・ アルメイダ ( Luis de Almeida、1525 ~ 1583 年 ) は、航海中に フランシスコ ・ ザビエル の弟子であった修道士の グループ と出会ったことが契機となり、彼らと共に日本に上陸 しま した。イエズス 会の宣教師 と して 領主 大友義鎮 ( おおとも よ し しげ、= 宗麟、 そうりん の法号で知られている ) の援助を受けて、 弘治 3 年 ( 1557 年 ) に豊後国 府内 ( ふない、現 ・ 大分県 大分市 ) に 日本で最初の 西洋式病院 を開設 しま した。 アルメイダ が外科を担当 し、日本人医師の キョウゼン ・ パウロ が 内科を、後 に ミゲル ・ 内田 トメー が漢方医学で診察をおこないま した。 病院は 開院早々から患者で盛況 となりま したが、日本最初の 洋式 外科手術 も盛んに行われ 開院 5 年後には入院患者が百人を超えて いたとされます。 また、病院に来ることのできない患者のためには巡回診療も行われて いま したが、この病院には 日本最初の 医学校 が併設され、若 い日本人 医学生が西洋医学を学びま した。![]() ( 6-1、オランダ 商館 医 の カスパル ) 西洋医学を日本に伝えた主役は、長崎 出島の オランダ 商館に勤務 した 医師 たちで した。寛永18 年 ( 1641 年 ) に オランダ 商館が 平戸 から長崎に移転 して以降、約 二百年間、ほぼ毎年 1 ~ 2 人の医師が来日 しま したが、その人数は 合計 6 3 人に達 します 。 慶安 2 年 ( 1649 年 ) に来日 した カ ス パ ル ( Caspar 、1623 ~ 1706 年 ) も そのうちの 一人で した。 彼は新任の商館長と共に 江戸参府 ( 注 参照 ) に同道 して、 医学伝授のために 江戸滞在を命 じられ 10 ヶ月滞在 しま した。 翌年春も江戸に参府 して西洋の医学を日本人に伝授 し、幕府要人の診察に 当たりま した。彼以外にも文政 6 年 ( 1823 年 ) に オランダ 商館医と して来日 し、出島外 に 鳴滝塾を開設 し 、日本人に西洋医学 ( 蘭学 ) 教育を行った医師の シーボルト なども有名です。 [ 注 : 江戸参府 ( えど さんぷ )] 長崎 出島にある オランダ 商館長が 最初は毎年、後には 4 年に 一度、貿易 の 維持 ・ 発展を願って江戸 へ参り、将軍と 世子 ( せいし、あとつぎの子 ) に対 して 拝謁 ( はいえつ ) し、献上物の呈上 ( てい じょう、差し上げる ) を行った。その際には、老中や若年寄といった幕府の高官たちへも進物を贈った。 商館長の 「 御 礼 」 に対 して江戸幕府側は、貿易の許可 ・ 継続条件の 「 御条目 ( ごじょうもく ) 」 5 ヵ条の読み聞かせと、被下物 ( くだされもの ) の授与をもって返礼と した。このときの カ ス パ ル の医方 ( いほう、治療の方法や医術 ) は、彼から教えを受けた日本人医師たちにより、カ ス パ ル 流外科と して広まりま した。ところで 伊 良 子 道 牛 ( いらこ どうぎゅう、1671~1734 年 ) は 1 6 歳の時に、故郷の 羽前国 ( 現 ・ 山形県 ) を離れて遠 く長崎 へ紅毛流 ( オランダ 流 ) 医学の習得を 目指 して旅立ち、10 年間の修学の後、京都 ・ 伏見で医者を開業 したのは 1696 年のことで した。 道 牛は カ ス パ ル 直伝の門人 ・ 河 口 良 庵 (1629~1687 年 ) から カ ス パ ル 流外科を学んだといわれ、 伊 良 子 道 牛 の名は名医と して評判が非常に高まり、現在の京都市伏見区銀座二丁目 にあった門前には、治療を請 ( こ ) う人々が大勢集まり列をな したと いわれて います。 ( 6-2、ここで 一休み ) 彼の子孫はその後も 代々医師の仕事に従事 しま したが、幕末になって第 121 代、孝明天皇 ( 在位 1847 ~ 1866 年 ) の 主 治 医 を務めたのが、 「 伊良子 織 部 正 光 順 」 ( いらこ おりべのかみ みつおき ) で した。 ところで孝明天皇の死因については、公式には 天然痘 ( 当時は 疱瘡 = ほうそう の病名で呼ばれていた ) とされて いますが、主 治医 の 光順 ( みつおき ) が残 していた手記に基づ いて、曾孫 ( そうそん、ひまご ) に当たる滋賀県在住の医師 ・ 故 「 伊 良 子 光 孝 」 ( いらこ みつたか ) 氏が 孝明天皇毒殺説 を 40 年ほど前に発表 して話題になりま した。 [ 7 : 華 岡 青 洲 について ]![]() ![]() 乳 岩 不 治 自古然 而和蘭書中言曰 其初発如黴核之時 以快刃割之 後従合創之法 治之 斯言有味 雖余未試之 書以告後人 [ その意味 ] 乳 ガ ン は治 らない と いわれて いるが、オランダ の書物 に ガ ン が 小さな 塊 ( かたまり ) のうちに良 く切れる刀 で 切り取 り、その後は傷を治すよう に治療すると 「 乳 ガ ン 」 が 治るという記述がある 。これは味わうべき言葉だが、自分はまだ試みたことがな いので、後の人のために書 いてお く。とありま した。 [ 8 : 妻の失明 という犠牲を払う ]これを読んだ青洲は自分も 麻酔薬 を作り、これまで誰にも治すことのできなかった病気を治 し、病に苦しむ人々を救おうと決心 しま した。その後 長い年月を掛けて麻酔薬を試作調合 し、その効果を多くの犬や猫で試 した後に、いよいよ 通仙散 ( つうせんさん ) 別名 麻沸散 ( まふつさん ) と名付けた 全身麻酔薬の人体実験 を行うことに決めま した。 その全身麻酔薬の成分とは、
( 8-1、最初は 母、次は 妻 ) 人体実験の被験者に最初に名乗り出たのは 六十四 歳になった 青洲の母親の 於 継 ( おつぎ ) であり、二番目は 三十三 歳の妻 加 恵 ( かえ ) で した。 ![]()
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