天安門事件について


[ 1:戒厳令布告 ]

今年 ( 平成 16 年 ) の 6 月 4 日で天安門事件からまる 15 年が経ちますが、事件の 2 日前に私は天安門広場を訪れました。これから述 べるのはその時の事です。

天安門事件の発端になったのは平成元年 ( 1989 年 4 月 15 日に死亡した、改革推進派の政治指導者で中国共産党総書記だった、 胡耀邦 ( こようほう 、後に守旧派や軍の圧力により失脚 ) を、学生や若い労働者が追悼する集会をしたことから始まりました。 その後政府に対する民主化要求運動が次第に大きくなり、ついには天安門広場に スローガンを掲げて大きな集会が行われるようになり ました。

守旧派の頭領で当時の最高実力者の ケ小平 ( とうしょうへい ) がこれを社会秩序を乱す動乱と認定し、5 月 20 日には北京市とその周辺に 戒厳令を布告 する事態になりました。

[ 2:成田空港 ]

平成元年 ( 1989 年 ) 6 月 2 日の朝、私は成田から北京まで飛ぶことになりました。出発時刻の 1 時間半前に出社しましたが運航担当者との打ち合わせでは、北京市内に現在発せられている戒厳令が空港地域まで拡大し、空港閉鎖になった場合の対応が問題になりました。飛行中であればその時点で日本へ引き返す。着陸後であれば離陸可能になるまで、現地の ホテルで待機する方針を確認しました。

北京に着陸出来ない場合に備えて、通常であれば遼東半島の大連まで飛べる燃料しか積みませんが、当日には北京上空から九州の福岡まで引き返せる十分な燃料を飛行機に積むことにしました。

出発前に 14 名の スチュワーデスとの打ち合わせで最悪、現地に滞在の可能性を告げたところ、彼女達も予めその用意をして来ているとのことで安心しました。私の用意といえば下着を 2 組、余分に荷物に入れただけでしたが、下着は バスルームで洗濯すれば良く、外国でも通用する クレジット ・ カードがあれば、ホテルに長期間滞在しても飢える心配はありません。

乗客の搭乗が始まりましたが、いつもは観光客で混む 326 名乗りの飛行機の座席には、ビジネスマンらしい服装をした 21 名の乗客しかいませんでした。戒厳令下の北京にわざわざ仕事をしに行く ビジネスマン達も、かなり緊張した様子でしたが、この混乱の最中に中国に行っても仕事になるのかどうか、他人事ながら気になりました。

[ 3:中国の情報コントロール ]

飛行中におこなう機長の機内 アナウンスの際に、もし北京空港が閉鎖された場合には、直ちに成田に引き返すこと。北京上空から引き返す場合は九州の福岡空港に一旦着陸すること。新しい情報が入り次第 アナウンスする旨を伝えました。緊迫した事態のせいで北京行きを欠航した航空会社もあったのでしょうか、いつもは混雑する時間帯なのに北京空港に向かう飛行機が少なく、空港地域には戒厳令も布告されず、無事に着陸しました。後で聞いた話によれば北京を離発着する中国民航の国内線は、全便が欠航したとのことでした。

乗客の降機が終了すると直ぐに、現地の日本人駐在整備士が操縦席にやってきて我々に質問しました。 北京の事態はどうなっているのですか?。現地ではさっぱり情報がつかめないので教えて下さい。

言論統制や情報 コントロールが厳しい共産主義国家では、その当時から テレビ、ラジオ、新聞も、 自国に都合の悪いことは一切報道しませんでした 。共産党の機関紙である 「 人民日報 」 などは 虚偽の記事ばかり掲載するので、「 紙面で正確なのは 日付だけ と酷評されていました。駐在員達は成田でその日の朝に機内に積み込んだ日本の新聞を、食い入るように読んでいました。

[ 4:ホテル ]

乗組員専用 バスに乗り空港から北京市内の ホテルに向かいましたが、その途中で武装警官隊の検問を受けました。車内に入ってきた警官に全員 が 乗組員 ( Flight Crew ) であることを私が告げると、身分証明書、パスポートの点検をせずに車を降りて行きました。学生の市内への移動を阻止するのが目的のようでした。アメリカ系資本の ホテルはいつもは アメリカ人観光客などで混雑していましたが、戒厳令のために観光客が来ずに閑散としていました。

部屋に入り テレビの電源を入れると、 ニュース番組は放送中止の状態で、固定画面に クラシックの音楽だけが流れていました 。そこで好奇心の強い私は副操縦士、航空機関士とも相談して、混乱が続く天安門広場を 3 名で見物に行くことにしました。

ホテルの中国人 マネージャーに タクシーで天安門まで行けるかどうか尋ねたところ、近くまでなら行けるが、そこから 10 分程度歩けばよい。但し学生や警察から スパイ と間違えられるので カメラは絶対に持って行くな。 会社の身分証明書 ( I. D.カード ) ではなく、パスポ−トを必ず持参せよと注意を受けました。当時北京の タクシー事情は台数が少なく、一度手離したら タクシーがつかまらないので、ホテルから市内の レストランに食事に行く際には時間で借り切り、食事の間も レストランの外で待たせておくのが普通でした。

英語が分かる運転手が少なかったので マネージャーに依頼し、車を 3 時間 チャーターすること。天安門近くの裏道に車を止めておき、我々が戻るまで待つように通訳してもらいました。タクシー代金は日本円に換算して、せいぜい 1,000 円前後だったと思います。

[ 5:天安門広場 ]

天安門広場 故宮の城壁近くの路地に車を止めたので、そこから 15 分ほど歩いて天安門広場に行きました。

自由の女神

人民英雄記念碑の周辺が集会の中心らしく、自由の女神に似せて作った発泡スチロール製(?)と思われる高さ 10 メートル近くの、白色の 「 民主の女神像 」 が建てられていました。そこでは日本の テレビ ・ ニュースによく映像が出ていた女性 リーダーの、「 柴玲、チャイ ・ リン 」 らしい若い女性が マイクを握り アジ演説をしていました。


天安門広場の警察官

広場には数万人の学生や若い労働者が集まり テントが張られ、中国の国旗が掲げられていました。その周囲を自転車を押した多数の見物人が更に取り巻いていましたが、さすがに抜け目のない中国人らしく、革命間近 ( ? ) を思わせる雰囲気の中でも、 アイスキャンデーを売り歩く者が大勢いました。北京の 6 月は暑いのでよく売れていましたが、いつもは広場を監視する警察官の姿は 1 人も見えませんでした。

[ 6:壁新聞 ]

天安門前の大通り ( 東、西長安街 ) の下には地下道があって広場に通じています。その地下道には民主化を求める運動に参加するために、地方から上京した学生、労働者などが大勢地面に寝ていて異臭を放っていました。地下道の出入り口付近の壁や、神聖な故宮を囲む エビ茶色の城壁にもいわゆる壁新聞がたくさん貼り出されていて、人々は読んだり、内容を筆写したりしていました。

壁新聞

壁新聞のことを中国語で大字報というのだそうですが、大きな紙に書かれた情報などのことで、前述のように党や政府が支配する マスコミ報道では得られない情報を伝える、庶民の知恵でした。情報の価値と紙面の大きさとは無関係らしく、ノートの切れ端のような紙切れを読むために大勢の人が群れている場合もありました。壁新聞の情報が、更に 口 コミで素早く大衆の間に広がるのでしょう。写真は北京大学構内の壁新聞から、情報をノートに写す学生たちです。

私が理解できた壁新聞の文字の一つは 下台 李鵬 ( りほう )で、下台とは 「 退陣又は罷免せよ 」 の意味ではないかと想像しました。改革解放路線に反対した強硬派の李鵬首相に学生側が退陣を迫るという、言論統制下での勇気ある壁新聞でした。

[ 7:北京空港からの脱出 ]

平成元年 ( 1989 年 ) 6 月 3 日 ( 天安門事件の前日 ) の午後に成田までの乗務のため乗組員と共に北京空港に行くと、国際線の出発 カウンター前や出国 ロビーは、国外に脱出しようとする人達で溢れる大混雑でした。それは話に聞いた ベトナム戦争末期 ( 昭和 50 年、1975 年 ) に、旧南 ベトナムの首都 サイゴン ( 現ホー ・ チ ・ ミン市 ) が 陥落する間際の、タン ・ ソン ・ ニュイット ( Tan Son Nhut、現 ホーチミン ) 国際空港の大混乱振りのようでした

北京市内は戒厳令のため銀行が閉鎖されて預金が下ろせず、電話も通じないので クレジット ・ カードの認証ができず、カードがあっても現金が無ければ航空券は買えない状況でした。そのため現金では買えない日本人には帰国後に運賃を支払う旨の誓約書を書いてもらい、航空券を発券したとのことでした。しかし満席のため何百人もの人々を北京空港に積み残したので、全日空、日本航空ではそれぞれ 1 機ずつの 臨時便を用意して、その人たちを夜中に北京から成田に運ぶことになりました。

スチュワーデスの話によれば私たちの飛行機が北京空港から離陸すると、満席の乗客が一斉に大きな拍手をしたそうですが、 北京から無事に脱出することができて よほど嬉しかったのでしょう

[ 8:ケ小平と暴乱 ]

前述の如く中国の民主化を求める学生、労働者の集会をケ小平が 動乱 と認定しましたが、いっこうに収まらない混乱状態に共産党指導部は 反革命的 暴乱 と規定しました。そこでケ小平が人民解放軍に出動を命じ、天安門広場には 6月4日未明に戦車を伴った軍隊が突入し、学生労働者を排除しましたが、その際に発砲したために多数の死傷者が出ました。

当時のケ小平の有名な言葉があります。

窓を開ければ( 改革解放をすれば ) ハエ が入ってくる。入った ハエ はぴしゃりと叩けばよい。その為には 100 万人が死んでもかまわない
と彼が発言したとのことでした。毛沢東の共産主義革命やその後の大躍進政策の失敗、文化大革命の混乱などで 数千万人もの犠牲者 を出した為政者の感覚からすれば、100 万人くらいは ものの数ではない のでしょう。その彼も平成 9 年 ( 1997 年 ) 2 月には世を去りました。

[ 9:結局、死傷者は何人だったのか?。]

天安門事件の死傷者の数については、当初 1 万数千人という数字を学生側が主張していました。しかしその後天安門広場に最後まで残っていた外国 テレビの カメラ ・ クルーの撮影映像から、その数字は事実では無いことが判明しました。

一つの答えとして中国政府の内部資料がありますが 情報操作が得意中の得意の国ゆえ 、これが正しい数字とは限らず、これに代わる資料が無いのであくまでも参考にしか過ぎません。

注:)李錫銘の報告
1989 年 6 月 19 日の中国共産党政治局拡大会議における李錫銘 ( 北京市党委員会書記 )の報告、題名 「 北京における反革命暴乱鎮圧に関する報告 」 によれば、

北京市当局は、戒厳部隊司令部、公安部、中国紅十字会、すべての高等教育機関、すべての主要な病院から報告された死傷者数について、二重、三重の確認をおこなった。その結果、 241 人の死亡者数 が判明した。内訳は戒厳部隊の将兵 23 人と一般人 218 人である。軍関係の 23 人の死亡者の内訳は、人民解放軍 10 人、人民武装警察官 13 人である。

一般人死亡者 218 人には、北京の各大学の学 生 36 人、北京以外からの上京者 15 人が含まれている。 約 7,000 人が負傷した。そのうち約 5,000 人は戒厳部隊の将兵であり、うち 136 人が重傷を負った。( 以下略 )

注:)
負傷者に比べて死者が少な過ぎるのが気になりました。それに将兵の負傷者が 5,000 名とは?

[ 10:逮捕、死刑 ]

その後民主化運動の大勢の指導者、活動家に逮捕状が出ましたが、指導者の 「 柴玲 」 や蒙古人の 「 ウアルカイシ 」( 吾爾開希 )は当局による必死の捜査の目をくぐり抜け、ホンコン経由で アメリカに亡命しました。

北京市公安局発行の「 治安情勢 」、26、31、37号によれば

468 名の反革命暴徒と動乱の首謀者 が 6 月 10 日までに逮捕され、このうち 8 名 が北京における反革命暴乱時期の殴打、打ち壊し、略奪、放火、その他の重大犯罪のかどで死刑の判決が下された。6 月 30 日までに逮捕された人数は 1,003 名 に及んだ。

とありましたが、死刑に処せられた人の人数や罪名をそのまま信じる人は、 中国政府のやり方について よほど無知か、単純な人です

最後に天安門事件の 2 日前に運よく天安門広場を訪れることができましたが、マネ−ジャーの忠告に従い カメラを持参せず、歴史的な光景を撮影できなかったのが残念でなりません。


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