四国遍路とは

真言宗の開祖空海(774〜835)が 42才の厄年のおり、厄払いのためにかつて自分が修行した四国山中や海辺の修行地、寺などを巡って祈願したことから始まりました。

その後空海の名声が高まるに連れて、空海を崇拝し、それにあやかろうとする修行僧、行者などが空海の修行の方法を見習い、その足跡をたどる旅をするようになり、それが次第に四国遍路に発展したといわれています。

室町時代になると札所の数も増加して遍路の原形が定まり、さらに江戸時代になると道路の整備、旅籠の増加、経済的発達などから庶民の間でも旅が容易になり、伊勢参りの流行と時を同じくして、大師信仰の広がりと共に四国遍路が盛んになりました。そして札所も現在の八十八ヶ所の形態を備えるようになりました。

遍路の捨て手形

歩き遍路 江戸時代から旅が容易になったとはいえ、道中には 「 淀ヶ磯七里 」 の難所があり、また病気で命を落としたり、あるいは多額の 硬貨 を持っての旅は、追い剥ぎ、山賊、「 ごまの灰 」 に金や命を狙われる危険な旅でもありました。

経済的理由から個人ではなかなか行けない遍路旅も、村落共同体からの資金提供 ( 講 ) により代表に選ばれて四国遍路に行く場合がありました。その際には村の豊作祈願、病人の平癒、除災招福祈願の義務を負うと共に、親類縁者、郷中をあげて盛大な送別の宴を開いて旅の無事を祈りました。

出立に際しては、今生の別れになるかも知れない家族親類の者と 「 水さかずき 」 を交わすと共に、檀那寺や庄屋から発行された「 捨て手形 」と呼ばれる通行手形( パスポート )を持参しました。

例文、その一、( 必要部分のみ抜粋 )
万一何方ニ而茂病死等仕候共其節国元江不及御通達ニ其御所之御作法御慈悲ヲ以御葬可被下候
( 訳文 ):
万一いずかたにても病死等仕 ( つかまつ ) り候とも、その節は、国元へ御通達に及ばず、その御所 ( 御当地 ) の御作法、御慈悲を以て御葬 ( おとむら ) い下さるべく候。

例文、その二
萬一病死等仕候ハバ国州之御作法ニ御取置被成国元江御届ケ及不申候仍而一札如件
( 訳文 ):
万一病死等仕( つかまつ )りそうらはば、国州 ( その土地 )の御作法に御取置 ( 処分=埋葬 ) なされて、国元へ御届け ( 死亡の連絡 )申すにおよばずそうろう、しかして一件くだんのごとし

遍路墓

遍路が旅の途中で病気や行き倒れで死亡した場合には、所持金があれば村人がそれで墓石を建ててやり、無一文の場合には、土まんじゅうの墓に遍路が使用していた菅笠をかぶせ、遍路の「杖」を立てて墓標として葬りました。

遍路が持つ金剛杖については、仏法を守護する役目の金剛力士が持つ金剛杵 ( こんごうしょ )に由来するといわれていますが、前述のように万一の場合には墓標の代わりとしても使われるので、昔は必ず住所、名前を書いたそうです。

後述の 高群逸枝 ( たかむれ・いつえ、1894〜1964年 ) はその著書の中で、

遍路墓でことに哀れなのは、道端や丘の辺に、あるいは渚の近くに盛られた 土まんじゅうの上に、杖や笠だけが差し置かれている光景である。それ以上に哀れなのは、帰るべき場所もなく現実に生命の終わる日まで、たえず巡礼を続けている、身体障害者や ハンセン病者などの遍路たちの姿である。
と記しています。

いまでも昔ながらの遍路みちを歩くと、生まれ故郷を捨て/追われ、あるいは故郷の人達に知られぬままに、遍路の道中でその生涯を閉じた不幸な遍路達の墓石や、それらの霊を慰める野仏を道端に見ることができます。

道の辺に阿波の遍路の墓あわれ、   虚子


菅笠

遍路がかぶる菅笠には、現在でも仏教の宇宙観を表す以下の 偈 ( げ ) が書いてあります。

迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処南北


[ 読み方 ]

迷うが故に三界( 欲界、色界、無色界 ) は城なり、悟るが故に十方は空なり、本来東も西もなく、いずこにか南北あらん。

この偈 ( げ 、注参照 ) は江戸時代に無着道忠 ( むちゃく・どうちゅう ) 禅師が書いた小叢林清規( しょうそうりんしんぎ ) の中にある文言で、その当時は葬式の際に導師が棺桶の蓋に書いたものです。遍路が旅の途中で死んだ場合には、この笠を遺体にかぶせることにより、「 棺桶 」 の代わりにするためと言い伝えられていました。

その文言を書いた菅笠をかぶり、白衣をまとった遍路の姿は、言うまでもなく 「 死に装束 」 そのものです。遍路とは死者となって四国 ( 死国 ) の八十八ヶ所を巡り、そして再び生まれ替わる 擬死再生をすることです

注:)偈 ( げ )
ある人の偈 ( げ ) の解釈によれば、この世は迷いの世界で自分の思うようにはいかない。けれど悟りを求めて心身を浄めれば、さまざまなこだわりが消えて心が安らかになる。本来は東も西もなく、我々は宇宙の中の一点に過ぎない。南や北とかのこだわりを捨て、大らかに世の中を渡っていこう。
八十八の数の起源

四国霊場八十八ヶ所を回る遍路とは前述のように、弘法大師空海が42才の厄年に厄を払うために始めたものですが、八十八の起源については一説によると、「 子供の厄年13才、女性の厄年 33才、男性の厄年 42才 」の合計から、八十八になったとも言われています。

遍路の所要日数

四国霊場一番札所霊山寺から 八十八番札所大窪寺までの1200キロの距離を、自家用車や巡拝 タクシーを利用すると7日から8日、団体貸切りバスの場合は10日から11日、かかります。歩く場合は健脚の人で32日から40日、普通の人で40日から50日、ゆっくり歩くと50日から60日かかります。

区切り打ちの場合は、打ち止めにした札所から次回も歩き始めるので、四国県内の移動に要する分( 一国打ちならば4日ないし5日 )だけ、通し打ちよりも多く日数がかかります。

遍路の日本記録保持者

札所を巡るのに歩いて巡ろうが、公共交通機関を利用しようが、車や団体観光 バスで巡ろうがどちらでもよいことで、要は心の問題であり本人が満足し納得するかどうかです。以前見たテレビでは ヘリコプターで空から巡拝するのがありました。

料金は一人 100万円で 2〜 3日で巡るのだそうです。しかし札所のご本尊様やお大師様を空から 見下ろして拝むのは 信仰対象に失礼に当たらないのか、それに納経帳への記帳はどうするのかと、信仰心の無い私でも心配になりました。

歩き遍路の日本記録といえば、山口県出身の中務茂兵衛 ( なかつかさ、もへえ ) という人がいますが、彼は四国遍路の案内人見習いとして 19才の時から札所を巡り始めて、明治から大正時代にかけて実に 280回歩いて巡った記録があります。

中務茂兵衛の写真 この人は案内人として札所を巡るだけでなく、後に 「 四国霊場略縁起道中記大成 」という遍路案内記を出版し、そのうえ遍路道の標石 ( 道しるべ ) を 240基建てたと言われています。

単純計算すると 57年間に 280回ですから、年間に 4.9回巡ったことになります。もちろん乗り物は一切利用せずに巡ったのです。遍路に要する日数は江戸時代は 三ヶ月でしたが、山をトンネルで抜ける道路が、未だ少なかった明治大正時代の遍路旅は、二ヶ月程度は要したと思います。

彼は文字通り旅に明け、旅に暮れる人生を 57年間も過ごし、四国の人々から 「 生き仏 」 として崇められながら、遂に 「 へんろの旅 」 の途中で病に倒れ、大正11年に高松で 76才の生涯を閉じました。

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