葬送とお墓について
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[ 1 : 人間の寿命 ]厚生労働省が発表した 「 簡易生命表 」 によれば、2013 年の日本人の平均寿命は 男性 が初めて 80 歳を超えて 80.21歳 となり、1 位の香港 80.87 歳、2 位 アイスランド、3 位 スイスに次いで世界第 4 位でした。 その一方で日本人 女性 は、前年より 0.2 歳 寿命が延びて過去最高の 86.61 歳 となり、2 年連続の世界一 となりました。 人類史上で 確実な記録があり 最も長生きした人は、 フランス人女性の ジャンヌ ・ カルマン ( Jeanne Calment )で、1875 年 ( 明治 8 年 ) に生まれ 1997 年 ( 平成 9 年 )に死亡しましたが、 122 歳と164 日間生きました 。![]() [ 2 : 人類の進化と石器時代 ]![]() ![]() ![]()
[ 3 : 人類最初の埋葬と献花 ]約 20 万年前に出現し 2 万数千年前に絶滅した旧人類に属する ネアンデルタール人 ( Neanderthal ) がいましたが、ヨーロッパの石灰岩の洞窟内で 1856 年にその骨格化石が発見されました。その後 アフリカ ・ ヨーロッパ ・ 西 アジアなどの各地で、骨の化石が出土しました。 1951 年から調査が始まった イラク北部にある シャニダール 遺跡 では、発掘された ネアンデルタール人類の第 4 号骨格化石の周辺の土を アメリカの人類学者 ラルフ ・ ソレッキが調査したところ、少なくとも 8 種類の花の花粉や花弁 が含まれるとの結果が出ました。![]() ![]() [ 4 : 日本における遺跡 ]日本列島における人類の遺跡は 9 ~ 8 万年前の 岩手県 遠野市 金取遺跡 ( かねどり いせき ) に遡るとされますが、日本では噴火による火山灰が積もってできた ローム( Loam ) 層の 酸性土壌 および気候 ・ 地形など人骨の残りにくい条件がそろっていたため、旧石器時代の人骨化石の出土例は希です。 金取遺跡についても遺体が何万年もの間、酸性土壌に埋もれていたために、旧石器時代の 人骨が溶解してしまい 、 「 化石化された人骨 」 の出土はありませんでした。 そのため日本における旧石器時代の研究といえば、もっぱら石器 ( 旧石器 ) や副葬品を発掘し研究することにより、当時の人々の生活を推測することでした。[ 4-1、土坑墓 ( どこうぼ ) ] 中国では墓穴のことを 「 壙 」 ( こう ) といいますが、日本では墓に限らず人が掘った穴を 「 坑 」 ( こう ) と呼びます、 例えば坑道のように。 土坑墓とは土中に小規模な竪穴を掘り何の設備もせず、しかも遺体を棺などに入れずに布などで包んで直接埋める埋葬様式ですが、土 壙 墓 ( どこうぼ ) とも書きます。 墓の形は 屈葬 ( くっそう、4-2 の写真参照 ) なら不整円形が多く、 伸展葬 ( しんてんそう、左下の写真 ) の場合は楕円形や長方形となります。 ![]() ( 4-2、屈葬 ) 日本列島では前述したように屈葬は 旧石器時代からすでにおこなわれていましたが、集落の中の一定の場所に複数の屈葬墓坑 ( 墓穴 ) からなる 集団埋葬墓地 が作られるようになったのは、およそ 6 千年前の縄文時代前期からでした。屈葬の理由としては、
![]() ( 4-3、縄文時代と、弥生時代の墓 ) 縄文時代 ( 1 万 4 千年前 ~ 3000 年前 ) は、住居のそばに埋葬することが一般的であり、共同墓地としては ストーンサークル( Stone circle 、環状配石 ) が知られていますが、弥生時代 ( 紀元前 3 世紀 ~ 紀元後 3 世紀 ) になると集落の近隣に共同墓地を営むことが 一般的となりました。 また、縄文時代には前述したように遺体を直接埋める 土坑墓 ( どこうぼ ) が中心でしたが、弥生時代になると甕棺 ( かめかん ) ・ 石棺 ( せっかん、主に古墳時代に使用 ) ・ 木棺など埋葬用の棺 ( かん、ひつぎ ) の使用が中心となっていきました。 [ 4-4、甕棺墓 ( かめかん ぼ ) について ] 東北 ~ 近畿 ~ 九州の各地で縄文晩期以降の遺跡から、甕棺墓 ( かめかんぼ ) の風習があったことが判明していますが、その後、弥生時代の前期 ~ 中期の北部 九州において甕棺墓は最盛期を迎えました。 ![]() ![]() [ 5 : 古墳時代と、その終了 ]3 世紀中葉から、日本の各地で、土を盛り上げた大きな墓が作られるようになりましたが、この土を盛られた大きな墓のことを古墳 ( こふん ) といいます。これら古墳は、各地の国や地域を支配していた王や豪族の墓ですが、その大きさを権威の象徴と考えるようになりました。![]() ( 5-1、 仁徳天皇陵の陪塚 ) ![]() ( 5-2、 仁徳天皇といえば ) 1945 年 ( 昭和 20 年 ) の 敗戦当時 小学 6 年生 だった私は、骨の髄 ( ずい ) まで皇国民教育を受けて育ちましたが、仁徳天皇という諡号 ( しごう、おくりな ) が示すように、 慈悲深い天皇 として国史の時間に習いました。 人々の貧しい暮らしを救うために租税を 3 年間免除し、民が富めるのを御覧になった 仁徳天皇が、 ![]() 高き屋 ( や ) に のぼりて見れば煙 ( けぶり ) 立つ 民のかまどは賑わいにけり ( 新古今集、707 ) [ その意味 ] 高殿に登って国のありさまを見わたすと、民家からは炊煙 ( すいえん、炊事の煙 ) がたちのぼっている。民のかまど ( 生活 ) も豊かになり、国も栄えているのだなあ。 ちなみに新古今集 ( しんこきんしゅう ) とは、皇位継承の正統な 「 しるし 」 である 「 ( 三種の ) 神器なき即位 」 で有名な後鳥羽天皇 / 上皇の命で、鎌倉時代初期 ( 1205 年 ) に編纂された第八番目の勅撰和歌集、全二十巻のことで、正式名称は 「 新古今和歌集 」。という歌を詠まれましたが、その経緯は 仁徳天皇の 四年 ( 316 年 ? )、天皇が難波高津宮の高殿から遠く ( 大阪平野 ) を見渡すと、どの民家からも炊煙が立ちのぼっていませんでした。これは民に食べるものがなく生活が苦しい状態なのだと察知し、以後 三年間は租税を免除しました。 租税が入らないため天皇の宮殿は傷んでも修理ができずに雨漏りしていましたが、三年後にまた高殿に上がって見渡すと、多くの民家から竃 ( カマド ) の煙が立ち登っていました。そこで天皇は、前掲の歌を詠み さらに 三年間 租税を免除しました 。 合計六年が経過した後にやっと租税を課して、宮殿の修理をお許しになりました。すると人々は命令もされていないのに、進んで宮殿の修理をはじめ、またたくまに立派な宮殿ができあがったとされます。 それ以来、人々は仁徳天皇を 聖帝 ( ひじりの みかど ) と 崇 ( あが ) めるようになりましたとさ 。目出度し ・ めでたし。 ( 5-3、 仁徳天皇 陵の工事見積もり ) 一社で年間の売り上げが 1 兆円以上ある ゼネコン( 総合建設会社 ) を、 スーパー ・ ゼネコンと呼びますが、それらは 鹿島建設 ・ 清水 ・ 大成 ・ 竹中工務店 ・ 大林組の 5 社です。 昭和 60 年 ( 1985 年 ) に大林組が発行した、季刊社報の 大林 20 号 には 「 王 陵 」 の頁があり、そこには仁徳天皇 陵の建設についての 「 工事見積もり内容 」 が掲載されていました。 これは考古学者の間で 「 大林組 プロジェクト 」 として知られており、多くの考古学関係資料でも取り上げられています。 その施工条件としては、
前述した 慈悲深いはず の仁徳天皇が 生前から 自分が葬られる予定の巨大な陵 ( みささぎ、墓 ) の建設を開始し、そのために多くの人民を十数年間も労働させ多額の国費を費やしました。 ![]() [ 6 : 律令時代の墓 ]6 世紀末に前方後円墳が消滅し、円墳や方墳が主となると共に大規模な墳丘はつくられなくなりました。そして 7 世紀になると 古墳は、急速に終末を迎えました 。約 400 年にわたってあれだけ盛んに築造された古墳は、なぜ姿を消すのでしょうか。そして巨大な古墳にとってかわる 「 墓 」 とはどのようなものだったのでしょうか。( 6-1、大化改新と、 薄葬令 ) 645 年 6 月 12 日、三韓 ( 新羅、百済、高句麗 ) から貢 ( みつぎもの ) を献上する使者が来日し、大極殿で儀式が行われた際に 「 乙巳の変 」 ( いっしのへん ) の クーデターが起きました。 ![]() およそ 三位以上、および別祖 ・ 氏宗は、並びに墓を営することを得。 以外はすべからず 。墓を営することを得といえども、もし大蔵せんと欲すればゆるせ。 [ 意味 ]
[ 7 : 火葬について ]諸民族の間でおこなわれている遺体処理には、土葬 ・ 火葬 ・ 水葬 ・ 風葬などがありますが、このうち 火葬は仏教国で広く行われてきた方法です。仏教では火葬にすることを 「 荼毘 ( だび ) に付す 」 ともいいますが、これは インドの パーリ語の音訳で 「 燃やす 」 の意味だそうです。 インドの アーリア 族古来の習俗であった火葬が仏教と共に日本に伝わり、もともと遺体を河原 ・ 野原 ・ 谷間 ・ 林間などに 捨てていた 「 遺棄葬 」、 あるいは 「 風葬 」や 「 土葬 」 であった日本の葬法に、大きな変化をもたらしました。 火葬は主として僧侶により採用された葬法であり、記録上は 「 続日本紀 」 ( しょく にほんぎ ) の文武 ( もんむ ) 4 年 ( 700 年 ) の条にある、元興寺 ( がんこうじ ) の僧 道昭 ( どうしょう ) の火葬をもって日本最初としました。 しかし実際は 6 世紀 7 世紀の火葬墳墓 ( 例えば 神戸市 垂水区の高塚山古墳群の横穴式石室から、火葬跡 4 ヶ所と焼骨 ) が発見されたことなどから、火葬の起源は前述の 700 年よりも遡 ( さかのぼ ) るとされます。( 7-1、挽歌 ) 奈良時代 ( 710 ~ 794 年 ) 末期に編纂された万葉集に、女性の火葬を詠んだ挽歌 ( ばんか、注参照 ) があることから、火葬にされたのは僧侶や男性だけとは限りませんでした。 ちなみに挽歌とは古代中国で葬送の際に、柩 ( ひつぎ ) を乗せた車を挽 ( ひ ) く者が歌った歌のことですが、そこから人の死を悼 ( いた ) む詩歌 ( しいか ) ・ 哀悼歌 ( あいとうか ) をいいます。 万葉集では恋人同士の間で詠みかわされた相聞歌 ( そうもんか ) ・ 種々雑多な内容の歌である雑歌 ( ぞうか ) とともに、挽歌は 三大区分の一つであり、人の死を悲しみ悼 ( いた ) む歌のことです。 [ 注 : 火葬を詠んだ挽歌 ( ばんか ) ] 土形娘子 ( ひじかたの おとめ ) を泊瀬山 ( はつせのやま ) に火葬 ( やきはぶ ) る時に、柿本朝臣人麻呂 ( かきのもとの あそみ ひとまろ ) の作る歌 一首 ( 巻 3-428 ) [ 原文 ] 隠口能 泊瀬山之山際尓 伊佐夜歴雲者 妹鴨有牟 [ 読み方 ] 隠口 ( こもりく ) の泊瀬 ( はつせ ) の山の山際 ( やまのま ) に いさよふ雲は妹 ( いも ) にかもあらむ [ その意味 ] 隠口 ( こもりく ) とは泊瀬 ( はつせ ) に掛かる枕詞で、泊瀬の山々のあたりに いつまでも 去りやらずにいる雲は あれは妹 ( いも、恋人 ? ) のかわった姿 ( 火葬の煙 ) でもあろうか。 土形娘子 ( ひじかたの おとめ ) とは、土形氏の女性とも遠江 ( とおとうみ ) ( 静岡県 ) 城飼 ( きこう ) 郡 土形 ( ひじかた ) 出身の 采女 ( うねめ、天皇の食事に奉仕した後宮の女官職 )で、容姿の美しい女性であった ともいわれる。死後大和 ( やまと、奈良県 ) の 泊瀬 ( はつせ ) の山で火葬にされましたが、後世に歌聖と呼ばれ 三十六歌仙の一人でした柿本人麻呂との関係 ( 恋人、後妻 ? ) は不明です。
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