江戸の今昔物語
平安時代後期の 1120 年以後に成立した 31 巻からなる説話集に今昔物語集 ( こんじゃく ものがたり しゅう ) がありますが、天竺 ( てんじく、インド ) ・ 震旦 ( しんたん、中国 ) ・ 本朝 ( 日本 ) の三部構成となっており、各話が 「 今は昔 」 の言葉で始まりました。 編者は不明ですが、今回はその題名を借用することにしました。 [ 1 : 地名の由来 ]江戸については古くは武蔵国 豊島郡 ( としま ごおり ) ・ 荏原郡 ( えばら ごおり ) ・ 下総国 葛飾郡 ( しもうさのくに かつしか ごおり ) の三つと 接する地域 のことですが、名前の由来については諸説あり、そのうちの一つに 日比谷入り江 ( ひびや いりえ ) の 門 ( と ) から江門 ( えと ) になり、そこから江戸になったといわれています。 「 江戸 」 の名が初めて歴史書に登場したのは、鎌倉幕府の公式記録である 吾妻鏡 ( あずまかがみ、1180〜1266 年までを記録 ) の治承 4 年 ( 1180 年 ) 8 月 26 日の条に、( 以下 現代文 )26 日 丙午 ( へいご、ひのえうま ) 、武蔵国の畠山次郎重忠、かつは ( 一方では ) 平氏の重恩 ( ちょうおん、深い恩 ) を報ぜんがため、 かつは ( 他方では ) 由比の浦の 会稽 ( かいけい、注 参照 ) を雪 ( すす ) がんために、三浦の輩 ( やから ) を襲はんと欲す。 ( 中略 ) 江戸太郎重長 ( しげなが ) 、同じくこれに与 ( くみ ) する。( 以下省略 )とあります。 江戸太郎重長の住居は現在の皇居東御苑 ( 旧 ・ 江戸城本丸 ) 付近にあったと推定され、さらに現在の江戸川 ・ 中川 ・ 隅田川の制河権 ( 河川通行管理権 ) の大半を握り、坂東 八ヶ国の大福長者 ( だいふくちょうじゃ、大金持ち ) といわれました。 注 : 会稽 ( かいけい ) とは、 [ 2 : 江戸における牧畜のこと ]牛は約 8 千年前に西 アジアで家畜化されたとされますが、日本に牛が伝えられたのは弥生時代に稲作伝来とほぼ同じ時期でした。中国大陸 ( あるいは朝鮮半島 ) からの移住者が稲作と共に田を耕作する牛を日本に持ちこんだとされ、東京都 ・ 港区 ・ 三田にある弥生時代中期 ( 紀元前 400 年 ) の 伊血子 ( いさらご ) 遺跡からは、牛の頭蓋骨が出土したのが最も古いものといわれています。 馬はそれよりも少し遅れて弥生時代後期に日本にもたらされたとされますが、馬の用途は、軍事 ・ 輸送 ・ 農耕の三つですが、当初は軍事用が中心でした。 日本書紀 によれば欽明天皇 15 年 ( 554 年 ) 1 月 9 日の条に、百済 ( くだら ) の聖明王が使者 2 名を九州の筑紫へ派遣し、1 月に参戦するという約束の履行を促し、日本からの派遣軍の規模を確認してきました。 それに対して筑紫からの派遣は援軍 千人、 馬 百匹 、船 四十隻派遣の約束と決まり、速やかに実行するとありましたが、6 世紀中頃になると日本では馬の繁殖により数が増え、軍事的に海外へ派遣できる状況になりました。( 2−1、 牛乳の飲み初め ) 広大な武蔵野一帯は律令時代 ( 7 世紀半ば〜 10 世紀 ) から、 官営の牧 [ まき、飼育や繁殖のため軍馬や牛を放牧しておくための 馬城 ( マキ ) から牧場のこと ] が置かれ荘園も存在しましたが、それらの地域から武士団が発生し、活躍するようになりました。 日本最古の基本法典である 大宝律令 ( 701 年 ) によれば、官制の 乳戸 ( にゅうこ ) という 一定数の酪農家が都の近くに集められ、皇族用の搾乳場 ( さくにゅうじょう、乳しぼり場 ) が定められました。また武蔵国に 「 神崎 牛牧 」 ( かんざき ぎゅうまき ) という牧場が設けられ、「 乳牛院 」 という飼育舎がこの地に建てられたと記されています。 日本書紀 巻 3 によれば神武天皇の東征の折に、大和 ( 奈良県 ) の宇陀 ( うだ ) 地方を支配する兄猾 ( えうかし ) の弟である弟猾 ( おとうかし ) が 已而弟猾大設 牛酒 以勞饗皇師焉 天皇以其 酒宍 班賜軍卒 [ その意味 ]つまり弟猾 ( おとうかし ) が 「 牛酒 」 ( ししさけ ) をふるまい、神武天皇はそれを将兵に賜ったという話があるので、弥生時代後期には、牛乳が飲用され牛乳酒が造られてていた可能性もあるといわれていますが、あくまでも神話時代のことです。 815 年に成立した 新撰姓氏録 ( しんせん しょうじろく、平安初期の諸氏族の系譜 ) によれば、日本で牛乳を初めて飲んだのは大化改新 ( 645 年 ) の頃に、百済 ( くだら ) からの帰化人の子孫である善那 ( ぜんな ) が第 36 代、孝徳天皇 ( 在位 645〜654 年 ) に牛乳を献上したのが始まりといわれています。 天皇 ・ 皇族から始まった牛乳飲用は、藤原一族から広く貴族の間に広まり、天皇、皇后、皇太子で 1 日約 2.3 リットル を供し、余りは煮つめて保存のよい蘇 ( そ、チーズ ? ) を作ったと記されています。
平安中期の 927 年に完成した律令 施行細則である 延喜式 ( えんぎしき ) によれば、 18 ヶ国に 馬牧が 24 ヶ所、 牛牧が 12 ヶ所 、馬牛牧が 3 ヶ所の 計 39 の牧 ( まき ) が設置されたと記録されていますが、日本において牛を飼う主要な目的は、あくまでも役牛 ( えき ぎゅう ) つまり農耕 ・ 牛車 ( ぎっしゃ ) の牽引など力仕事としての用途でした。( 2−2、 酪農の始まり )
平安末期から武士が勢力を持つようになると朝廷の力も次第に弱まり、戦には機動性に富んだ馬が使用され、馬上から弓を射る騎射 ( きしゃ ) の戦法が取り入れられるようになると、牛より軍馬が重視され牛乳の需要もなくなりました。現在も神社などでおこなわれる流鏑馬 ( やぶさめ ) は、平安末期から鎌倉時代にかけて盛んにおこなわれた騎上戦の名残りであり、騎射の上達を願ってしばしば神社に奉納されました。
江戸時代になると 8 代将軍吉宗は、オランダ人商館長から馬の医療用として牛乳の必要性を教えられ、享保 12 年 ( 1727 年 ) に インドから白牛の牝 3 頭を輸入して安房国 ・ 嶺岡 ( みねおか、現 ・ 千葉県 南房総市 大井 ) にある幕府の嶺岡牧 ( みねおか まき ) で飼育を始めましたが、これが近代酪農の始まりといわれています。
跡地には今も千葉県 ・ 農林水産部 ・ 畜産総合研究 センターが所管する嶺岡乳牛研究所があり、そこには記念碑 ( 右上 ) が建てられていますが、碑文は右から左へ 日本酪農発祥之地 と記されています。
ところで不肖 私が昭和 8 年 ( 1933 年 ) に生まれた、当時 東京市 ・ 牛込区 ( 1947 年に 新宿区に変更 ) という地名については、 新編 武蔵風土記稿 によれば、
当国は往古広野の地にして、駒込馬込など云も皆牧ありし所とみゆ、込は和字にて多く集る意なり、爰も牛の多く居りし所なれば名づけしとあれど其據をしらす [ その意味 ]とありました。
写真は 1970 年当時のもので、 今では早稲田と三ノ輪橋間を結ぶ 「 荒川線 」 以外の都電は全て廃止されましたが、当時は秋葉原から新宿駅行の路面電車が 大久保通りにある牛込郵便局前を走っていました。今から丁度 80 年前 に私はこのすぐ近くで生まれ、 1 才未満の時に豊島区 巣鴨に転居しました。
成人してからも親類が住んでいたので牛込には何度も訪れましたが、現在は大久保通りの下を地下鉄 大江戸線 が通っています。
昔は牛乳を飲むのは 「 赤ん坊か 病人 」 とされてきましたが、明治 5 年 ( 1872 年 ) 頃から東京各地に ホットミルクを 1 杯注文すれば新聞が閲覧できるという 「 新聞縦覧所、注参照 」 が誕生し流行り始めました。そのために当然のことながら、牛乳の需要が増えました。
注 : 新聞縦覧所 ( 2−3、若者の街も昔は牛の放牧地 )
明治 19 年 ( 1886 年 ) の東京府 ・ 牛乳搾乳 ( さくにゅう ) 販売業組合の資料によると、牛込の名前のとおり 牛込区内では 神楽坂 ・ 若松町 ・ 矢来町 ・ 市ヶ谷などで乳牛が飼育され 、 渋谷 ・ 代々木 辺の牛飼い農家 と競争関係にあったとされます。
牛のえさは 「 青い草 」 でしたから、当時は牛を草原に放牧し、あるいは付近に広い 「 草刈り場 」 があったことが容易に推測されます。右の写真は私が生まれた昭和 8 年 ( 1933 年 ) 当時の京王電鉄 渋谷駅前 の様子ですが、黄色矢印が駅の入口です。
右上の写真にある駅入り口付近を拡大したものが左の写真ですが、駅の看板から 「 京王帝都電鉄 ・ 井の頭線 ・ 澁谷駅 」 の文字が読み取れ、奥には駅の ホームの屋根と電車が見えます。なお京王帝都電鉄が渋谷駅から井の頭線の営業運転を開始したのは、昭和 8 年 ( 1933 年 ) の 8 月 1 日のことでした。
今では若者の街である 渋谷も 80 年前には右上写真のような状態で、さらに半世紀前に遡 ( さかのぼ ) ると、道玄坂 ( どうげんざか ) などの周囲の坂に囲まれた駅周辺の低地では、 牛の放牧がおこなわれていました 。右は現在の渋谷で、右側の高いビルの中から京王 ・ 井の頭線の電車が出発 ・ 到着します。
道玄坂の名前の由来については天保 7 年 ( 1836 年 ) に刊行された地誌である 「 江戸名所図会 」 ( ずえ ) によれば、
里諺 ( りげん、世俗で言いならわされていることわざ ) に云う、大和田氏 道玄 は和田義盛 ( 1147〜1213 年 ) が ( の ) 一族なり。建暦 三年 ( 1213 年 ) 五月 和田 一族滅亡す。其残党此所の窟 ( くつ、洞窟 ・ 岩屋 ) 中に隠れ住みて 山賊を業となす 。故に道玄坂というなり。鎌倉時代 ( 1192〜1333 年 ) には、 渋谷 周辺は 山賊 ・ 追い剥ぎが出るほど草深いところでした。 [ 3 : 江戸の変化の様子 ]
平安時代後期の江戸周辺の様子は更級日記 ( さらしなにっき、)に記されていますが、葦 ( あし ) や ススキが 生い茂る原野 でしたが、1457 年にこの地に初めて江戸城を築いたのが、上杉諸家のうち鎌倉の扇谷 ( 現 ・ 鎌倉市 扇ヶ谷 ) に屋敷を構えた 扇谷上杉家 ( おうぎがやつ うえすぎけ ) の家臣、太田道灌でした。
彼は寛正 6 年 ( 1465 年 )に 上洛 ( じょうらく、京都に行くこと ) しましたが、第 103 代、後土御門天皇 ( ごつちみかど てんのう ) に拝謁 ( はいえつ、高貴な人にお目にかかる ) した際に、当時は 辺境の地であった東国 について 「 武蔵野の風景はどのようなものか 」 と御下問 ( ごかもん、目下の者に質問すること ) がありました。その際に ご存じの
と和歌を詠んだことで有名になりました。しかしその 21 年後の 1486 年に、彼の勢力台頭を恐れた主君の上杉定正によって暗殺され 55 才の生涯を閉じましたが、以後の江戸は海辺のさびれた村に戻りました。 その後 1590 年に天下を取った豊臣秀吉が徳川家康に関東への国替えを命じたために、長年所領としてきた駿河 ( するが ) ・ 遠江 ( とうとうみ、静岡 ) ・ 三河 ( みかわ、愛知 )から、 1590 年に江戸城に入りましたが、当時の江戸城の周囲には石垣もなく、防禦のために土を積み上げて作った土手に芝が生え、竹林が茂るという状態でした。 江戸時代前期の甲州流軍学者である大道寺友山 ( だいどうじ ゆうざん ) が記した 岩淵夜話別集 ( いわぶちやわ べっしゅう ) によれば、天正 18 年 ( 1590 年 ) 当時の江戸城は城も小さく堀もせまく、 東の方 ( かた ) 平地の分は、ここもかしこも 汐入 ( しおいり、満潮になると海水に浸る場所 ) の茅原 ( かやはら ) にて、町屋 ・ 侍屋敷を 十町 ( 10 ヘクタール、3 万坪 ) と割り付 ( つく ) べき様もなし ( 方法もない ) 偖又 ( さてまた ) 西南方 ( かた ) は平々 ( へいへい、極めて平坦なさま ) と萱原 ( かやはら ) 武蔵野へ続き、どこをしまい ( 終い ) と言うべき様もなし ( 果てしない ) 。その城下は 茅葺 ( かやぶ ) きの家、 百 ばかりもあるかなしかである。と伝えています。 ( 3−1、 城下町に必要な土地の造成 )
城の前には 日比谷入江 が迫り、江戸湾沿いの地域には多くの汐入地が存在し、満潮になれば海水が入り込み、潮が引けば、葦や萱などが生い茂る湿地帯になり、北側には 本郷台地に連なる神田山や上野台地、西には麹町台地や牛込台地とそれに続く武蔵野の林に覆われた原野が広がり、平坦な土地は極めて少ない場所でした。
関東への国替えを命じられた徳川家康が江戸に入ったのは天正 18 年 8 月 1 日のことでしたが、家康は早速江戸城の堀造りから始めました。それと共に日比谷入江を初め海沿いの低湿地帯や 台地が多く、城下町を形成するには狭い土地のために、低湿地の排水を兼ねて堀を作り、台地を削り、削り出した土で東部の入江や低湿地を埋め立てて平地面積を拡大していきました。
現在も東京には日比谷を初め 渋谷 ・ 市ヶ谷 ・ 四ッ谷 ・ 千駄ヶ谷 ・ 阿佐ヶ谷 ・ 雑司ヶ谷 ・ 入谷 ・ 下谷 ( したや、台東区の町名 ) などなど 「 谷 」 の付く地名 が数多く存在しますが、武蔵野台地やその延長にある本郷台地などの谷筋や低地帯、あるいは今では暗渠 ( あんきょ、地上からは見えないように設備した水路 ) となった川のそばなどに人が最初に住み着いたからでした。
ちなみに千代田区 ・ 神田にある駿河台 ( するがだい ) の地名は当時の名残りで、埋め立て用の土を神田山から削り取った跡の台地に、徳川家康の旧領地でした駿河国 府中 ( 現 ・ 静岡市 葵区 ) から、家臣たちが移住して家を構えたことに由来します。
参考までに武蔵野台地は 成田空港のある標高 43 メートルの北総台地 ( ほくそう だいち ) と同様に灌漑用水には恵まれず、住民は 水に苦労しました 。そこで幕府は 1654 年に多摩川の水を現 ・ 東京都 ・ 西多摩郡 ・ 羽村町で取水し、新宿四谷までの 50 キロ の上水道用の玉川上水 ( じょうすい、 ) の水路を開削し、四谷からは暗渠 ・ 懸樋 ( かけひ ) などで江戸城や市民に給水しました。
1600 年の関ヶ原の合戦に勝利し天下を取った家康は 1603 年には征夷大将軍となり、諸大名に命じて多数の人夫を集め江戸城を初めとする各地の築城や、 江戸の大規模な町造り、大河川堤防の工事などでに取り組む いわゆる 「 天下普請 ( てんかぶしん ) 」 をおこないました。その際には 「 千石夫 」 ( せんごくふ ) といわれるように、諸大名に対して石高千石につき作業人夫を 1 名差し出すように命じました。
江戸の土地造成工事の結果、現在の JR 浜松町駅から北へ、町名でいうと港区浜松町 ・ 芝大門 ・ 新橋 ・ 西新橋 ・ 千代田区内幸町 ・ 日比谷公園 ・ 皇居外苑 ・ 大手町西部にあった 「 日比谷入江 」 が平坦な宅地にかわり、その結果 汐入り地に囲まれていた半島状の 「 江戸前島 」 と江戸城は陸続きになり、 商工業者など町人が移り住み、現在の日本橋 ・ 京橋 ・ 銀座などの町並みが形成され城下町の形がととのいました。
[ 4 : 日本の都市人口 ]
海に面した寒村だった江戸も葦原 ( あしはら ) の埋め立てにより多くの土地が造成され、次第に多くの人が住むようになりました。
家康の江戸国替えから 19 年後の慶長 14 年 ( 1609 年 ) 9 月のこと、フィリピンの マニラから メキシコの アカプルコに向かう ガレオン ( Galleon ) 船 ( 右図 ) サン ・ フランシスコ号が台風により遭難して上総国岩和田村 ( 現 ・ 千葉県 御宿町、おんじゅく ) に漂着し、 乗員乗客 314 人 が漁民に救助されました。
( 4−1、外国人が見た江戸初期の日本 ) 乗客の 1 人に フィリピン臨時総督 ロドリゴ ・ デ ・ ビベロ ( Rodrigo de Vivero、スペイン 人 ) がいましたが、彼は徳川幕府によって江戸に招かれ さらに京 ・ 大坂 ( 大阪 ) も訪れました。 彼の記した 「 日本見聞記 」 によれば、当時の江戸の人口について 15 万人 と記録していました。更に 京 ・ 大坂 ( 大阪 ) については、 思ふに、当地 「 大坂 」 は日本國中最も立派なる所にして、人口は 二十万 あり、海水其家屋に波打つが故に、非常に潤澤 ( じゅんたく、ゆたか ) に海陸の贈物を具有 ( ぐゆう、そなえもつ ) せり。家屋は 二階建を通常とし、構造巧なり。 此 ( この ) 六十六箇國 ( 日本全土 ) には多數の都市あり、広大にして人口多く、 C潔にして秩序正しく 、欧洲に於て之 ( これ ) と比較すべきものを発見すること困難なるべし。 而 ( しか ) して陸路を行くこと 二百 レグワ ( 1 レグア = 5.57 キロメートル ) を超ゆるも、人の居住せざる地 一 レグワ を見ること稀なり。 家屋市街及び城郭 ( じょうかく、城のかこい ) は善美にして、これを過賞 ( かしょう、ほめすぎる ) すること難 ( がた ) し。 人民の數非常に多く、悉 ( ことごと ) く 國内に容 ( い ) るゝこと能 ( あた ) はざるが如し ( できないようである )。人口 二十万 の市多く、都の市は 八十万 を超えたり。と記していました。
ところで慶長 5 年 ( 1600 年 ) に東 インド会社の リーフデ号が遭難し、豊後 ( 大分県 ・ 臼杵 うすき ) に漂着しましたが、その船の航海士で後に幕府に仕えた イギリス人の ウイリアム ・ アダムス [ 日本名、 三浦按針 ( あんじん )] がいました。
彼は船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを徳川家康から命じられ、伊豆半島東側の伊東に日本で初めての造船 ドックを設けて、日本で最初の洋式帆船 ( 80 トン ) の建造に着手しました。
それが慶長 9 年 ( 1604 年 ) に完成すると、気をよくした家康は更に大型船の建造を指示し、慶長 12 年 ( 1607 年 ) には 120 トンの洋式帆船 を完成させました。家康はこの船を前述した前 フィリピン臨時総督 ロドリゴ ・ デ ・ ビベロに貸与して、彼等を帰国させることにしました。
ビベロ はこの船を サン ・ ブエナ ・ ベントゥーラ号 ( 幸せを運ぶ船 ) と名付けて、メキシコの アカプルコに向けて出航し アカプルコに無事到着しました。 ロドリゴ は スペイン本国の フェリッペ国王や従兄の ヌエバ ・ エスパーニャ ( メキシコ ) 副王に直接意見具申を行いました。
そこで有名な探検家の セバスティアン ・ ビスカイノ ( Sebastian Vizcaino、1548〜1615 年 ) を答礼使兼、 金銀島探検隊長として慶長 16 年 ( 1611 年 ) に日本に派遣しました。彼は伊達政宗の知遇 ( ちぐう、手厚いもてなし ) を得て、三陸沿岸を測量しました。
( 4−2、ビスカイノ が遭遇した地震と大津波 )
慶長 16 年 ( 1611 年 ) 10 月 28 日 ( 太陰暦 ) に マグニチュード推定 8.1 の、いわゆる 慶長三陸地震 が起き、それに伴い大津波が起きましたが、伊達藩における溺死者は 1,783 人 ・ 南部藩 人馬 3 千余人 ・ 相馬藩 700 人と伝えられています。
当時の地震と大津波に ビスカイノ は偶然遭遇しましたが、 彼が 1614 年に執筆した ビスカイノ 金銀島探検報告 が 18867 年に刊行され、それには 三陸沿岸で遭遇した大津波について以下のように記されています。
金曜日 ( 12 月 2 日、太陽暦 ) 我等は越喜来 ( おつきらい、現 ・ 岩手県 大船渡市 ) の村に着きたり。また 一つの入江を有すれども用をなさず。此処 ( このところ ) に着く前に住民は男も女も村を捨てて山に逃げ行くのを見たり。 是 ( これ ) まで他の村々に於いては住民我等を見ん為め海岸に出 ( い ) でしが故に、我等は之を異 ( い 、おかしい ) とし、我等より遁 ( のが ) れんとするものと考え 待つべしと呼びしが、忽 ( たちま ) ち其原因は此地に於て 一時間継続せし大地震の為め 海水は 1 ピカ ( 3 メートル 89 センチ ) 余の高さをなして其堺 ( そのさかい ) を超え、異常なる力を以て流出し、村を侵し、家および藁 ( わら ) の山は水上に流れ、甚しき混乱を生じたり。 海水は此間に 3 回進退し、 土人 ( 原住民 ) は其財産を救う能 ( あた ) はず、多数の人命を失ひたり。此海岸の水難に依り多数の人溺死し、財産を失ひたることは後に之を述ぶべし。此事は午後 五時に起りしが 我等は其時 海上に在りて激動を感じ 、又 波濤會流 ( はとう かいりゅう、大波が合流 ) して我等は海中に呑まるべしと考えたり。 我等に追随 ( ついずい ) せし舟 2 艘は沖にて海波に襲はれ、沈没せり。神 ( キリスト ) 陛下 ( へいか、フェリッペ国王 ) は我等を此難 ( このなん ) より救い給ひしが、事終わりて我等は村に着き逃かれたる家に於て厚遇を受けたり。幸運にも ビスカイノ 一行は海上にいたおかげで命びろいし、その夜は津波の被害をまぬかれた家に宿泊し以後も測量を続けました。 ところで 「 津波 」 は、通常の波とは異なり、沖合を航行する船舶が遭遇しても被害が少ないにもかかわらず、津 ( つ、港 ) には大きな被害をもたら波であることに名前が由来します。 政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す溺死者五千人 世曰 津浪 云々 [その意味]でした。 ( 4−3、隅田川東岸への開発 )
明暦 3 年 ( 1657 年 ) のこと、江戸市中の 三分の 二が焼ける明暦の大火 ( 振袖火事 ) が起きましたが、その際に隅田川の西岸では猛火に追われた人々が、川向こうの本所方面に渡る橋が無いために多数の人が焼死 ・ 溺死しました。このことから大火後の本所方面の開発に合わせて、1659 年に隅田川に架かる 2 番目の橋として両国橋 が架けられました。
それまでは江戸城を防衛する目的から、隅田川やその上流の荒川には奥州街道 ( 現 ・ 国道 4 号線と、途中から北西に分岐する日光街道 ) が通る千住大橋 ( 南岸は現 ・ 東京都 ・ 荒川区、北岸は同じく足立区 ) 以外の架橋は許されませんでした。右上の絵図は両国橋で手間が江戸の岸辺、対岸が下総国です。
写真は明治初期の両国橋ですが、 左側にある 2 本の柱の 一面には 松本藩用 物置場 、他面には 明治二 己 巳年 二 月 二十 日 [ 明治 2 年 ( 1869 年 ) 、きし( つちのと み どし ) 2 月 20 日 ] と記されています。
両国橋は相撲で有名な国技館の南にありますが、橋の名前の由来については、西側の武蔵国 ( 現 ・ 台東区 ) と、東側の下総国 ( しもうさのくに、現 ・ 墨田区 ) の二つの国を結ぶことから名付けられました。
[ 5 : 江戸の火事と消防制度 ]世界最古の組織化された消防隊は エジプトが起源といわれますが、その内容については明らかではありません。紀元 6 年に イタリアの ローマで大火が起きたのを契機に、当時の皇帝 アウグストゥスが ローマ消防隊を組織しました。これは ウィギレス ( Vigiles ) と呼ばれ、消防隊であると同時に首都警護の軍隊でもあり、隊員は解放奴隷の中から選ばれました。 一方日本では、「 火事と喧嘩は江戸の華 」 ということわざがありますが、江戸は火災の多い都市で早くから自衛消防の組織作りがおこなわれていました。とりわけ後述する江戸の 三分の二 が焼け野原となった 明暦 ( めいれき ) の大火 は、幕府に消防体制の不備を痛感させました。
ヨーロッパでは水鉄砲式の消火用具から次第に手押し式の ピストン式 ポンプへと移行し、ワット ( Watt、1736〜1819年 ) による蒸気機関の発明により 1829 年には、蒸気消防 ポンプが発明されました。日本では 1754 年に前述した 竜吐水 ( りゅうどすい ) と称する手押し ポンプが作られましたが、放水能力が低く消火には直接使用されませんでした。右の写真は消防本署 ( 現 ・ 消防庁 ) の前に置かれた イギリス製の蒸気消防 ポンプです。
[ 6 : 江戸の 大火 ]大火については、客観的基準として焼失面積 ・ 死者数 ・ 罹災者数などが定められていたわけではなく、当時の人々により大火と記憶され名前が付けられていたかどうかであり、また大火を題材にした 「 八百屋 お七 」 ( 注 参照 ) のような演劇や絵画が残されていたかでした。
ちなみに江戸の 三大火事といわれるものは、下記の大火です。
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