地震と津波


[ 1: 大震災の序曲 ]

平成 23 年 3 月 11 日の午後、地 デジ移行に備えて ブルー レイ ・ レコーダーの下見に家電量販店を訪れましたが、何気なく テレビの予算委員会の中継を見ると菅総理を初め閣僚たちが上を見あげたので、何かあったのかと思いました。関西では小さな地震の揺れでしたが、東京ではかなり大きな揺れとなり委員会室の天井にある照明器具が揺れたためでしたが、それが 14 時 46 分に東北 ・ 関東地方を襲った大震災の始まりでした。

テレビ画面では間もなく 三陸沖が震源地であり、地震の大きさを示す マグニチュード 8.4 の値が出ましたが、同時に大津波警報が出され、後には マグニチュードが 8.8 に変更され最終的には  9.0 と新記録に更新されました。

[ 2: 地震 ・ 津波の古い記録 ]

最も古い地震の記録は紀元前 2,300 年頃で、中国の古文書 ( こもんじょ ) にあるそうですが、これは古代中国の伝説上の 天下を良く治めた 五帝の 1 人である舜帝 ( しゅんてい ) の時代に、 地震泉湧 ( じしん せんゆう ) と書かれているのだそうです。次に古い記録は紀元前 1831 年のもので、中国には紀元前だけでも 50 回 もの地震の記録があるといわれています。

( 2−1、古代日本の記録 )

日本に関しては 720 年にできた日本書紀の中で 允恭 ( いんきょう ) 5 年 ( 416 年 ) 7 月 14 日 地震 大和国で地震の揺れあり と書れているのが最も古い地震の記録だそうですが、被害の記録としては第 33 代 推古 ( すいこ ) 天皇の 7 年 ( 599 年 ) の 4 月 27 日の条によれば、

夏四月乙未朔辛酉、地動舎屋悉破、即令四方、伸祭地震神

夏 4 月の乙未 ( きのと ひつじ ) 朔 ( さく、新月 ) 辛酉 ( かのと とりの 年 )に、地震で舎屋 ( しゃおく ) ことごとく倒壊せり。 各地に地震神 ( ない の かみ ) を祭らせる

とありました。地震のことを古くは ない といいましたが、「 な 」 は土地のこと、「 い 」 は 居の意味で 「 名居 」 とも書きました。 大和地方を襲ったこの地震を契機に、各地に地震の神を祀る 「 名居神社 」 が建立されました。 また第 40 代 天武天皇の 13 年 ( 684 年 ) 10 月 14 日の条によれば、

大地震 ・ 土佐国の田畠 ( たはた ) 海中に没し、伊豆島 ( いずのしま ) 西北に島を生じ、家屋 ・ 人畜の被害多数。


との記録がありました。

[ 3 : 明治以降の地震 ・ 津波被害記録 ]

参考までに明治以降の地震 ・ 津波による、死者 ・ 行方不明者が 1,000 人以上 出た大地震のみを、表に示します。


発 生 年マグニチュード地震名死者数地域
明治24 ・1891年8.0濃尾地震7,273中京地区
明治29 ・1896年8.2明治 ・三陸地震21,959三陸
大正12 ・1923年7.9関東大震災10万5千東京都
昭和2・1927年7.3北丹後地震2,925京都府宮津
昭和8 ・1933年8.1昭和 ・三陸地震3,064岩手県宮古
昭和18 ・1943年7.2鳥取地震1,083鳥取市
昭和19 ・1944年7.9東南海地震1,223三重県
昭和20 ・1945年6.8三河地震1,330和歌山県
昭和21 ・1946年8.0南海地震2,306三重県
昭和23 ・1948年7.1福井地震3,769福井県
平成7 ・1995年7.3阪神 ・淡路大震災6,434神戸
平成23年 ・2011年9.0東北 ・関東大震災3 万 (?)東北・関東

( 気象統計情報 )


溺れる人

注目すべき点は今回の東北 ・ 関東大震災に限らず、三陸 ( 三陸とは、旧国名の 陸前 ・ 陸中 ・ 陸奥の総称 ) 沿岸における 津波による被害 の大きさで、過去にも明治 29 年 ・ 昭和 8 年 ・ 死者が少ないのでこの表には記載しませんが、昭和 35 年 ( 1960 年 ) にも 1 万 キロ 離れた チリ で発生した地震 ( マグニチュード 9.5 ) による チリ 地震津波 が 三陸沿岸を襲い死者を出しました。

三陸海岸

地形が複雑に出入りする リアス式海岸 ( 注 : 参照 ) のために地震そのものよりも、 地震により発生した 津波 により昔から大きな被害が出ましたが、 今回も同じでした。

写真は テレビで津波被害の状況が連日放映されていた岩手県 ・ 気仙沼市 ( けせんぬまし ) ・ 陸前高田市 ( りくぜんたかだし ) ・ 大船渡市 ( おおふなとし ) 周辺の地形写真です。

気仙沼の市街が津波に襲われる動画はここにあります。



注 : ) リアス式海岸
シルクロード ( 絹の道 ) の名付け親として知られる ドイツの地理学者 リヒトホーフェン が、スペインの イベリア半島北西海岸で入り江が多く見られた事から、スペイン語で 「 入り江」 を意味する Ria ( リア ) の多い地方の海岸を、1886 年に 「 リアス 式海岸 」 と名付けました。

リアス式海岸とは起伏の多い山地が 地盤の沈下 または海面の上昇によって海面下に沈んで生じた 沈水海岸 のことですが、出入りの多い複雑な海岸地形をつくり、海岸線は ノコギリ の歯のように出入りし、背後は山地のところが多いという特徴があります。

東北地方の太平洋岸では 北は青森県 ・ 八戸市東方の鮫 ( さめ ) 岬から 、先端に金華山がある宮城県 ・ 牡鹿半島 ( おしかはんとう ) に至る 三陸沿岸は、リアス式海岸として日本で最も複雑な切り込みの多い海岸線として知られています。海岸には山肌がせまり、鋭く入り込んだ湾の奥に市町村の住宅が存在しています。

入り江の奥

三陸沖の深海で発生した地震による津波が勢力を衰えずに沿岸に到達すると、入り江は太平洋に向き、湾口に較べて一般に奥の方が狭くなっているので、 V 字状 の陸岸により津波の エネルギーが集中し、波高が非常に高くなり 津波の被害が大きくなる特徴 があります。また、湾内では一度押し寄せた津波が反射波となり対岸同士を繰り返し襲い、津波の継続時間が長いことも知られています。

日本海などのように、比較的陸地と陸地が接近している場合、対岸に押し寄せた津波が陸地境界に反射して戻ってくる反射波が繰り返し相互に襲う場合があり、平成 5 年 ( 1993 年 ) におきた北海道 南西沖地震、マグニチュード 7.8、震度 6 の際には、韓国 ・ ロシアなどの大陸を襲った波が、反射して再び奥尻島 ・ 北海道に押し寄せ、場所によっては 1 時間に高さ 3 メートル以上の津波が 13 回 も襲来したといわれています。

[ 4: 地震 ・ 津波発生の仕組み ]

北米プレート

地震や津波はなぜ起きるのでしょうか、1960 年代に発表された地球科学の学説に プレート理論、または プレート ・ テクトニクス ( Plate Tectonics ) がありますが、地球の表面が右図に示したような 十数枚の固い岩板 ( プレート、 Plate と呼ぶ ) で構成されていて、この プレートがその下で対流する マントル ( Mantle 注: 参照 ) に乗って 1 年間に数 センチというゆっくりした速度で動いていると説明されます。

注:)マントル
地殻の下から深さ 2,900 キロメートル までの部分で地球の体積の約 83 パーセント を占め、地質学的に長い時間でみれば流動していて、熱対流が地殻に力を及ぼして大陸移動や造山運動を起こすとされる説です。

地震の原理

日本列島の東には太平洋 プレートと北米 プレートの境界がありますが、太平洋 プレートが北米 プレートの下に徐々に潜り込んでいます。その動きに接する北米プレートも徐々に曲げられていきますが、 ストレス ( 歪み ) がある限界に達すると 曲げられていた プレートが突然跳ね上がり、もとの状態に戻ろうとします

津波の発生図

この動きが地震であり、海底深くでこの現象が起きると、跳ね上げられた プレート に接する海水にも動きが伝わるため、津波が起きます。前述のように 三陸のはるか沖には プレートがぶつかって生じた境界面があるために昔から地震が多発し、言わば 地震の巣 ですが、三陸沿岸を襲った地震 ・ 津波のうち、明治以前の記録を挙げますと下記の通りです。

( 4−1、明治以前の地震 ・ 津波の記録 )

  1. 貞観 11 年 ( じょうがん、869 年 )、大地震により死者多数、 津波が襲来し、 死者 千 余名。 ( 清和 ・ 陽成 ・ 光孝天皇の 858〜887 年までの歴史書である、三代実録の記述 )、現代で推定すれば 震度 6 の烈震 〜 7 の激震に相当。

  2. 天正 13 年 ( 1585 年 ) 津波来襲

  3. 慶長 16 年 10 月 ( 1611 年 ) 地震の後大津波。仙台 ・ 伊達領内で 死者 1,783 名 、青森県の津軽 ・ 南部地方で 人馬の死 3,000 、津波の高さは岩手県 ・ 田老 ( たろう ) と船越 ( 現、山田町 ) の小谷鳥 ( こやどり ) で 15 〜 20 メートル、宮古で 6〜8 メートル

  4. 同年 11 月、大地震の後、津波が 3 度来襲。 仙台 ・ 伊達領内の 溺死者 5,000 名

  5. 元和 2 年 ( 1616 年 )、強震後、大津波あり

  6. 慶安 4 年 ( 1651 年 )、宮城県下に津波来襲

  7. 延宝 4 年 ( 1676 年 )、三陸海岸 一帯に津波。人畜多数死亡し家屋の流失も大

  8. 延宝 5 年 (1677 年 )、岩手県下に数十回の地震後、津波により宮古、鍬ヶ崎、大槌浦などで家屋流失

  9. 貞亨 4 年 ( 1687 年 )、塩釜をはじめ宮城県下沿岸に津波来襲

  10. 元禄 2 年 ( 1689 年 )、三陸沿岸に津波あり

  11. 元禄 9 年 ( 1696 年 )、宮城県石巻の河口に津波来襲、船 300 隻をさらい溺死者多数

  12. 亨保年間 ( 1716〜1736 年 )、に津波あり、田畑に海水浸入

  13. 宝暦元年 ( 1751 年 )、岩手県下に津波

  14. 天明年間 ( 1781〜1789 年 )、に津波来襲

  15. 天保 6 年 ( 1835 年 )、仙台地震による津波で人家 数百流失、死者多数

  16. 安政 3 年 ( 1856 年 )、北海道南東部に強震、大規模な津波あり

以上のように、 かなりの頻度で地震 ・ 津波が 三陸沿岸を襲いました。

( 4−2、津波の高さ )

津波伝承碑

前述したように地震によって海底が突然隆起したり、沈降したりするとその上の海面にも変化が生じそれが波長の長い波となって四方に伝わるのが津波です。津波の伝わる速度は水深が深いほど速く、外洋では時速数百 キロ の ジェット機並みの速さで伝わりますが、浅いところでは遅くなり海岸に近づくと波高を増し、三陸沿岸では 明治 29 年 ( 1896 年 ) の大津波 の際に 38.2 メートル の高さの津波を記録しました。

上記の津波の高さは伊木常識博士と宮城県土木課の手で算出され発表されたものですが、それ以外の津波の高さと地点は、

  1. 岩手県 ・ 気仙 ( けせん ) 郡 ・ 吉浜村 ・ 吉浜で、 24.4 メートル

  2. 同郡 ・ 綾里村 ・ 白浜で、 22.0 メートル

  3. 同郡 ・ 唐丹村 ・ 小白浜で、16.7 メートル

  4. 同郡 ・ 同村 ・ 本郷で、14.0 メートル

  5. 岩手県 ・ 下閉伊 ( しもへい ) 郡 ・田野村 ・ 羅賀で、 22.9 メートル

  6. 同郡 ・ 重茂村 ・ 姉吉で、18.9 メートル

  7. 同郡 ・同村 ・ 千雜北側で、17.1 メートル

  8. 同郡 ・ 普代村 ( ふだいむら ) ・ 太田名部で、15.2 メートル、( 7−2 で後述します )

  9. 同郡 ・ 田老 ( たろう ) 村 ・ 田老で、14.6 メートル

  10. 九戸 ( くのへ ) 郡 ・ 野田川村 ・ 玉川で、18.3 メートル



( 4−3、津波地震 とは )

注意しなければならないのは 地震の大きさと津波の大きさとは 関連しない場合がある ことで、明治 ・ 三陸地震の場合は 震度 3 程度 の小さな揺れであっらにもかかわらず、巨大な津波が発生し、2 万人を超える犠牲者が出ました。

その理由は、この地震が巨大な力 ( マグニチュード 8.2 〜 8.5 ? ) を持ちながら、ゆっくりと揺れ動く地震、つまり 津波地震 だったためであり、地震の規模を示す マグニチュード の割に不相応に大きい津波を発生させる地震だったからでした。

原因は、海底の地震断層がゆっくり動いたからであり、その規模が大きくても伝わる地震波が相対的に小さいためであるとされています。

 八木勇治 ・ 筑波大准教授の解析では、3 月 11 日の地震は 長さ 600 キロメートル、幅 200 キロメートル の範囲の断層が破壊されて起き、大きいところで断層が 8 メートル もずれ動いたと推定されました。

断層の動き

北米 プレートと太平洋 プレートの境界面には柔らかい堆積物が大量にたまっていて、それが数分間にわたってゆっくり動いたと推定されますが、その独特の動きが 激しく揺れる地震波よりもはるかに大きな エネルギーを海水に与えたと考えられています。今回の長く続いた地震の揺れも 115 年前に起きた明治 ・ 三陸地震の揺れ方と同じであり、三陸沿岸ではこの種類の地震を昔から ヌルヌル 地震、 ゆっくり地震 などと呼びました。

今回得た地震の教訓は、

  1. 地震の大きさ ( 震度 ) と共に 揺れ方にも注意 する。ゆらゆら長い時間揺れる地震は、高さ 10 メートル 以上の大津波をもたらす場合がある

  2. 沿岸部に住む人は、グラッと揺れたら 津波の用心

  3. 大津波の前には一旦潮が引く( 引き波がある ) とする、子供の頃に教科書で習った 稲むらの火 俗説は間違いで 、津波の発生原因を考えれば、いきなり寄せ波 ( 津波 ) が来る場合もあります。

  4. 津波の第 1 波よりも、第 2 波、第 3 波の方が 大きい場合 があります。

  5. 機敏な避難 こそが、究極の津波対策です。


( 4−4、津波予報について )

気象庁は日本の沿岸を 66 の地域に分けて津波予報を発表していますが、すぐに津波が来る場所の地震についてはおよそ 3 分後に 、陸から遠く離れた地震についてはおよそ 7〜 10 分後に 発表します。

地震の揺れは波動として観測されますが、それには P ( Primary ) 波と S ( Secondary ) 波があり、P 波は縦揺れ、S 波は横揺れの波です。地震発生後 気象庁は コンピュータ で速やかに震源の位置 ・ 地震の規模を決め、津波発生の有無と沿岸における津波の高さを予測しますが、堅い地殻を通じて伝わる地震波は津波よりも伝播速度が速いので、その速度差 ( 換言すれば 時間差 ) を利用して津波予報を出します。

予報の種類解 説発表される津波の高さ



大津波高いところで 3 m 程度以上の津波が予想
されますので、厳重に注意してください。
3 m ・ 4 m ・ 6 m ・
8 m ・ 10 m 以上
津波高いところで 2 m 程度の津波が予想
されますので、厳重に警戒してください。
1 m ・ 2 m




津波注意高いところで 0.5 m 程度の津波が
予想されますので、注意してください。
0.5m



[ 5: 津波の高さの測定 ]

日本には干潮満潮などの潮位を常時測り記録する地点が 186 箇所あり、気象庁 ( 検潮所 )・国交省港湾局 ( 験潮場 )・海上保安庁( 験潮所 )・ 地方自治体などがそれぞれ管理運用しています。今回の地震に関連した験潮場としては、

  1. 港湾局 久慈 験潮場、岩手県 久慈市 長内町

  2. 気象庁 宮古 検潮所、岩手県 宮古市 日立浜町

  3. 海上保安庁 釜石 験潮所、岩手県 釜石市 魚河岸町

  4. 気象庁 大船渡 検潮所、岩手県 大船渡市 赤崎町

  5. 気象庁 鮎川 検潮所、宮城県 石巻市 鮎川町

  6. 港湾局 仙台新港 験潮場、宮城県 仙台市 宮城野区

  7. 国土地理院 相馬 験潮場、福島県 相馬市 原釜

  8. 気象庁 小名浜 検潮所、福島県 いわき市 小名浜
なので、巨大津波が襲った際の貴重な計測 データ が将来発表されることでしょう。 私が生まれた昭和 8 年に起きた 昭和 ・ 三陸地震の後に当時の中央気象台の 国富信一技師は、津波の高さを測る手がかりとして次の三つの方法を挙げています。

  1. 海中に設置された 検潮儀 ( けんちょうぎ ) による方法
    この記録を調べれば海面がどの程度上昇したかがわかる。しかし、津波は海岸に達した時に異常なほどの高まりをみせるので、海面の上昇をそのまま津波の高さとするわけにはいかない。つまり 検潮儀による記録は参考資料とはなっても、津波の高さを測定するのは不適である

  2. 津波来襲後、海岸に打ち上げられて、残留している物体によって判定する方法
    樹木の梢 ( こずえ )・枝に海藻がひっかかっていたり、海中の岩石が山の中腹まで運ばれていれば、海面からその位置までの高さを測ることにより、津波の高さを測定することができる。しかし残留物の位置を参考に波高を測定することは、ある場所では正しい数値が出るが、津波が急にせり上がって海岸で一斉に砕けて村落の上から落下した場所では、 陸地に残された 痕よりも津波の高さは遙かに高く不正確である

  3. 海水が陸地に浸入した地域を海面と比較して津波の高さを測る方法
    これも平坦な土地と背後に山を背負うような場所では、大きな差がある。さらに海岸に河口のある場所では、浸水区域が一層奥の方まで延長する。海水が川筋をすさまじい勢いでさかのぼって走る。明治 29 年の明治 ・ 三陸地震の大津波では渓流を伝わって海から 3 キロ 奥の地域まで海水が押し寄せ、近くの太い木を根こそぎ折り倒している。もしもその地域の高さを津波の高さとすれば、大変な数字となってしまう

このように 三つの方法ともそれぞれ不備な性格を持っていますが、それは 津波の多様性を示すもので、正確な高さを測ることは難しいといわざるを得ません



[ 6: 最悪の事態に対処する考え方 ]

ここで話題を がらりと変えますが、物事の安全に関する考え方に 人は必ず間違いを 犯すもの であり、 機械は必ず 故障する というのがあります。 人の件はさて置き、今回は機械 ( 動くもの ) に焦点を当てます。

安全性に関する言葉に リダンダンシー ( Redundancy 、 重複性 ・ 余剰性 ) というのがありますが、簡単に言えば

停止しては困る重要な機械には、代わりに動く予備の機械を予め用意しておくこと ( 二重の安全性 ) 。それも使えない場合に備えて更なる機械を用意しておくこと ( 三重の安全性 )
があります。

換言すれば通常は 必要ではない物を、 万一の場合に備えてどの程度の必要性、( 安全性を確保するための 余分な出費 ) を認めるかという経営側の方針と、設計技術者の考え方 ・ 良心との妥協に基づくものともいえます。

  1. 車の ブレーキ ( 二重の安全性 )
    二重ブレーキ系統 私が最初に車を購入したのは昭和 45 年 ( 1970 年 ) のことでしたが、車種は トヨタ の マーク 2 ( 現在の マーク ・ エックス の前身 ) で、初期の マーク 2 の ブレーキ系統は現代の高級車並に、 2 系統 ( Dual Braking System )が装備されていました。

    つまり前輪の右と後輪の左、前輪の左と後輪の右とに ブレーキ系統が分かれていて、走行中にたとえ 一方の ブレーキ系統が ブレーキ ・ オイル の漏れなどで機能を失っても、残りの ブレーキ系統で安全に走行できる性能を持っていました。

  2. 飛行機の油圧 システム ( 四重の安全性 )
    フラップ と、スポイラー

    飛行機が飛行中に左右に旋回 ・ 上昇降下をする際には補助翼を動かし、着陸時には低速で飛行し失速を防ぐために主翼の後部に フラップ ( Trailing Edge Flap ) を下げます。着陸と同時に自動または手動で主翼面上に抵抗板 ( Ground Spoiler ) を立てて揚力を急激に失わせ、車輪に機体の重量を掛けて車輪の ブレーキ 効果を高めます。

    つまり大型旅客機の場合、車輪の上げ下げを含めて機体の動く部分のほとんどは、エンジンで駆動する油圧 ポンプと、電動油圧 ポンプで発生させた合計 4 系統 〜 3 系統の油圧を通じて動かします。

    ところで 3 エンジンの飛行機が飛行中に 二つの エンジンが故障しましたが、残りの 一つの エンジンだけで安全に飛行を続け、羽田空港に無事に着陸した出来事がこれまで 2 件ありました。エンジンで駆動する 1 個の油圧 ポンプと、 1 個の電動油圧 ポンプにより 2 系統の油圧が使用可能でしたので、パイロットは安全に操縦を続けることができました。

    ちなみに 1985 年 に群馬県の御巣鷹山 ( おすたかやま ) に墜落し、520 名が死亡した日本航空 123 便の場合は、客室内部の気圧を地上付近の圧力に保つ機体最後部の圧力隔壁 ( Pressure Bulkhead ) の外側に、 4 系統全部の油圧 パイプ が集中していたために、手抜き修理をした圧力隔壁が破裂した際に全部の パイプが被害を受け、油圧系統の全 ハイドロ ・ オイル ( Hydraulic Fluid )の喪失から操縦不能となり墜落したのでした。

  3. 非常用電源 ( 三重の安全性 )
    こじま

    私は海上保安大学出身のため練習船に乗り遠洋航海にも行きましたが、船の頭脳でもある ブリッジ ( 船橋 ) のすぐ下の階の右側には海の慣例に従い船長室があり、学生は船長の休養 ・ 安眠を妨げないように神聖な (?) 右舷の階段を使用せずに、左舷側の階段を使用して ブリッジ に出入りしました。

    船長室の左後方付近には非常用電源 ( 小型の非常用発電機と バッテリー ) を設備した区画がありましたが、船が遭難して船内に大量の浸水をした場合には、船底の機関室にある発電機 ・ 予備の発電機が真っ先に使用不能になります。

    沈没の危機に直面した際に、 S O S ( Save Our Souls / Save Our Ship 、我々の魂 / 船の救助を求む ) の遭難通信を最後まで送受信するために、非常用電源は船の高い場所に設備してあると聞きましたが、55 年以上前のことでした。

    天測実習

    右上の写真は 三代目の練習船 「 こじま 」 3 千 トン ですが、毎年 5 月頃には新卒業生を乗せて世界一周の訓練航海に出ます。

    左は学生たちの天測実習で昼間は太陽の高度を、水平線と星の両方が見える夜明けや 夕方には星の高度を測り、天測暦 ・ 天測計算表を使用し、航海時計の秒単位の読みを基にして、大洋上で船の位置 ( 緯度 ・ 経度 ) を計算で求める天文航法の訓練です。

  4. 海事法規 ( 船舶設備規定 )
    今回 念のため 船舶設備規定 第 6 編 ・ 電気設備 ・ 第 6 章 ・ 非常電源等の項目にある 「 非常電源等の配置 」 を調べると、そこには、

    第 302 条の 2  
    外洋航行船、内航 ロールオン ・ ロールオフ ( Roll on ・ Roll off ) 旅客船 、係留船及び国際航海に従事する総 トン数 500 トン以上の漁船に備える 非常電源、臨時の非常電源及び非常配電盤は、次に掲げる要件に適合する場所に配置しなければならない

    1. 最上層の全通甲板の 上方であること

    2. 主電源、これと関連する変圧器若しくは主配電盤を設けた場所又は特定機関区域内の各場所の 外部であつて 、これらの場所の火災その他の 災害による影響 をできる限り受けない場所 であること。( 以下省略 )

    と書いてありました。今回なぜ上記のような安全性に関することをわざわざ書き記したのかといえば、福島第 1 原発の杜撰 ( ずさん ) な設備計画 ・ 対応を知ったからでした。



[ 7: 福島原発の電源は、僅か 二重の安全性、しかも ]

( 7−1、悪夢の始まりは停電から )

情報の詳細が開示されないので詳細は不明ですが、地震の翌日 ( 12 日 ) に原子炉 1 号機、14 日には 3 号機の水素爆発で始まった一連の事故が起きた原因は停電にありました。地震による 停電が起き 、原子炉を冷やすための冷却水を送る ポンプが動かなくなりました。 さらに予備の デイーゼル発電機も津波により 使えなくなりました。つまり原発にとって 「 いのち 」 の根源 である 電源 が全て失われる事態になりました。

問題の ポイント は、

  1. 原子力発電所の安全性確保のために、予想される津波の 設計波高を何 メートルと決めたのか ?

  2. 津波来襲の緊急事態における非常電源確保のために、 予備の発電機を どの高さに設置したのか ?

  3. 第 1 原発には 1 号機から 6 号機まで 6 基の原子炉がありながら、第 3 の非常用電源を なぜ設備しなかったのか?

ですが、常に事故と隣り合わせの船舶や飛行機の設計にみられる 安全性確保への意欲 が、福島原発の設計には全く感じられませんでした

たとえば 予備の ディーゼル 発電機のうち、なんと地下室に設置されていたものもあり、 電源に対する津波対策など ゼロ 、原子炉にとって命取りになる 全電源喪失 の非常事態など 、起こるべきして起きたことでした。

想定された津波の波高について、東京電力は 2002 年ごろ、 津波の専門家が 1 人もいない土木学会 の指針に基づき、 最大規模の津波の高さを福島第 1 原発は 5.4 〜 5.7 メートル と 想定 しました

今回の地震による津波について東電は当初、津波の高さは第 1 原発では 10 メートル、第 2 原発では 12 メートル だったと発表しましたが、その後、両方とも高さ 14 メートル の津波 に襲われたことが判明しました。

注 : ) 想定
辞書の大辞林によれば、想定とは状況 ・ 条件などを 仮に 決めること

とありましたが、この津波の波高は想定した波高の実に 2.5 倍 もありました。 このことは東京電力の 想定自体に 大きな誤り があった証拠であり 、 その原因は前述した三陸を襲った過去の津波の高さを 無視した からでした。

( 7−2、村長の先見の明 )

先見明

三陸沿岸、宮古市の北にある岩手県 ・ 下閉伊郡 ( しもへいぐん )・ 普代村 ( ふだいむら ) では今回の大津波による 死者は ゼロ でしたが 、その理由は村を津波から守るために築かれた高さ 15 メートルを超える、防潮堤と水門のお陰でした。

村は明治 29 年 ( 1896 年 ) に起きた明治 三陸地震と、昭和 8 年 ( 1933 年 ) の昭和 三陸地震の際には、主に津波による 439 名 の犠牲者を出しましたが、昭和 42 年 ( 1967 年 ) に防潮堤 ・ 防潮水門を作る際には当時の和村幸得 村長 ( 故人 ) が、明治の津波では 15 メートル の波が来たという言い伝えに基づき、防潮堤 ・ 防潮水門の高さを 15 メートル にすることを主張し、高すぎるとする批判を浴びたものの、計画を変更せずに完成させました。

津波水門

今回の大津波の際には、村民は命の恩人である ( 故 ) 和村 村長の 津波災害に対する先見性と防災意欲の成果に たいへん感謝しましたが、せめて原子力安全 ・ 保安院のお役人や 東京電力の経営者がこれに匹敵する先見性や 防災意欲を持っていたならば、−−−と悔やまれてなりません。

写真は防潮水門を海側から撮ったものですが、押し寄せた津波は 5 階建ての ビル の高さに相当する 15 メートル の防潮水門 ・ 防潮堤を超えずにいて、内側の住民と 家屋を無事に守り通しました。

( 7−3、津波に対する危険性の指摘を無視 )

東京電力 ・ 福島第 1 原発 ( 福島県 ) の地震に対する想定をめぐり、2009 年の経済産業省 ・ 原子力安全審議会で、「 産業技術総合研究所 」の岡村行信 ・ 活断層 ・ 地震研究 センター 長が、「 福島原発の安全性は、より十分な余裕を持つべきだ 」 と福島原発の安全性に関する問題点を指摘していたことが判明しました。

それによれば前掲した平安時代の貞観 ( じょうがん ) 11 年 ( 869 年 ) に起きた、陸奥国東方 ( 現、三陸沖 ) を震源として発生した巨大地震 ( 死者 1,000 人、マグニチュード、8.3 〜 8.6、注:参照 ) に伴い発生した大津波の痕跡を調査した結果、津波の跡が少なくとも宮城県 ・ 石巻市から福島第 1 原発近くの福島県 ・ 浪江町まで分布していることを確認しました。

注:)死者の人口比
平安 時代 ( 900 年 ) の推定人口は 約 550 万人 でしたので、人口が少なかった当時で 1,000 人の死者とは、現代に換算すれば 23 倍の 23,000 人 に相当しました。

津波により運ばれた土砂が海岸から最大で 3 〜 4 キロ 内陸まで入り込んでいた事実から 、福島原発を大津波が襲う危険性を指摘しましたが、東電側は 「 十分な情報がない 」 として地震想定の基準引き上げに難色を示し、設計上は耐震性に余裕があると主張して、 津波に対する想定は先送りされました

処世術の極意
官も民も、自分達にとって やっかいな ・ 不利な事態 ( 大津波 ) は起こらない ことにする 。その結果たとえ大津波が起こっても 想定外 だったと言い訳をすれば、杜撰 ( ずさん ) な想定がもたらした 人災 に対する責任は 津波と共に流れ去り、後で問われることは決してない。

つまり 「想定外」 とは責任を免 ( まぬか ) れるための、 無責任な口実 ・ 言い訳 にしか過ぎない。



( 7−4、責任者の個人的謝罪 )

ところで政府の原子力安全委員会の班目 ( まだらめ ) 春樹委員長は 3 月 22 日の参院予算委員会で、東北関東大震災による東京電力 ・ 福島第 1 原発の事故に関し、

( 原発設計の ) 想定 が悪かった。想定について世界的に見直しがなされなければならない。原子力を推進してきた者の一人として、 個人的には謝罪する気持ち はある

と述べ、陳謝しましたが、事故後に 個人的に 謝罪されても何の意味もありません。彼が言った想定 ( 設計思想に基づく 基準 ) の中身とは、福島原発に危機的事態をもたらした津波を防ぐための 設計波高の誤り や、原発が持つ 電源の脆弱性 ( ぜいじゃくせい ) が当然含まれます。

もし−−−していたらというのは事故が起きた後では無意味ですが、せめて前述の ( 4−2、津波の高さ ) にある明治 ・ 三陸大津波の際の津波の高さ ( 14.0 〜 38.2 メートル ) から、最大値と最小値を除いた津波の平均波高は 18.9 メートル でしたので、それを基準にして 安全係数を 1.5 ( 倍 )にとり 28 メートル ( 10 階建てのビル ) の高さに予備電源 ・ 予備の冷却水 ポンプを設置していたならば、津波による全電力喪失の事態も起こらず、従って原子炉からの放射能漏れの事態も起こらなかったに違いありません。

( 7−5、ノー モア フクシマ )

墓石群

航空界には 墓石の安全 ツームストン セイフティー ( Tomb stone Safety ) という言葉がありますが、飛行機事故が起きて犠牲者の墓石が数多く建ち並ぶと、会社も国もそれまで無視してきた安全対策をようやく実施し、安全性が 少しだけ 向上するという意味です。

今回の福島第 1 原発の事故が炉心の メルト ・ ダウン ( Melt Down 、熔解 ) の大事故に発展し、日本にとって 三度目の原爆投下 に相当する放射能の広範囲汚染の事態にならないことを切に、切に祈っておりますが、この事故を契機に経産省 ・ 原子力安全 ・ 保安院が定める地震 ・ 津波に対する安全基準が抜本的に改善され、日本に 55 箇所ある原子力発電所で、今後 福島第 1 原発のような事故が 二度と起きないように、 ノー モア フクシマ を願っております 

[ 8: あとがき ]

実は 3 月初めから別の題名で サンデー 毎日の記に掲載する随筆を書き始めていましたが、 3 月 11 日の午後に東北関東大震災が起きたので、急いで内容を 地震と津波 に変更して 9 日間で書きあげた次第です。

その間に横浜に住む 食べ盛り育ち盛りの子供を抱えた娘から、 コメ や カップラーメンなどの保存食料をはじめ、トイレット ・ ペーパー、テイッシュ ・ ペーパー などが商店に品切れで入手できずに困っているとの連絡があったので、早速関西で品物を買い集め近くの クロネコヤマト へ荷物を出しに行くと、そこも関東地方に救援物資 (?)を送る人たちで混雑していました。

なぜ品不足になったのか理由がわかりませんが、ガソリンまでも品不足になり被災地の近くでは リッター 当たり 140 円代だった ガソリン を 200 円で売る店が現れたと テレビで報じていました。

ところで大きな災害が起きれば絶好の チャンス とばかりに、住民たちによる集団での 略奪 ( りゃくだつ、Looting、戦利品獲得 ) が付きもの諸外国 に比べ、阪神大震災 ・ 今回の災害でも略奪などは起きず、外国 メディア の報道によれば被災した日本人たちが水や食料の配給を静かに並んで待ち、避難所暮らしでも秩序を守り規律のある生活態度は実に立派であると報じていました。

建屋の爆発

その一方で地震と津波により全電源喪失から原子炉の冷却機能が失われ、翌 12 日には福島第 1 原発の 1 号機が水蒸気 ( 水素 ) 爆発を起こして建屋が大きく破壊し、高濃度の放射能を帯びた死の灰を煙と共に上空に吹き上げたというのに、枝野官房長官の記者会見では

枝野長官

爆発の 事象 は確認していますが、 今のところ 人体に影響はありません。

原子炉そのものにいま問題があるわけではございません。

などと  放射能に対する危険防止に呆れるほど 無知 ・ 無能 ・ 無為 ・ 無策 ( むい むさく )であり、まるで他人事 のような能天気な政府の発言でした。そのために事故に対する対応が後手後手にまわり、アメリカ政府による放射能拡散防止に関する技術支援の申し出を断ったことを 1 週間も国民に隠し、明らかなった後には

東京電力が要らないといったから

などと言い訳しました。国民の生命と安全を守るという政府の 最も基本的な責任を回避 しようとしましたが、 学生時代から ズル菅 ・ 逃げ菅と言われていた菅首相の 性格 がもたらした結果でした。

放射能

水蒸気爆発による建屋の被害写真 ・ 建屋周辺での放射能の測定値を公表せず、 爆発による放射能汚染分布の予想に必要な現場付近の風向風速などの 原発事故に関する情報を隠蔽 ( いんぺい ) する対応には、外国の メディアから 菅総理の 統治能力を疑う とまで酷評されました。

たまりかねた米国政府は 最悪の事態 を考慮して、福島第 1 原発から 80 キロ 圏内 を米国人の立ち退き範囲に指定しました。

日本政府は 20 キロ〜30 キロ 圏内で採れた特定の野菜や牛乳を出荷停止にしましたが、住民についてはなるべく屋内にいることが望ましく、風で運ばれる放射能を帯びた チリ ( 粒子 ) を避けるために肌を露出するな 、 同じ理由から雨に濡れるなという勧告をしただけでした。

相手に要求する言葉だけが巧みだった 市民運動家出身の菅総理にとって、国民の安全確保に必要な対応能力の限界を大きく超え、 総理の器 ( うつわ ) ではない ことを外国の メディアが見守る中で大きく露呈 ( ろてい ) した結果になりました。 あーあ 情けない、 はやく安全な状態になって欲しい。


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