寄生虫大国だった日本( 続き )
[ 8 : 戦後の マラリア ]![]() 右図は厚生省 ( 現 ・ 厚生労働省 ) 統計情報部が作成した 1946 年から 1995 年までの 50 年間の マラリア患者 ( 届出の数 ) の変遷ですが、敗戦翌年の 1946 年には 28,200 人 という患者数でした。( グラフの内側は 1955 年以後の患者数の拡大 スケール ) しかし実際は敗戦により中国大陸 ・ 台湾 ・ 朝鮮半島 ・ 南方諸地域などから 574 万人 の兵士や 一般人 が復員し 日本に引揚げましたが、そのうち 95 万人 が マラリアの既往歴を有していたために、 43 万人 が帰国後に マラリア を 再発する ものと予測されました。 マラリアに感染した病歴を持つ膨大な人員の国内流入という未曾有の事態に、当時の医療関係者はもちろんのこと、行政当局も マラリアの 二次感染による 国内まん延 の事態を非常に恐れましたが、幸運にもそのような事態は起きずに 5 年後には マラリアはほとんど終息しました。その理由は夏季における蚊帳 ( かや )・ 蚊取り線香などの防蚊手段の普及や、 ハマダラ蚊にとって住みにくい生活環境になったこと、 マラリアが比較的 自然治癒 ( しぜんちゆ、自然に治る ) の傾向が高い病気であったからでした。
前述のごとく琵琶湖の東岸に位置する滋賀県 ・ 彦根市の周辺は湖岸に大小の入り江、沼、湿地帯があり、これらは マラリアを媒介する ハマダラ蚊の温床になっていていましたが、それと共に彦根城の周りに張り巡らされた三重の水濠 ( すいごう ) が蚊の繁殖地になり、 彦根城の城下町は古くから県内でも有数の マラリア 多発地帯でした。
太平洋戦争の敗戦 ( 1945 年 ) 後には G H Q ( General Head Quarters 、アメリカ占領軍総司令部 ) の勧告を契機に、町ぐるみで マラリア撲滅運動 ( ぼくめつうんどう ) に取り組みましたが、その象徴的な マラリア対策が市の観光にとって重要だった、彦根城を取り巻く外濠 ( 上図の黒い部分 ) の埋立工事でした。右の写真は埋立て以前の外濠の様子です。 昭和 24 年 ( 1949 年 ) から マラリア撲滅強調週間を設けて ハマダラ蚊の根絶に乗り出しましたが、その顧問を務めたのが台湾で マラリア撲滅の経験を持つ、当時大阪大学 ・ 微生物研究所の教授で、後に日本寄生虫予防学会 ・ 理事長を務めた 森下薫 ( 1896〜1978 年 ) でした。 彼は彦根市の子供や住民を対象にして、マラリアの恐ろしさや感染経路についての知識を広めるために講習会を催しました。 それと共に住民を動員して市内の徹底的な清掃をおこない、占領軍が日本にもたらした強力な殺虫剤の D D T ( Di-chloro ・ Di-phenyl ・ Tri-chloro-ethane、 2 価の クロロ ・ 2 価の フェニール ・ 3 価の クロロ エタンから成る有機塩素系の殺虫剤 ) を、あらゆる蚊の発生源に散布しました。 彦根市は マラリア原虫を媒介する ハマダラ蚊の発生源となっていた付近の湿地帯 2 万 2 千坪 を埋め立てるなどしたために、昭和 23 年 ( 1948 年 ) には 873 人 も発生した マラリア患者がその後激減し、昭和 29 年 ( 1954 年 ) には ゼロ になり、彦根市は マラリアを根絶することに成功しました。
この根絶方法は蚊が媒介する マラリア ・ ( 後述する ) 象皮病 ・ 日本脳炎などが まん延していた国内の多くの地域でもおこなわれましたが、農村では土地改良により水田が区画整理され、それに水を通す用水 ・ 排水路が整備され、化学殺虫剤の大量使用により田んぼや 蚊の住み家だった水辺の雑草も減少し、日本は アジアでも最初に風土病とは無縁の安全な国になりました。 ある衛生昆虫学者によれば、
日本の マラリア は厚生省 ( 現 ・ 厚生労働省 ) が駆除したのではなく、農林省 ( 現 ・ 農林水産省 ) が駆除して くれたようなものだと述べましたが、 ( 土着 ) マラリア患者の発生については 本土では昭和 35 年 ( 1960 年 ) から 皆無 となり、前述した八重山諸島でも 昭和 37 年 ( 1962 年 ) には ゼロになり 、その結果国連の WHO ( 世界保健機関 ) が日本を マラリアの無い国 に指定し現在に至っています。ちなみに DDT は環境に対する残留性が問題になり、日本では 1971 年に農薬登録が失効し、製造 ・ 使用ができなくなりました。
敗戦後の日本では、国際貿易収支が毎年赤字のために 一般人の海外旅行は長年禁止されていましたが、経済の発展により貿易収支が好転し外貨保有量も増加したので、 1964 年 ( 昭和 39 年 ) から海外旅行が自由化されましたが、翌年の 1965 年には全国の マラリア患者は 統計上最低の 一桁台になりました。 さらにその後の経済発展に伴い海外旅行者の数が急増し、 2010 年 ( 平成 22 年) における日本人の出国者数は 1,664 万人 となりました。それに伴い 1970 年代からは海外で マラリアに感染し、潜伏期間の 1〜3 週間以内に帰国した人が国内で発病する場合や、マラリア汚染地域から訪れる外国人によって日本に持ち込まれる 輸入 マラリア が、年間に 80〜 100 人 程度報告されるようになりました。 輸入 マラリアが原因で国内に、 マラリアが拡大感染する危険性があるのでしょうか?。 その答えは 「 無い 」 が正解です。前述したように敗戦直後には 95 万人 の マラリアの病歴保有者 ( 患者 ? ) が海外から帰国しましたが、この頁の冒頭に掲載した マラリア患者の推移 グラフを見ればその答えは 一目瞭然です。 60 年以上まえの日本の農業環境や、各戸に網戸が存在せず ( 注 : 参照 ) 蚊帳 ( かや ) と 蚊取り線香に頼る防蚊対策 をしていた当時の生活環境でさえも、マラリアの 国内における 二次感染が起きなかったという 過去の事実 がありました。
注 : ) 網戸 現在 厚生労働省 ・ 健康局 ・ 結核感染症課 ・ 国立感染症研究所 ・ 感染症情報 センター による感染症発生動向調査年表による感染症の分類では、マラリアは 109 項目中の 54 番目 という低い順位にありますが、ちなみに 53 番目は ボツリヌス症であり、 55 番目は野兎病 ( やとびょう ) でした。これを見る限り マラリアは、日本では すでに 過去の病気 という扱いでした。
ところで国連の下部組織である WHO ( World Health Organization 、世界保健機関 ) が 2009 年に発表した 世界 マラリア報告書 の重要な点を 1 頁にまとめた ファクト ・ シート ( Fact Sheet 、事実報告 ) によれば、
左図は上述の前年である 2008 年 に出された WHO の 世界 マラリア報告 ・ 2008 年の資料に基づく地域別推定 マラリア感染者分布図ですが、単位は 万人 ですのでお間違えなく。
旅行先として日本人が訪れることの多い東南 アジアの感染者は 2千100 万人 、西太平洋は 220 万人 、ヨーロッパは 4 万人 でしたが、現実をよく理解して マラリアの感染には くれぐれもご用心を !。
ところで最近では地球の温暖化により北極の氷が溶け出し海面上昇の可能性などが指摘されていますが、それと共に マラリア流行地域の拡大も懸念されています。1998 年に ローマで開催された 「 マラリア学 100 年会議 」 では、地球の 平均気温が 3 度上昇すると、マラリアは 12 〜 27 パーセント 増加する との予測が出され、 W H O ( World Helth Organization 、世界保健機関 ) の事務局長は、これを ロールバック マラリア ( Roll back Malaria 、マラリアの巻き返し ) と呼び、警戒を呼びかけました 。 環境庁 ( 現 ・ 環境省 ) によると、今後平均気温が 1.0〜3.5 度上昇する事態になれば、マラリアなどの感染症が人口の多い中緯度地域にも拡大し、 西日本も マラリア流行地域になる可能性を指摘しています。
[ 9 : 乗馬不能になった西郷隆盛 ]![]() 明治維新の際に征東軍 ( 官軍 ) の代表として幕府側の勝海舟と交渉の末、江戸城の無血開城をもたらした西郷隆盛 ( 1827〜1877 年 ) は、後に乗馬不能となり駕籠 ( かご ) に乗って移動しました。
左図は珍しい 大礼服姿の西郷を描いたものですが、明治天皇の行幸 ( ぎょうこう ) のおり、陸軍大将 の階級にあった彼が乗馬で供 ( とも ) することができずに、下級兵士と同様に徒歩 ( かち ) で行列に従った話は有名でした。。
その理由とは、以前彼は 二度にわたり南西諸島へ流罪になり ( 注 : 参照 )、そこで風土病の 象皮病 ( Elephantiasis ) に感染し、陰嚢が左の原住民写真のように、人の頭よりも大きくなる陰嚢水腫 ( いんのう すいしゅ ) を患っていましたが、陰嚢が大きくなると乗馬はもとより 歩行にも差し支えるようになったので、皮の袋を作ってそれに陰嚢を収め、腰で吊っていたといわれています。
注 : ) 西郷隆盛の流刑ちなみに彼は 「西南の役 ( えき ) 」 で官軍に敗れ、鹿児島市の城山 ( しろやま ) 近くの岩崎谷で自刃しましたが、首が持ち去られた後の遺体を官軍が確認する際に決め手となったのは、彼の巨大な陰嚢でした。
この象皮病は古くから日本にあり、12 世紀に描かれた錦小路家本 ( にしきこうじ けぼん、家業は医者 ) の異本 ( 注 : 参照 ) である 病草紙 ( やまいのそうし ) には、 フィラリア症 ( 象皮病 ) によると思われる 十二単 ( じゅうにひとえ ) を着た貴族の女性の絵図があります。全身をはだけた貴族の女の両下肢が、醜く腫れ上がっていて難儀な様子を、傍らの女たちに話している様子です。
注:)異本 ( いほん )江戸時代後期の大衆作家 ・ 浮世絵師である 十返舎一九 ( じゅっぺんしゃ いっく、1765〜1831 年 ) が書いた、 「弥次郎兵衛 ・ 喜多八」 ( やじろべえ ・ きたはち ) が登場する滑稽本 ( こっけいぼん、旅での失敗を記した滑稽談 ) に、 東海道中膝栗毛 ( とうかい どうちゅう ひざくりげ ) があります。
そによれば、東海道の 「 戸塚の宿 」 には元禄 ( 1688〜1704 年 ) の頃から何代もの、象皮病で巨大な陰嚢水腫を持つ乞食が住みついて街道筋で物乞いをしていたので、「 戸塚の大金玉 」 と言えば誰でも知っている名物だったとありましたが、当時はその原因は漢方で、下腹部の痛む病気の疝気 ( せんき ) とされていました。絵は戸塚の宿 ( しゅく )。
ほぼ同じ頃に葛飾北斎 ( かつしかほくさい、1760〜1849 年 ) が描いた戯画には 、巨大な陰茎 ( 陰嚢 ? ) を袋に入れて モッコを担ぐように、友人に片棒を担いでもらって歩く男の姿 ( 右図 ) がありますが、これが決して誇張ではないことは次の画像を見れば納得できます。
警告 !! 嫌悪感を与える画像であることを承知のうえで、ここを クリックすること 。 鹿児島大学 ・ 尾辻義人 ・ 名誉教授の書物によれば、患者は当時 44 才の男性で 14 才頃から 1〜2 回 くさふるい ( フィラリア性熱発作 ) があり、17 才頃から陰茎が大きくなり始め、34 才頃には膝位までになった。陰茎長は恥骨上縁から 58.0 センチ、陰茎周囲は 76.8 センチでした。
象皮病の名前の由来は 「むくみ」 が生じた患部の皮膚が全体に肥厚し、表面がざらざらになり、象の皮膚を思わせるようになるからでしたが、原因は ネッタイ イエカ ・ アカ イエカ ・ シナ ハマダラカなどの 蚊が媒介する バンクロフト糸状虫 ( しじょうちゅう、Wuchereria bancrofti ) により発病します。 幼虫は体長約 0.3 ミリで成虫の雌は体長 7〜10 センチ、体幅 0.3 ミリ。雄は体長 2〜5 センチ、体幅 0.1 ミリで、この虫の名前は発見者である英国生まれで オーストラリアに移民した医師の、ジョセフ バンクロフト ( Joseph Bancroft、1836〜1894 年 ) に因 ( ちな ) みます。 マレー 糸状虫症 ( Brugia malayi ) は、ヌマカ 属や ヤブカ 属などの蚊によって媒介されますが、バンクロフト糸条虫とは患部が異なり、腫れる部分がひざから先の脚部や腕のひじから先などの手足の末端に限られます。 これらの フィラリアは主に人体の リンパ管 ・ リンパ節に寄生してそこで増殖し、それらを破壊し、 リンパ液の流れを妨げ滞留 ( たいりゅう ) させ、ついには管を閉塞 ( へいそく ) させることから陰嚢水腫などの象皮病を発症させますが、日本では バンクロフト糸状虫は南西諸島 ・ 九州 ・ 四国に分布し、マレ− 糸状虫は伊豆諸島の 八丈小島 に分布していました。 明治 44 年 ( 1911 年 ) に鹿児島県 ・ 九州本島出身者に対する陸軍の徴兵検査における フィラリア症感染検査では、感染者が 4 パーセント を超えていたとされますが、翌年に陸軍省が調べた結果では北海道を除く青森県以南の日本各地にかなりの数の患者が発見されました。
しかし 1945 年の敗戦後の生活様式の変化や、昭和 37 年 ( 1962 年 ) から フィラリア症対策が進められ、患者に対する薬物治療などにより、 昭和 53 年 ( 1978 年 ) の奄美大島における患者発生を最後に、日本から フィラリア症 ( 象皮病 ) は 根絶されました 。
しかし象皮病は現在も東南 アジア ・ アフリカ ・ 南米北部を中心に世界の 83 ヶ国で流行し、患者は 1 億 2 千万人 いるといわれていますが、右の写真は 6 才の時から象皮病を患っている 24 才の中国人女性です。 彼女は台湾仏教会の善意による往復の旅費 ・ 手術費用の提供を受け、中国大陸 から台湾を訪れ、 3 倍に膨 ( ふく ) らんだ両足 ( 110 ポンド = 約 50 キロ ) の手術を受けることになりましたが、ズボン を履くどころか パンティー も履けない人生に、希望を見出すことになりました。
[ 10 : 日本住血吸虫 ]![]() 日本住血吸虫 ( にほんじゅうけつきゅうちゅう ) のことを聞いたことがありますか ?。私は子供の頃に山梨県 ・ 北巨摩郡 ・ 韮崎町 ( 現 ・ 韮崎市、にらさきし ) に住む親戚の人から、その地方にはお腹が膨れて死ぬ、恐ろしい病気があることを聞いていました。腹が膨れると 6 ヶ月〜 8 ヶ月で 必ず死ぬ のだそうです。
中国 湖南省 長沙市の東、約 5 キロメートル付近に、馬王堆 ( まおうたい ) と呼ばれる小高い丘がありますが、1971 年にある病院がその丘で建設工事中に古い墓と見られる遺跡を発見しました。1971 年〜1972 年にかけて発掘されたその漢代の墓から、 2,100 年前に死亡した推定年齢 50 才の貴婦人の ミイラが出土しました ミイラの肝臓からは同じ住血吸虫の虫卵が発見されたので、古くからこの寄生虫が アジア地域にまん延していたものと考えられます。
江戸時代の軍学書に、有名な武田氏の 甲陽軍鑑 [ こうようぐんかん、全 20 巻、59 品 ( ほん、章の意味 ) ] がありますが、戦国時代の武将であった武田信玄 ・ 武田勝頼 二代の事績 ( じせき ) ・ 軍法 ・ 刑法を記したもので、その品 ( 章 ) 第 57 の文中に、日本住血吸虫による症状の最古の記録があります。
豊後、巳の年 天正 7 年 霜月より煩、 積聚の脹満 なれ共、籠輿に乗今生の御暇乞と申。勝頼公御涙を流され−−−、この腹が膨れる典型的な症状の記述から 16 世紀の甲斐国 ( 山梨県 ) には、日本住血吸虫の風土病があったことが分かります。
それから約 270 年後の 1847 年 に、備後国 ・ 沼隈郡 ・ 山手村 ・ 小田 ( 現 ・ 広島県 ・ 福山市 ・ 山手町 ・ 字小田 ) 生まれの漢方医 / 内科医の藤井好直 ( ふじい こうちょく、1815 〜 1895 年 ) が、 出身地近くの現 ・ 広島県 ・ 福山市の北 9 キロ にある 神辺町 ( かんなべちょう ) 片山付近に流行していた奇病について、「 片山記 」 を執筆して世間に紹介しましたが 33 才の時でした。 これは地域の風土病の症状について正確に記録した最初の貴重な医学文献でしたが、原因が全く不明で治療法がないことを嘆いており、以来この病気は 片山病 と称されました。
西備 ( 注 : 2 参照 ) 、神辺 ( かんなべ ) の南は川南村といい、小山が 二つあって 一つは碇 ( やぶれ ) 山といい、もう 1 つは片山とよぶ。片山は漆 ( うるし ) 山とも呼ぶ。昔はこの盆地は海であって、あるとき漆を積んだ商船が大風のために片山にのりあげて転覆した。それより約 30 年後の明治 10 年 ( 1877 年 ) 63 才の時に、 藤井好直は 「 片山記 」 に追記をしましたが、
片山病は依然としてこの地方の住民を老弱男女をとわず苦しめており、 ぞくぞくと死んでいく 。これを片山病という。その原因は水田に入ったときに 手足に かぶれをおこす 毒物 であることは違いないが 、その原因が何であるか東西の医学書を ひも解いても一向にわからない‥‥。とありました
当時同じような風土病に住民がなやまされていたのは
1904 年に 桂田富士郎 ( かつらだ ふじろう、1867〜1946 年 ) が甲府の風土病に罹 ( かか )った飼猫を解剖した結果、ネコの門脈 ( もんみゃく、消化器からの血液を集めて肝臓に運ぶ静脈 ) から新種の寄生虫を発見し、病気の原因が 寄生虫 によるものであることを世界で初めて特定しました。
この成虫の メスは暗褐色の糸状で体長 22 ミリメートル、幅 0.3 ミリ、オスは灰白色で体長 8〜19 ミリ、幅が広く、 写真の左側の大きくて笹葉状に平たい オスが右側の小さくて細い メスを抱込んでいるもので、2個の吸着口が見えます。メスを抱込んで人の門脈系静脈内で生活し、 メスが産卵を続けます。 しかし人間への感染の仕組みについては依然不明でしたが、その後 藤浪鑑 ( ふじなみ あきら、1870〜1934 年 ) により感染経路は口からではなく、経皮感染 ( けいひ かんせん、病原虫が皮膚の表面から侵入することによる感染 ) であることが実証されました。
1913 年には 宮入慶之助 ( みやいり けいのすけ、1865〜1946 年 ) が佐賀県 ・ 三養基郡 ( みやきぐん ) 基里村 ・ 酒井 ( 現 ・ 鳥栖市 ( とすし ) ・ 酒井東町 ) で田植えをする農民から、下肥 ( しもごえ、人糞を原料とする堆肥 ) を入れないのに手足が 「 肥え負け ( かぶれる症状 ) 」 する側溝を教えられ、溝の中にいた 体長 7 〜 9 ミリ の小さな巻貝を採取しました。
この巻貝の中から片山病の幼虫を発見しましたが、これこそが病原虫の 中間宿主 ( しゅくしゅ ) となる ミヤイリガイ / 別名 カタヤマガイ ( 宮入貝/片山貝 ) の発見であり、これにより片山病の原因となる寄生虫の生活循環 ( ライフ ・ サイクル ) の解明につながりました。
セミや チョウなどの昆虫が卵から幼虫、さなぎ の段階を経て成虫に変化するように、片山病の病原虫も卵から複雑な変態過程の中で 中間宿主である宮入貝へ寄生し ・ そこでの変態 を経て水中を泳ぎ回り、感染の対象となる 「 人や動物 」 に取り付くことが判明しました。
片山病を無くすにはどうすればよいのか?。 その答えは病原虫の ライフ ・ サイクルを分断することであり、そのためには 中間宿主である宮入貝 ( 片山貝 ) の撲滅 が必要になりました。写真は用水路に石灰窒素を散布しているところ。 被害に悩む地方では田んぼや農業用水路への散布は対象面積が広く、石灰や石灰窒素の購入費用が貧しい農民にとって負担が大きく、計画はなかなか はかどりませんでした。なお宮入貝は 水陸両生 のため水辺の草地にも生息し、朝露で濡れた草地を裸足で歩くと子虫の セルカリアが皮膚から侵入し、感染の危険がありました。
[ 11:敗戦後まで続く病気対策 ]太平洋戦争の末期に フィリピンの レイテ島に上陸した アメリカ軍兵士が川で水浴したところ、約 2 千人がその地方にはびこる住血吸虫症に感染した出来事がありましたが、日本では 1957 年に 厚生省が改正された寄生虫予防法に基づき、 日本住血吸虫予防撲滅対策10ヶ年計画 を策定し、政府 ・ 地方自治体が撲滅対策を強力に推し進めることとなり、以下の対策が取られました。
( 11−1、その成果 ) 官民一体となった努力の結果各地における日本住血吸虫症の撲滅は成功し、関東地方の 利根川流域では昭和 46 年 ( 1971 年 ) に、広島県では 昭和 51 年 ( 1976 年 ) 以降は新しい患者が確認されませんでした。 山梨県では昭和 53 年 ( 1978 年 ) に、県内で発生した 新規感染者 の確認を最後に患者が発生しておらず、 平成 8 年 ( 1996 年 ) に、当時の山梨県知事 ・ 天野建により地方病 ( 日本住血吸虫症 ) 終息宣言が出され、115 年に及ぶ地方病対策は終息を迎えました。 ここで マラリア撲滅についてある昆虫学者が述べた言葉 ( 8−2 ) を再掲しますと、
日本の マラリア は厚生省 ( 現 ・ 厚生労働省 ) が駆除したのではなく、農林省 ( 現 ・ 農林水産省 ) が駆除して くれたようなものだとありましたが、この マラリア の部分を、 日本住血吸虫症 にそっくり置き換えることができます。つまり 生活環境の改善こそが、寄生虫病に対する 最良の予防策 であるといえます 。
( 新規発生の患者数ではない ) ( 山梨地方病撲滅協力会編 )
注 : )この片山貝 ( 宮入貝 ) は日本以外にも中国大陸 ・ 台湾 ・ フィリピンなどにも生息しており、それらの地方にも日本住血吸虫の患者がいて、その数はおよそ 4 千 6 百万人 に達するといわれています。
筑後川流域では平成 2 年 ( 1990 年 ) に福岡県と久留米市が、宮入貝が撲滅されたことを確認し 「 安全宣言 」 を発表しましたが、日本住血吸虫症は慢性疾患であること、また調査の漏れをなくす理由からさらに 10 年間の追跡調査を実施し、平成 12 年 ( 2000 年 ) に 「 終息宣言 」 を出し、 日本は世界で唯一の 、住血吸虫症を根絶することに成功した国になりました。
福岡県 ・ 久留米市の宮ノ陣町は、駆除対策により絶滅した宮入貝を最後に発見した場所ですが、そこには 「 宮入貝供養碑 」 が建立されています。その碑文には、
宮入貝供養碑とありました。
これに対して違和感を覚えるのは私だけでしょうか ?。 宮入貝の供養碑を建てるのであれば、それよりも大昔から日本住血吸虫が原因で写真の女性のように太鼓腹になり、苦しみながら死亡した筑後川流域の、何万人もの 犠牲者の慰霊碑 を建てるべきだったと思います。 さらに住血吸虫は 中間宿主 ( 宮入貝 ) の体内でのみ成長 ・ 変態をおこない、宿主なくしては人や動物の皮膚から体内に侵入する子虫 ( セルカリア ) になれないことから、宮入貝は人間の都合で人為的に絶滅させられた 哀れな犠牲者 というよりも、 見方を変えれば 殺人犯人 ( 住血吸虫 ) に昔から 食事と住居を提供してきた 罪深い下宿屋、 つまり共犯者 であったというべきなのです 。
宮入貝の供養碑を建てるのであれば、 同じ趣旨から 人間社会を守るために 1977 年に アフリカの ソマリアでの患者発生を最後に絶滅させられ、 W H O ( 国連の世界保健機関 ) が 1980 年 5 月に世界根絶宣言をおこなった 天然痘 ウイルス ( Variola virus ) も、供養碑を建ててもらえる資格 (?) があるのかもしれません。写真は在りし日の、天然痘 ウイルスの姿。 ちなみに筑後川流域には河川改修工事の記念碑 ・ 宮入貝 ( 撲滅 ) 工事の竣工記念碑 ・ 宮入貝を発見した宮入慶之助を讃 ( たた ) える 「 学勲碑 」 はあるものの、住血吸虫症の犠牲者に対する慰霊碑はどこにもありませんでした。その理由は住民の慰霊などよりも、 多額の カネをばらまく土木工事 を より重視し尊重した地方の政治屋や、 行政当局の考えによるものでした。
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