火薬と ノーベルについて
[ 1 : 火薬について ]紀元前三世紀から前二世紀にかけておこなわれた古代 ローマ共和国 対、 フェニキア人の都市国家 カルタゴ ( Carthago、現 アフリカ北部、チュニジア共和国の首都 チュニス近郊にあった ) との 三度にわたる戦争を ポエニ 戦争 と呼びますが、ポエニ ( Poeni ) とは ラテン語で フェニキア ( Phoenicia ) 人のことです。第二次 ポエニ戦争 ( 紀元前 218 ~ 前 201 年 ) の際に カルタゴの将軍 ハンニバル ( Hannibal ) が、 ローマ を攻撃するために、40 頭の戦闘用の象を含む大軍で現 イタリア と現 スイス ・ フランスとの国境にある険阻 ( けんそ、地勢がけわしい ) な アルプス( Alps ) を越えて、北側から ローマのある イタリア半島に侵入しました。絵図では前方の象が 一頭、崖から転落するところです。 ハンニバルは山岳地帯を進軍する際の道を作るのに当時としては普通でしたが、非常に手間のかかる方法をとりました。障害となっている岩を除去する際に 焚き火で 加熱し 、次いで冷水を掛けて急激に冷却し 、膨張収縮の際に働く内部応力を利用して割った のでした。 もし ハンニバル ( 紀元前 247 頃 ~ 前 183 年 頃 ) が山道の拡幅工事 ( かくふくこうじ ) に火薬を利用できたならば、より早く アルプスを越えて ローマに進軍することができたに違いありません。 ( 1-1、火薬の歴史 ) 火薬の研究開発は同じ頃に、 不老不死の霊薬 を探し求める中国の 煉丹術師 ( れんたん じゅつし、さまざまな物質を調合するのを仕事とする者 ) の間で始まりました。 中国で発明された火薬は 貿易商人により最初は イスラムの世界へ運ばれ、続いて ヨーロッパに伝わりました。しかし ハンニバルの アルプス越えから、 千年近く後のことでした。 イスラムの世界に初めて火薬の知識がもたらされたのは 1240 年頃のことで、アラブの科学者 ・ 植物学者 ・ 薬剤師 ・ 医師である イブン ・ アル ・ バイタール ( Ibn al-Baitar ) の著書 「 薬草集 」 ( Book of Assembly of Medical Supply ) においてでした。 この本の中で硝石 ( しょうせき、硝酸 カリウム ) が中国の原産であり、アラビアの世界では硝石が白い粉末であることから、 「 中国の雪 」 と呼んでいました。 ( 1-2、火薬を使う兵器 ) 紀元 1,200 年頃には中国人は火薬を使う兵器を開発していましたが、 元寇 ( げんこう、1274 年の文永の役 ・ 1281 年の弘安の役 ) では日本を襲った蒙古軍 「 中国の元と 朝鮮半島の高麗 ( こうらい ) 水軍との連合軍 」 が、火薬兵器を使用しました。 蒙古襲来 絵詞 ( もうこらいしゅう えことば ) 別名 竹崎季長 絵詞 ( たけざきすえなが えことば ) には 「 てつはう 」 ?、中国大陸でいう 震天雷 ( しんてんらい、注 参照 ) が描かれています。 上の 「 奉納絵馬 」 に描かれているのは、右側は流血する馬に乗り奮戦する竹崎季長に対して、左側の弓を持つのは蒙古軍の兵士たちです。 なお 「 てつはう 」 は爆発時に轟音を発したため、日本側では人馬共に驚きあわて敵に討たれる者が多く、敵が退く時には 「 てつはう 」 を用いて、爆発した火焔によって追撃を妨害したとしています。 元寇 ( げんこう ) の際に 「 てつはう 」 と言う火薬を使う音のする兵器がすでに知られていたことから、天文 12 年 ( 1543 年 ) に、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に到着し銃が伝来した際には、 「 てつはう 」 からこれに 鉄砲 の文字を当てて名付けた とも云われています。 注 : 震天雷 ( しんてんらい ) とは 直径 14 センチ 厚さ 1.5 センチ の中空の容器の中に火薬を詰め、点火し 「 ひも 」 又は 「 棒と ひも 」 を利用して敵陣地に投げ込む武器。爆発の威力は大きく、大音響とともに鉄甲 ( てっこう、鉄製の よろい ・ かぶと ) をも破る。容器には鉄製と陶製 ( とうせい、陶器製 ) があった。 平成 13 年に長崎県松浦市の伊万里湾口にある鷹島 ( たかしま ) の海底遺跡から、元寇当時の 「 てつはう 」 が引き上げられており、外部は陶器製、内部に鉄片や青銅片を火薬 ・ 硫黄とともに詰めた炸裂弾( さくれつだん、グリネード、Grenade ) であったことが判明している。( 日本で 4 例目 ) 十四世紀初頭の イスラム世界に新型の火薬兵器のようなものがお目見えしたが、それは 「 マドファ 」 ( Madfa ) と呼ばれたもので兵器の詳細は分かっていない。とありました。この混合物 ( 火薬 ) の処方からは、燃焼物ではなく爆発物となる強力な火薬であることがわかります。これは初期の 「 銃 」、 もしくは 「 砲 」 というべきものでした。 ( 1-3、ガス爆発と、粉塵爆発 ) 新聞や テレビなどで時折工場の爆発事故や アパートの爆発などの ニュースが報じられますが、これらのほとんどは 「 ガス爆発 」 であり、火薬による爆発は滅多にありません。 ガスが爆発するのは可燃性 ガスである 「 都市 ガス 」 や 「 プロパン ガス 」 あるいは 「 メタン ガス 」 などが、何かの原因により空気中の酸素と急激に反応して燃焼し、それによって生成された ガスが膨張することにより爆発が引き起こされます。 平成 25 年 7 月の消防庁発表によれば、平成 24 年度中の ガス事故の発生件数は 853 件 、消費に係わる原因は 489 件 で、全体の 57.3 % でした。 爆発するのは都市 ガスや工場で発生する ガス、後述する火薬だけでなく、小麦粉 ・ 砂糖などの粉塵 ( ふんじん ) 、 炭鉱の坑内に 浮遊する石炭の炭塵 ( たんじん ) なども 粉塵爆発 ( Dust explosion ) することが知られています。 1963 年 ( 昭和 38 年 ) 11 月 9 日に、福岡県大牟田市 三川町の三井三池炭鉱 三川坑 ( みかわこう ) で発生した炭塵の爆発事故により、 死者 458 名 、一酸化炭素中毒 ( C O 中毒 ) 患者 839 名 を出しました。この事故は、戦後最悪の炭鉱事故 ・ 労災事故と言われています。 爆発の結果だけを見れば ガス爆発も炭塵爆発なども火薬による爆発と似たようなものですが、これらは決して 「 爆発物 」 とは呼びません。 ( 1-4、火薬類取締法 ) 火薬類取締法 ( 平成 26 年 6 月 13 日 法律第 69 号 ) の第 2 条 によると 、この法律において 火薬類 とは、下記に掲げる火薬 ・ 爆薬および火工品をいうと定義されています。それによれば、
( 1-5、火薬類を 現象別、種類別、応用別 に示す )
[ 1-6、燃焼と 爆轟 ( ばくごう ) の違い ] ガソリンや木材が燃えるのを 「 燃焼 」 といい、 火薬が高速で燃焼するのを 爆発 といいます。 さらに気体の急速な熱膨張の速度が音速以下の爆発を 爆燃 ( ばくねん )」、音速以上の爆発を 爆轟 ( ばくごう、Detonation ) と分類しています。 「 爆轟 」 ( ばくごう ) では熱膨張速度が 音速を超え、 衝撃波 を伴いながら 周囲の物体を破壊します。「 爆轟 」発生の有無によって、 火薬 と 爆薬 とに分類することもあります。 ダイナマイト に代表される爆薬は主として岩石の破砕や鉱山の採掘に用いられますが、これらは爆轟 ( ばくごう ) により 秒速 3,000 m ~ 8,000 m / Sec の 衝撃波を発生し、その高圧力により瞬時に破砕することを目的としています。 一般に爆轟 ( ばくごう ) と言う場合は、この高速爆轟 『 こうそくばくごう、 H V D ( High Velocity Detonation ) 』 のことを指します。 通常 ダイナマイト 本体に火をつけても単に燃焼するだけであり 、爆発しない特性がありますが、爆轟させるためには 「 機械的な衝撃 」 、もしくは 「 爆発の衝撃波による急激な衝撃 」 を与えることが必要です。 そのために点火により衝撃波を発生するような物質、つまり 起爆剤 ( Detonator ) を雷管 ( らいかん、Blasting Cap / Primer ) に詰め、爆薬を起爆するのに使用します。 詳しくは後述の ( 5-1、 ニトログリセリン の特徴 ) における ダイナマイトの主成分である 「 ニトログリセリン の実験 」 を御覧下さい。 [ 2 : 綿火薬の発明 ]1845 年のある日のこと、スイスの科学者 クリスチアン ・ シェーンバイン ( Christian Schonbein ) は自宅の台所で 硝酸と硫酸の混合液 を使い実験をしていました。彼の妻は自分の仕事場でそのような化学実験をされるのを嫌い、日頃から台所での実験を厳しく禁止していました。 妻が外出して留守になったのを幸いに、シェーンバインは台所での実験に取りかかりましたが、前述した酸の混合液を誤ってこぼしてしまいました。液体を急いで拭き取ろうとして、彼は一番手近にあった布を使用しましたが、妻が普段からそこで使用していた木綿製の エプロンでした。 濡れた エプロンを乾かすために ストーブの上に吊しましたが、すると間もなく大きな音と閃光を発して エプロンが燃え上がりました。硝酸と硫酸の混合液に触れたことで、木綿の主成分である セルロース ( Cellulose ) が燃焼し易い ニトロセルロース ( Nitro-cellulose ) に変化したからでした。 シェーンバインはこの物質を 綿火薬 ( めんかやく、ニトロ ・ コットン、Nitro-cotton ) と名付けましたが、綿は 90 % が セルロースであり、綿火薬は白色または淡黄色の綿状物質で、着火すると激しく燃焼します。 彼はそれまで使用されていた黒色火薬 ( Black Powder ) の代わりになると期待して、綿火薬の工場生産を試みましたが、多くの工場で ニトロセルロースの不安定さに起因する爆発事故が起きたため、事業から撤退しました。[ 3 : 不老不死薬の開発から火薬の発明 ]シェーンバインの発見した 「 綿火薬 」 は人類初の火薬ではなく、前述したように中国では古くから火薬が発明され使用されてきましたが、火薬は道教 ( 注 :1 参照 ) の思想である 「 不老不死 」 と密接な関係がありました。 不老不死を得るためには修練を通じて 「 仙人になること 」 が必要であると説き、人は体内から 三尸 ( さんし、注 : 2 参照 ) を追い出すことにより老化を防ぐことができ、その結果、空気のように軽い肉体を持つ 仙人となり 、若々しい肉体が永遠に生き続けることができると説きました。注 : 1 道教とは 中国固有の宗教で儒教 ・ 仏教と並ぶ 三教のひとつ。不老不死 / 不老長寿を目指す 神仙術と原始的な民間宗教が結合し、老子 ・ 荘子の思想と仏教を取り入れて形成されたもので、中国の民間習俗に強い影響力を持った。その最高神が右図の玉皇大帝 ( ぎょくこう たいてい ) である。 ( 3-1、不老不死伝説 ) 自己修練により仙人になる 時間的余裕 のない中国の皇帝は、より簡単に不老不死の仙薬 ( 霊薬 ) を手に入れる方法、つまり部下に仙薬 ( 霊薬 )を探して来ることを命じました。紀元前 三世紀の秦 ( しん ) の時代に、始皇帝 ( しこうてい、紀元前 259 ~ 前210 年 ) の命を受けた 徐福 ( じょふく ) という男がいました。 司馬遷の 史記 ・ 巻 118、 「 淮南衝山 」 ( わいなんこうざん ) 列伝によると、 徐福は秦の始皇帝に、「 東方の 三神山 に長生不老 ( 不老不死 ) の霊薬がある 」 と具申し、始皇帝の命を受け、三千人の童男童女 ( 若い男女 ) と 百工 ( 多くの技術者 ) を従えて、五穀 つまり 米 ・ 麦 ・ 粟 ( あわ )・ 黍 ( きび ) ・ 豆の種子を持って、東方に船出し、平原広沢 ( へいげんこうたく、広い平野と広い湿地 ) の地を得て、王となり戻らなかった。という記述がありました。三神山とは中国の神仙思想で説かれる仙境の、蓬莱 ( ほうらい ) ・ 方丈 ( ほうじょう ) ・ 瀛州 ( えいしゅう ) の三山のことです。 徐福に命じた仙薬( 霊薬 )探しに失敗したことから、 不老不死薬への探求は 道教の方士( ほうし、道士ともいう ) が煉丹術 ( れんたんじゅつ 、さまざまな物質を調合すること ) により、不老不死が可能となる霊薬を製造することに絞られていきました。 こうした薬の多くは、 砒素 ( ひそ ) ・ 水銀 ・ 鉛 などから抽出された危険な金属化合物であり、服用した者に下痢 ・ 吐き気 ・ 頭痛 ・ 腹痛などの中毒症状が現れると、 驚くことも心配することもない、症状はすべて飲んだ霊薬が、隠れた疾患 ( しっかん、病気 ) を消し去ろうとしている証拠である。あるいは身体から毒素を排出し始めた徴候に過ぎない。などと患者を慰めたりしましたが、当然のことながら不老不死どころかこれらの金属中毒により、短日時で死亡する者もいました。 硝石 ( しょうせき、硝酸 カリウムの通称、60 ~ 80 % ) ・ 硫黄 ( いおう、10 ~ 20 % ) ・ 木炭( もくたん、10 ~ 20 % ) の混合物から成る黒色火薬 ( Black Powder ) に近い混合物が、文字通り---「 薬 」 として古代中国から近世まで使用されてきました。 晋の時代 ( しん、265~420 年 ) に、漢方医 兼 錬金術師の葛洪 ( かく こう ) が硝石 ・ 松脂 ( まつやに ) ・ 木炭を 一緒に加熱したときに生じる化学反応を自著 「 抱朴子 」 ( ほうぼくし ) に記録したとされます。 ( 3-2、明確な文献に残る、火薬の製造 ) 火薬製造の記録としては、 850 年頃 に中国の 「 真元妙道要路 」 ( しんげん みょうどう ようろ ) という書籍に、おそらく煉丹 ( れんたん ) 製造における失敗例の一つとして、以下の文が記されていました。 ある者が硫黄と鶏冠石 ( けいかんせき、ヒ素の硫化鉱物 ) および硝石 ( しょうせき、硝酸 カリウムの通称 ) に蜂蜜を混ぜ加熱したところ、煙と炎が出て手や顔に火傷をし、家まで焼いてしまった。 硝石は決して 三黄 [ 硫黄 ( いおう ) ・ 雄黄 ( ゆうおう、orpiment、ヒ素の硫化鉱物 ) ・ 雌黄 ( しおう、オトギリソウ科植物からとった黄色の樹脂 )] と 混合してはならない 。災いがふりかかることになる。とありましたが、この記述から、硝石 ・ 硫黄 ・ 蜂蜜 ( 又は木炭 ) の 三成分の混合により、火薬の燃焼力がその当時明確に知られていたことが分かります 。 英国の生化学者 ・ 科学史家の ジョセフ ・ ニーダム ( Joseph Needham 、1900~1995 年 ) も、この事柄をもって史上初めて 火薬が文献に現れたものとしています。 しかし、この火薬は硝石含有量が少なくて、 爆発力を持つには至らず、単に 燃焼するだけの火薬 でした。しかし、それでも火薬が中国の文献に現れたのは、西欧より 四世紀以上も早い時期でした。 ( 3-3、中国の四大発明と、ノーベル賞 ) ところで古代中国で発明されたものは、火薬 ・ 羅針儀 ( コンパス )・ 紙 ・ 木版印刷の 四大発明とされていますが、現代であれば ノーベル賞の授賞に値するものであることに間違いはありません。 参考までに中華人民共和国籍の ノーベル賞受賞者は、現在までに ノーベル平和賞が、 2010 年、中国の人権活動家 ・ 文筆家の劉暁波 ( りゅう ぎょう は ) 1 名と、文学賞が 2012 年、莫 言( モオ ・ イエン ) 1 名の計 2 名だけであり、韓国では 2006 年に金大中が ノーベル平和賞を受賞した 1 名のみです。 中国では、韓国と同様に外国の企業や国が持つ 特許や技術を常に盗用し 、日本の新幹線や ドイツの高速鉄道に関する特許内容をほんの少し変えて名前を変え、自国が新たに発明 ・ 開発したと主張するなど、 国際ルールの無視 ・ 特許の侵害は目に余るものがあります。 ( 3-3-1、エボラ用治療薬の特許権侵害 ) 2014 年に アフリカで大流行し現在も続いている エボラ出血熱 の治療薬についても、富士 フイルム ・ ホールディングス傘下の富山化学工業が 16 年かけて開発した抗 インフルエンザ薬 「 アビガン 」 、一般名 ・ ファビピラビル ( Favipiravir ) があります。 アフリカで エボラ出血熱に感染し、治療のために帰国した医療従事者の フランス人女性と スペイン人女性に投与したところ、治療に有効であったとして世界の注目を集めています。 この薬は富山化学工業が 2006 年に中国において抗 インフルエンザ薬として、 「 アビガン 」 の特許権を既に取得していました。 ところが最近になって中国人民解放軍の 軍事医学 科学院と 四環医薬 ( 株 ) が新薬を共同開発したと称して、 「 アビガン 」 の製薬方法をそっくり コピーして 「 J K ‐05 」 という名前を付けて、恥知らずにも大量生産しているといわれています。 富士フイルムによると、2014 年 9 月に開かれた世界保健機構( W H O ) の専門家会合で、中国製の 「 J K ‐05 」 と呼ばれる クスリが、「 アビガン 」 と 同じ成分であること 。つまり 違法な コピー薬 であることが判明しました。 中国政府による傍若無人の国家的犯罪行為、欲しいものは全て自分のもの、外国企業や他国が持つ特許権などを 盗用しても少しも恥じず 、さらに行政や司法当局までもが中国による外国の特許権侵害を正当化し、中国に利益をもたらすたものであれば、偽物作り、コピー商品の製造を不問にしています。 現代の中国人 ・ 韓国人には民族としての モラルや独創性が欠落し、目先の利益 第 一主義の傾向が極端に強く、基礎研究の積み重ねが必要な自然科学部門での ノーベル賞の受賞は、 今後 20 年間は無理といわれています 。 [ 4 : アルフレッド ・ ノーベルの生い立ち ]ノーベル 賞創設で有名な アルフレッド ・ ノーベル ( Alfred Bernhard Nobel ) は スウェーデンの首都 ストックホルムで、 1833 年 ( 日本では江戸時代末期の天保 4 年 ) に生まれました。 父親の イマヌエル ・ ノーベル ( Immanuel Nobel、1801?~1872 年 ) は、建築家で発明家でした。後に息子の アルフレッド ・ ノーベルがさまざまな発明をして、生涯に各国で 355 件の特許を取得 しましたが、そうした発明の才能は父親から受け継いだものと言われています。 ところで父親にとっては四男に当たる アルフレッド が生まれた当時、ノーベル家にとっては貧乏の 「 どん底 」 にありました。その理由は注文していた建築資材を積んだ船が沈没したり、自宅が火事で全焼するなど不幸が重なって、イマヌエルが 破産した からでした。 父 イマヌエルは生活を立て直すために、1837 年に妻と子供 4 人を残して 当時の ロシアの首都 サンクト ペテルブルグ ( 英語読みでは セント ピーターズバーグ、Saint Petersburg ) へ働きに行きましたが、その留守中に アルフレッド ・ ノーベルは貧乏人の子供が通う聖 ヤコブ小学校に入学しました。 そこでの成績はたちまち トップとなり模範生になりましたが、父の イマヌエルの事業がロシアで軌道に乗ったので、 1842 年に母親や三人の兄弟と一緒に父のいる サンクト ペテルブルグ に船で向かいました。 父 イマヌエルは発明家 ・ 工業デザイナー ・ 工場経営者として頭角を現し、彼が改良した地雷の他にも開発した機雷の威力が非常に大きく ロシア軍を相手に商売をおこない、クリミア 戦争 ( 1853~1856 年 ロシア対、 トルコ ・ イギリス ・ フランス ・ サルジニアの連合軍との クリミア半島でおこなわれた戦争 ) が勃発すると、イマニュエルが製造した機雷が ロシア海軍から優秀な武器として認められ、兵器として採用されました。絵図は父 イマヌエル ・ ノーベルが開発した機雷を敷設する様子を描いたもの。 イマヌエルは工場の規模を拡大して機雷 ( きらい、Sea Mine ) や地雷 ( じらい、Land Mine ) の大量生産をおこない、ロシア政府の需要に応えて莫大な富を得ました。彼は貧困のために若い時から独学の道を歩んで苦労しましたが、自分の体験から学んだのは
大切なものはたくさんあるが、その中で一番価値のあるものは 教養である 。手に入れたお金は簡単に失っても、身に着いた教養は失なうことがない。と説きました。息子である アルフレッド ・ ノーベルの学歴は ストックホルムの小学校に 2 年半通っただけで、ロシアでは学校には行かずに何人も使用人を雇えるようになった裕福な家庭で、専属の家庭教師を付けてもらい勉強を習いました。それ以後も高校や大学には行かずに、高い給料を出して雇った 優秀な家庭教師による個人授業のせいで めきめきと学力を付けました。 やがて ノーベルは、父 イマニュエルの仕事のほとんどを理解するまでになりましたが、父は息子の見聞を広めるために海外旅行をする機会を与え、アルフレッドが 16 歳になると ロシアから初めて イギリス ・ ヨーロッパへ旅行し見聞を広めましたが、翌年には アメリカを訪れました。 22 歳の時に サンクトペテルブルグ工科大学の化学担当の教授からも化学を習い、これがやがて ダイナマイトの原料となる極めて爆発しやすい ニトログリセリン に興味を持つきっかけとなりました。
[ 5 : ニトログリセリンとの出会い ]19 世紀になると化学者たちが有機化合物に対する硝酸の影響を研究し始めたので、爆薬が進歩しました。前述した シェーンバインが実験中に妻の エプロンを爆発炎上させてから僅か数年後の1846 年に、イタリア ・ トリノに住む イタリア人科学者 アスカニオ ・ ソブレロ ( Ascanio Sobrero ) が、新しい爆発物である ニトロ化合物 を作りました。 その作り方は動物性脂肪から得られた グリセリン( Glycerin ) を、冷やした硫酸と硝酸 の混合液に少しずつ垂らし、その反応液を水に注ぎました。すると油のようなものが層を成して分離されましたが、これが ニトログリセリン でした。 今では信じられないことですが、彼は当時普通におこなわれていたように、新しくできた物質を舐めてみました。ソブレロはその時のことを、以下のように記録しています。舌の先にほんの少し乗せただけで飲み込んでもいないのに、脈が激しくなり、ひどく頭が痛くて、手足の力が抜けた。これが ニトログリセリン ( Nitroglycerin ) という 油状液体の爆薬 の発明でした。その後ある日、 父 イマニュエルの所へ 二人の ロシア人教授が ニトログリセリン を持って訪れましたが、その時 アルフレッド ・ ノーベルもその現場にいて、この物質と運命的な出会いをしました。 ( 5-1、 ニトログリセリンの特徴 ) ニトログリセリン はそれまで一般の爆破に使用されていた、 黒色火薬 ( Black powder ) より 7 倍の爆破威力 があるものの、衝撃感度 ・ 摩擦感度が高く( つまり爆発し易く ) 非常に危険な爆薬で、 小さな衝撃や摩擦でもすぐ爆発を起こす という欠陥がありました。 しかも導火線 ( 注 参照 ) で火をつけても、 燃えるだけで爆発しない という やっかいな性質がありました。 注 : 導火線とは 雷管などにつなげ、一端に点火すると、一定の速度で燃え進み、一定時間後に他の端から火を吹き、雷管に点火する線条のことで、芯 ( しん ) に黒色火薬を巻き込んだ 「 ひも 」 のこと。導火線による燃焼速度は、毎秒 5 cm/s ~ 400 cm/s まで幅広いものがある。 この他に「+」 ・ 「-」 の 2 本の電線を利用し、電気 ( 又は蓄電池の電源 ) で発火させる点火装置もあるが、落雷や静電気の影響を受けやすい欠点を持つ種類もある。下記の実験では、点火しても ニトログリセリンは燃えるだけで爆発しませんが、 衝撃や摩擦 により簡単に爆発することが分かります。 [ 6 : ニトロ爆薬の発想 ]導火線による点火だと ニトログリセリンはゆっくり燃えるだけだが、彼は導火線の先に極少量の黒色火薬を使い、ニトログリセリンのより大きな爆発を引き出すという アイディアを思いつきました。 衝撃を与えるための火薬と、ニトログリセリンの二段構えにする 「 油状爆薬 」 ( ニトロ爆薬 ) を 1863 年に完成しましたが、アルフレッド ・ ノーベルが 30 歳の時のことでした。 ニトログリセリンの起爆方法として、雷汞 ( らいこう ) と呼ばれる化学物質を雷管の起爆薬として用い、黒色火薬をまず爆発させ、その爆発で ニトログリセリンを爆発させる方法を発明し、この雷管を セットした ニトログリセリン爆薬を 「 ノーベル式油状爆薬 」 と名付け爆薬の特許を取得しました。 この計画は上手くいき爆発を希望通り引き起こすことには成功したものの、 望まない 爆発を防ぐ という問題は依然 未解決のまま でした 。ノーベルの家族は爆薬を作る工場を経営し、販売をしていました。 しかし 1864 年の 9 月に ストックホルムに ある実験室の 一つが爆発事故を起こし、五人の従業員とアルフレッド ・ ノーベルのすぐ下の弟 ( 五男 ) の エミール ( Emil Nobel、 21歳 ) も 爆発により死亡しました。 爆発の原因は不明でしたが、市当局により ニトログリセリンの製造を禁止されたため、市外の メーラレン湖に浮かべた平底船の上に新しい実験室を作り、安全な爆薬作りの研究に励みました。( 6-1、 油状液体爆薬の固体化 ) 黒色火薬に対する 「 油状爆薬 ( ニトロ爆薬 ) 」 の威力の優位性が知れ渡ると、需要が急増し、1868 年までに ヨーロッパ 11 ヶ国に火薬工場を作り、さらに アメリカにも進出して サンフランシスコに火薬会社を設立しました。 しかし液体状をした爆薬の取り扱いは不便さがあり、しかも爆発の危険がありました。
( 6-2、 ニトログリセリンの医学的効用 ) ニトログリセリン爆薬製造工場に勤務していた作業員が休み明けに仕事を始めると、ひどい頭痛や目まいに悩まされましたが、ある医師の研究の結果、頭痛は ニトログリセリンを扱ったことにより血管が拡張したためであることが分かりました。 その 一方で狭心症を患う従業員が自宅では発作が起きるのに、工場では起きませんでした。この事実に着目した医師の研究によって、狭心症の発作に ニトログリセリンの使用が有効であることが判明しました。 医薬品として用いられている ニトログリセリンは爆発を防ぐために添加剤を加えているので、いくら集めても爆薬には使用できず爆発事故を起こす心配も無く、狭心症の発作が起きたら 血管拡張作用 があるので、狭心症の即効薬 ( 舌下錠 ) として使われています。 通常成人では ニトログリセリン 0.3 mg ( 1 錠 )~ 0.6 mg ( 2 錠 ) を舌下使用し、まずは 1 錠を舌の下に入れ、そのまま溶けるのを待ちます。舌下錠を飲んでしまうと効果がありません。 口内が乾いているときは水を少し含み、舌を湿らせてから舌の下に入れると吸収が早くなります。1~ 5 分で効果があらわれますがもし狭心症の症状が続くようでしたら、もう 1 錠追加します。
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