火薬と ノーベルについて
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[ 1 : 火薬について ]![]() ![]() ( 1-1、火薬の歴史 ) 火薬の研究開発は同じ頃に、 不老不死の霊薬 を探し求める中国の 煉丹術師 ( れんたん じゅつし、さまざまな物質を調合するのを仕事とする者 ) の間で始まりました。 中国で発明された火薬は 貿易商人により最初は イスラムの世界へ運ばれ、続いて ヨーロッパに伝わりました。しかし ハンニバルの アルプス越えから、 千年近く後のことでした。 イスラムの世界に初めて火薬の知識がもたらされたのは 1240 年頃のことで、アラブの科学者 ・ 植物学者 ・ 薬剤師 ・ 医師である イブン ・ アル ・ バイタール ( Ibn al-Baitar ) の著書 「 薬草集 」 ( Book of Assembly of Medical Supply ) においてでした。 この本の中で硝石 ( しょうせき、硝酸 カリウム ) が中国の原産であり、アラビアの世界では硝石が白い粉末であることから、 「 中国の雪 」 と呼んでいました。 ( 1-2、火薬を使う兵器 ) 紀元 1,200 年頃には中国人は火薬を使う兵器を開発していましたが、 元寇 ( げんこう、1274 年の文永の役 ・ 1281 年の弘安の役 ) では日本を襲った蒙古軍 「 中国の元と 朝鮮半島の高麗 ( こうらい ) 水軍との連合軍 」 が、火薬兵器を使用しました。 ![]() 注 : 震天雷 ( しんてんらい ) とはとありました。この混合物 ( 火薬 ) の処方からは、燃焼物ではなく爆発物となる強力な火薬であることがわかります。これは初期の 「 銃 」、 もしくは 「 砲 」 というべきものでした。 ( 1-3、ガス爆発と、粉塵爆発 ) ![]() ![]() 爆発の結果だけを見れば ガス爆発も炭塵爆発なども火薬による爆発と似たようなものですが、これらは決して 「 爆発物 」 とは呼びません。 ( 1-4、火薬類取締法 ) 火薬類取締法 ( 平成 26 年 6 月 13 日 法律第 69 号 ) の第 2 条 によると 、この法律において 火薬類 とは、下記に掲げる火薬 ・ 爆薬および火工品をいうと定義されています。それによれば、
( 1-5、火薬類を 現象別、種類別、応用別 に示す )
[ 1-6、燃焼と 爆轟 ( ばくごう ) の違い ] ガソリンや木材が燃えるのを 「 燃焼 」 といい、 火薬が高速で燃焼するのを 爆発 といいます。 さらに気体の急速な熱膨張の速度が音速以下の爆発を 爆燃 ( ばくねん )」、音速以上の爆発を 爆轟 ( ばくごう、Detonation ) と分類しています。 「 爆轟 」 ( ばくごう ) では熱膨張速度が 音速を超え、 衝撃波 を伴いながら 周囲の物体を破壊します。「 爆轟 」発生の有無によって、 火薬 と 爆薬 とに分類することもあります。 ![]() [ 2 : 綿火薬の発明 ]![]() ![]() [ 3 : 不老不死薬の開発から火薬の発明 ]シェーンバインの発見した 「 綿火薬 」 は人類初の火薬ではなく、前述したように中国では古くから火薬が発明され使用されてきましたが、火薬は道教 ( 注 :1 参照 ) の思想である 「 不老不死 」 と密接な関係がありました。 不老不死を得るためには修練を通じて 「 仙人になること 」 が必要であると説き、人は体内から 三尸 ( さんし、注 : 2 参照 ) を追い出すことにより老化を防ぐことができ、その結果、空気のように軽い肉体を持つ 仙人となり 、若々しい肉体が永遠に生き続けることができると説きました。注 : 1 道教とは ( 3-1、不老不死伝説 ) 自己修練により仙人になる 時間的余裕 のない中国の皇帝は、より簡単に不老不死の仙薬 ( 霊薬 ) を手に入れる方法、つまり部下に仙薬 ( 霊薬 )を探して来ることを命じました。紀元前 三世紀の秦 ( しん ) の時代に、始皇帝 ( しこうてい、紀元前 259 ~ 前210 年 ) の命を受けた 徐福 ( じょふく ) という男がいました。 司馬遷の 史記 ・ 巻 118、 「 淮南衝山 」 ( わいなんこうざん ) 列伝によると、 徐福は秦の始皇帝に、「 東方の 三神山 に長生不老 ( 不老不死 ) の霊薬がある 」 と具申し、始皇帝の命を受け、三千人の童男童女 ( 若い男女 ) と 百工 ( 多くの技術者 ) を従えて、五穀 つまり 米 ・ 麦 ・ 粟 ( あわ )・ 黍 ( きび ) ・ 豆の種子を持って、東方に船出し、平原広沢 ( へいげんこうたく、広い平野と広い湿地 ) の地を得て、王となり戻らなかった。という記述がありました。三神山とは中国の神仙思想で説かれる仙境の、蓬莱 ( ほうらい ) ・ 方丈 ( ほうじょう ) ・ 瀛州 ( えいしゅう ) の三山のことです。 ![]() 驚くことも心配することもない、症状はすべて飲んだ霊薬が、隠れた疾患 ( しっかん、病気 ) を消し去ろうとしている証拠である。あるいは身体から毒素を排出し始めた徴候に過ぎない。などと患者を慰めたりしましたが、当然のことながら不老不死どころかこれらの金属中毒により、短日時で死亡する者もいました。 硝石 ( しょうせき、硝酸 カリウムの通称、60 ~ 80 % ) ・ 硫黄 ( いおう、10 ~ 20 % ) ・ 木炭( もくたん、10 ~ 20 % ) の混合物から成る黒色火薬 ( Black Powder ) に近い混合物が、文字通り---「 薬 」 として古代中国から近世まで使用されてきました。 ![]() ( 3-2、明確な文献に残る、火薬の製造 ) 火薬製造の記録としては、 850 年頃 に中国の 「 真元妙道要路 」 ( しんげん みょうどう ようろ ) という書籍に、おそらく煉丹 ( れんたん ) 製造における失敗例の一つとして、以下の文が記されていました。 ある者が硫黄と鶏冠石 ( けいかんせき、ヒ素の硫化鉱物 ) および硝石 ( しょうせき、硝酸 カリウムの通称 ) に蜂蜜を混ぜ加熱したところ、煙と炎が出て手や顔に火傷をし、家まで焼いてしまった。 硝石は決して 三黄 [ 硫黄 ( いおう ) ・ 雄黄 ( ゆうおう、orpiment、ヒ素の硫化鉱物 ) ・ 雌黄 ( しおう、オトギリソウ科植物からとった黄色の樹脂 )] と 混合してはならない 。災いがふりかかることになる。とありましたが、この記述から、硝石 ・ 硫黄 ・ 蜂蜜 ( 又は木炭 ) の 三成分の混合により、火薬の燃焼力がその当時明確に知られていたことが分かります 。 英国の生化学者 ・ 科学史家の ジョセフ ・ ニーダム ( Joseph Needham 、1900~1995 年 ) も、この事柄をもって史上初めて 火薬が文献に現れたものとしています。 しかし、この火薬は硝石含有量が少なくて、 爆発力を持つには至らず、単に 燃焼するだけの火薬 でした。しかし、それでも火薬が中国の文献に現れたのは、西欧より 四世紀以上も早い時期でした。 ( 3-3、中国の四大発明と、ノーベル賞 ) ところで古代中国で発明されたものは、火薬 ・ 羅針儀 ( コンパス )・ 紙 ・ 木版印刷の 四大発明とされていますが、現代であれば ノーベル賞の授賞に値するものであることに間違いはありません。 参考までに中華人民共和国籍の ノーベル賞受賞者は、現在までに ノーベル平和賞が、 2010 年、中国の人権活動家 ・ 文筆家の劉暁波 ( りゅう ぎょう は ) 1 名と、文学賞が 2012 年、莫 言( モオ ・ イエン ) 1 名の計 2 名だけであり、韓国では 2006 年に金大中が ノーベル平和賞を受賞した 1 名のみです。 中国では、韓国と同様に外国の企業や国が持つ 特許や技術を常に盗用し 、日本の新幹線や ドイツの高速鉄道に関する特許内容をほんの少し変えて名前を変え、自国が新たに発明 ・ 開発したと主張するなど、 国際ルールの無視 ・ 特許の侵害は目に余るものがあります。 ( 3-3-1、エボラ用治療薬の特許権侵害 ) 2014 年に アフリカで大流行し現在も続いている エボラ出血熱 の治療薬についても、富士 フイルム ・ ホールディングス傘下の富山化学工業が 16 年かけて開発した抗 インフルエンザ薬 「 アビガン 」 、一般名 ・ ファビピラビル ( Favipiravir ) があります。 アフリカで エボラ出血熱に感染し、治療のために帰国した医療従事者の フランス人女性と スペイン人女性に投与したところ、治療に有効であったとして世界の注目を集めています。 この薬は富山化学工業が 2006 年に中国において抗 インフルエンザ薬として、 「 アビガン 」 の特許権を既に取得していました。 ところが最近になって中国人民解放軍の 軍事医学 科学院と 四環医薬 ( 株 ) が新薬を共同開発したと称して、 「 アビガン 」 の製薬方法をそっくり コピーして 「 J K ‐05 」 という名前を付けて、恥知らずにも大量生産しているといわれています。 ![]() 中国政府による傍若無人の国家的犯罪行為、欲しいものは全て自分のもの、外国企業や他国が持つ特許権などを 盗用しても少しも恥じず 、さらに行政や司法当局までもが中国による外国の特許権侵害を正当化し、中国に利益をもたらすたものであれば、偽物作り、コピー商品の製造を不問にしています。 現代の中国人 ・ 韓国人には民族としての モラルや独創性が欠落し、目先の利益 第 一主義の傾向が極端に強く、基礎研究の積み重ねが必要な自然科学部門での ノーベル賞の受賞は、 今後 20 年間は無理といわれています 。 [ 4 : アルフレッド ・ ノーベルの生い立ち ]ノーベル 賞創設で有名な アルフレッド ・ ノーベル ( Alfred Bernhard Nobel ) は スウェーデンの首都 ストックホルムで、 1833 年 ( 日本では江戸時代末期の天保 4 年 ) に生まれました。 父親の イマヌエル ・ ノーベル ( Immanuel Nobel、1801?~1872 年 ) は、建築家で発明家でした。後に息子の アルフレッド ・ ノーベルがさまざまな発明をして、生涯に各国で 355 件の特許を取得 しましたが、そうした発明の才能は父親から受け継いだものと言われています。 ところで父親にとっては四男に当たる アルフレッド が生まれた当時、ノーベル家にとっては貧乏の 「 どん底 」 にありました。その理由は注文していた建築資材を積んだ船が沈没したり、自宅が火事で全焼するなど不幸が重なって、イマヌエルが 破産した からでした。 父 イマヌエルは生活を立て直すために、1837 年に妻と子供 4 人を残して 当時の ロシアの首都 サンクト ペテルブルグ ( 英語読みでは セント ピーターズバーグ、Saint Petersburg ) へ働きに行きましたが、その留守中に アルフレッド ・ ノーベルは貧乏人の子供が通う聖 ヤコブ小学校に入学しました。 そこでの成績はたちまち トップとなり模範生になりましたが、父の イマヌエルの事業がロシアで軌道に乗ったので、 1842 年に母親や三人の兄弟と一緒に父のいる サンクト ペテルブルグ に船で向かいました。![]()
大切なものはたくさんあるが、その中で一番価値のあるものは 教養である 。手に入れたお金は簡単に失っても、身に着いた教養は失なうことがない。と説きました。息子である アルフレッド ・ ノーベルの学歴は ストックホルムの小学校に 2 年半通っただけで、ロシアでは学校には行かずに何人も使用人を雇えるようになった裕福な家庭で、専属の家庭教師を付けてもらい勉強を習いました。それ以後も高校や大学には行かずに、高い給料を出して雇った 優秀な家庭教師による個人授業のせいで めきめきと学力を付けました。 やがて ノーベルは、父 イマニュエルの仕事のほとんどを理解するまでになりましたが、父は息子の見聞を広めるために海外旅行をする機会を与え、アルフレッドが 16 歳になると ロシアから初めて イギリス ・ ヨーロッパへ旅行し見聞を広めましたが、翌年には アメリカを訪れました。 22 歳の時に サンクトペテルブルグ工科大学の化学担当の教授からも化学を習い、これがやがて ダイナマイトの原料となる極めて爆発しやすい ニトログリセリン に興味を持つきっかけとなりました。
[ 5 : ニトログリセリンとの出会い ]19 世紀になると化学者たちが有機化合物に対する硝酸の影響を研究し始めたので、爆薬が進歩しました。前述した シェーンバインが実験中に妻の エプロンを爆発炎上させてから僅か数年後の1846 年に、イタリア ・ トリノに住む イタリア人科学者 アスカニオ ・ ソブレロ ( Ascanio Sobrero ) が、新しい爆発物である ニトロ化合物 を作りました。 その作り方は動物性脂肪から得られた グリセリン( Glycerin ) を、冷やした硫酸と硝酸 の混合液に少しずつ垂らし、その反応液を水に注ぎました。すると油のようなものが層を成して分離されましたが、これが ニトログリセリン でした。 今では信じられないことですが、彼は当時普通におこなわれていたように、新しくできた物質を舐めてみました。ソブレロはその時のことを、以下のように記録しています。舌の先にほんの少し乗せただけで飲み込んでもいないのに、脈が激しくなり、ひどく頭が痛くて、手足の力が抜けた。これが ニトログリセリン ( Nitroglycerin ) という 油状液体の爆薬 の発明でした。その後ある日、 父 イマニュエルの所へ 二人の ロシア人教授が ニトログリセリン を持って訪れましたが、その時 アルフレッド ・ ノーベルもその現場にいて、この物質と運命的な出会いをしました。 ( 5-1、 ニトログリセリンの特徴 ) ニトログリセリン はそれまで一般の爆破に使用されていた、 黒色火薬 ( Black powder ) より 7 倍の爆破威力 があるものの、衝撃感度 ・ 摩擦感度が高く( つまり爆発し易く ) 非常に危険な爆薬で、 小さな衝撃や摩擦でもすぐ爆発を起こす という欠陥がありました。 しかも導火線 ( 注 参照 ) で火をつけても、 燃えるだけで爆発しない という やっかいな性質がありました。 注 : 導火線とは下記の実験では、点火しても ニトログリセリンは燃えるだけで爆発しませんが、 衝撃や摩擦 により簡単に爆発することが分かります。 [ 6 : ニトロ爆薬の発想 ]導火線による点火だと ニトログリセリンはゆっくり燃えるだけだが、彼は導火線の先に極少量の黒色火薬を使い、ニトログリセリンのより大きな爆発を引き出すという アイディアを思いつきました。 衝撃を与えるための火薬と、ニトログリセリンの二段構えにする 「 油状爆薬 」 ( ニトロ爆薬 ) を 1863 年に完成しましたが、アルフレッド ・ ノーベルが 30 歳の時のことでした。 ニトログリセリンの起爆方法として、雷汞 ( らいこう ) と呼ばれる化学物質を雷管の起爆薬として用い、黒色火薬をまず爆発させ、その爆発で ニトログリセリンを爆発させる方法を発明し、この雷管を セットした ニトログリセリン爆薬を 「 ノーベル式油状爆薬 」 と名付け爆薬の特許を取得しました。 この計画は上手くいき爆発を希望通り引き起こすことには成功したものの、 望まない 爆発を防ぐ という問題は依然 未解決のまま でした 。ノーベルの家族は爆薬を作る工場を経営し、販売をしていました。 しかし 1864 年の 9 月に ストックホルムに ある実験室の 一つが爆発事故を起こし、五人の従業員とアルフレッド ・ ノーベルのすぐ下の弟 ( 五男 ) の エミール ( Emil Nobel、 21歳 ) も 爆発により死亡しました。 爆発の原因は不明でしたが、市当局により ニトログリセリンの製造を禁止されたため、市外の メーラレン湖に浮かべた平底船の上に新しい実験室を作り、安全な爆薬作りの研究に励みました。( 6-1、 油状液体爆薬の固体化 ) 黒色火薬に対する 「 油状爆薬 ( ニトロ爆薬 ) 」 の威力の優位性が知れ渡ると、需要が急増し、1868 年までに ヨーロッパ 11 ヶ国に火薬工場を作り、さらに アメリカにも進出して サンフランシスコに火薬会社を設立しました。 しかし液体状をした爆薬の取り扱いは不便さがあり、しかも爆発の危険がありました。
( 6-2、 ニトログリセリンの医学的効用 ) ニトログリセリン爆薬製造工場に勤務していた作業員が休み明けに仕事を始めると、ひどい頭痛や目まいに悩まされましたが、ある医師の研究の結果、頭痛は ニトログリセリンを扱ったことにより血管が拡張したためであることが分かりました。 その 一方で狭心症を患う従業員が自宅では発作が起きるのに、工場では起きませんでした。この事実に着目した医師の研究によって、狭心症の発作に ニトログリセリンの使用が有効であることが判明しました。 医薬品として用いられている ニトログリセリンは爆発を防ぐために添加剤を加えているので、いくら集めても爆薬には使用できず爆発事故を起こす心配も無く、狭心症の発作が起きたら 血管拡張作用 があるので、狭心症の即効薬 ( 舌下錠 ) として使われています。 通常成人では ニトログリセリン 0.3 mg ( 1 錠 )~ 0.6 mg ( 2 錠 ) を舌下使用し、まずは 1 錠を舌の下に入れ、そのまま溶けるのを待ちます。舌下錠を飲んでしまうと効果がありません。 口内が乾いているときは水を少し含み、舌を湿らせてから舌の下に入れると吸収が早くなります。1~ 5 分で効果があらわれますがもし狭心症の症状が続くようでしたら、もう 1 錠追加します。
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