[ 1 : 宝石類の オークション ]

1987 年 4 月 2 日のこと、スイスの チューリッヒに次ぐ第 2 の都市である ジュネーブの レマン湖畔にある オテル ( ホテル ) ・ ボー ・ リバージュ ( Hotel Beau-Rivage Geneva ) は、世界中から集まった貴族 ・ 富豪 ・ 宝石 バイヤーたちでにぎわっていました。
それは世界最古の国際競売会社として有名な イギリス ( 現在は アメリカ企業に買収された ) の
サザビーズ ( Sotheby's ) 社によって、
ある女性 の
ウインザー ・ ジュエリー ( Windsor Jewelry ) と呼ばれる宝石類の コレクションが、 オークションに掛けられるのを待つ人達でした。

それまでに ニューヨークの
マンハッタン や、 世界で 2 番目に小さい 国家で フランスの地中海沿岸地方 コート ・ ダジュールに位置し、カジノや F1 モナコ ・ グランプリ が開催されることで知られる
モナコ 、そして アメリカの フロリダ州 マイアミの北約 100 キロメートルにあり富豪と セレブの別荘があることで知られる、
パーム ビーチ ( Palm Beach、写真 ) でも今回出品される宝石類の内覧会が事前におこなわれていたので、招待客にはそれぞれ購入目当ての品物がありました。

右の写真は オークションに出品された有名な
フラミンゴの ブローチ で、 1940 年に パリの カルティエ ( Cartier ) で製作されたものですが、羽根の部分は カリブレ ・ カットの エメラルド、ルビー、サファイアを巧みに配し、くちばしは シトリン ( Citrine、黄水晶 ) と サファイア、首や脚は ブリリアン ・カットの ダイヤモンドでした。
オークション会場に出席する男性は ブラック ・ タイ ( Black Tie、つまり タキシード+黒の蝶 タイ )、女性は イブニング ・ ドレスに宝石という装いで、さながら パーティー会場のようでした。
オークションは翌日も催されましたが、二日間の売り上げ総額は
5,100 万 ドル ( 51 億円 ) にのぼりましたが、
「 その女性 」 の遺言に従い、純益は後日 フランスにある パスツール研究所 ( Institut Pasteur ) に エイズ研究基金として全て寄付されました。

これから述べることは かつては イギリス国王であった
エドワード 8 世 ( 1894〜1972 年 ) が、
王位に留まるか 不倫相手 の 「 その女性 」 ( 1896〜1986 年 ) を取るかの選択 を迫られ、
イギリス国王の地位を捨てて その女性と結婚した 「 ウインザー公 ( 退位後の名称 ) 」 の物語です。
[ 2 : 私生児だった その女性 ]

「その女性」 は 1895 年 6 月 19 日に アメリカ ・ メリーランド州 ・ ボルチモアで生まれましたが、父親は当時特効薬がなく安静だけが唯一の治療法であり、死病といわれた肺結核を患い大学を中退して小さな アパートを借りて、一人で療養中の テアクル ( 25 才 )という男でした。出産した女性との結婚はしていませんでした。
母親になった女性は ボルチモアの裕福な家庭の娘の
アリス でしたが、二人は恋仲になり やがて妊娠したのでした。生まれた女児は私生児だったので、キリスト教の一宗派である教会は不道徳の産物である女児に
幼児洗礼 ( child baptism )を授けることを拒否しましたが、このことは 「 その女性 」 に終生深い心の傷を与えました。
翌年、出生から 1 年 5 ヶ月後に 二人は教会で結婚式を挙げようとしましたが、前述の理由から教会での挙式を断られ、ある宗派の牧師を務める人の自宅の居間で結婚式を挙げ、祝福する両家の家族が誰もいない寂しい式でした。ところが 1 年後に夫の テアクルが結核の悪化で死亡しましたが、それまで結核の感染を恐れて一度も抱いたことのない我が子の写真を死の床で見せられ、 テアクルは涙をこぼしたといわれています。
夫の死後妻の アリスは赤子を連れて夫の実家に同居しましたが、気詰まりな居候 ( いそうろう、他人の家で食べさせてもらっている食客 ) 生活から抜け出して、1901 年に他所に移り住み縫製工場で働きながら子供を育てました。しかし 1902 年に アリスの姉が見るに見かねて同居をすすめてくれたので、人並みの生活が送れるようになりました。
1908 年に母親の アリスが 37 才まで独身だった男と結婚することになり、当時 12 才の 「 その女性 」 も 一緒に暮らすことになりました。小学校の同級生でした ミセス ・ ホイトマンによれば、
あの方が 一番頭がよかった。絶対に 一番になると決めていらしゃったみたいね。でも とても貧乏 でいらっしたわ。お小遣いを持っているのを見たことがありませんもの。
と回想していました。
[ 3 : 最初の夫との出会い ]
1916 年春のこと、フロリダ州 ペンサコーラ ( Pensacola ) に住んでいた従姉妹の コリンヌから、 「 夫の マスティン海軍大尉が テスト飛行をおこなうので見学がてら遊びに来ないか 」 と 「 その女性 」 のところに言ってきました。

そこで 21 才になった 「 その女性 」 は ペンサコーラに行くことにしましたが、不肖 ( ふしょう ) 私が昭和 32 年 ( 1957 年 ) に同じ ペンサコーラ海軍航空基地 ( Naval Air Station ) 内にある海軍飛行学校に留学する、 41 年前のことでした。
そこで 「 その女性 」 は制服を着た男、つまり海軍の パイロットで、しかも夢に描いた金持ちの息子である スペンサーと再婚しました。彼の父親が シカゴの紳士録に名前が載っているこの男はとんだ食わせ者で酒癖が悪く、酒を飲んでは何かと トラブルを起こし、おまけに同性愛者でした。
その後 1918 年に アメリカの西海岸にある カリフォルニア州 サン ・ ディエゴ ( San Diego ) に転勤になりましたが、「 その女性 」 は運転免許停止中の夫を朝夕海軍基地へ送り迎えする役目を果たしました。
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ちなみにその 29 年後に私は ジェット機用の長い滑走路 ( 9,400 フィート ) が 1 本しかない サン ・ ディエゴ 国際空港を主基地にして、 ボーイング 727 型機の飛行訓練を同じ州内にある砂漠地帯の ブライス ( Blythe ) 飛行場で受けました。
右上の写真は サン ・ ディエゴ 空港の滑走路ですが、「 1 」 とあるのが係留中の ヨットの群で、「 2 」 は インターステイト ・ ハイウエイ ( Interstate Highway 、州間高速道路、 アメリカでは高速道路は全て無料 ) の 5 号線 で、これを上方に行けば ロサンゼルスへ、下に行けば メキシコ領の ティファナ ( Tijuana ) に行きます。 「 3 」 は私が宿泊していた シェラトン ( Sheraton ) ホテルのある、 ハーバー ・ アイランド ( Harbor Island ) です。
サン ・ ディエゴ 国際空港の東側には サン ・ ディエゴ海軍病院や市立大学のある丘陵地帯のために、西に向かい着陸する際には丘陵地帯を越すと急降下して着陸する、いわゆる キャニオン ・ アプローチ ( Canyon Approach、谷間の滑走路への着陸方法 ) をしなければなりませんでした。
その後も夫婦の個人旅行で ロサンゼルスを訪れた際に サン ・ ディエゴを 二度訪れましたが、以前のように インターステイト ・ ハイウエイ 5 号線を、当時の フランキー ・ レインが歌う リバイバルの歌 「 SOUTH OF THE BORDER 」 ( 国境の南 ) の歌詞 ( South of the border Down Mexico way−−− ) を口ずさみながら レンタカー で南下して、 メキシコ領の ティファナ ( Tijuana ) まで遊びに行きました。
なお サン ・ ディエゴの コロナド地区にある ホテル ・ デル ・ コロナド ( Hotel del Coronado ) は、 「 その女性 」 が夫の転勤に伴いこの市に来た際に最初に泊まった ホテルでしたが、その 2 年後の 1920 年 4 月には 当時の イギリスの エドワード皇太子 ( 後の ウインザー 公 ) も宿泊した ホテルでした。
私達夫婦は有名人が泊まったことなど全く興味がなく、料金が高めな赤と白の色彩の ホテルに 宿泊しましたが、後方に見える橋は コロナド橋で下を航空母艦などが通過します。
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[ 4 : 夫婦生活の破綻 ]
「 その女性 」 の夫は酒浸りがひどくなり暴れて家具を壊したり深夜泥酔してわめきちらし、彼女を バスルームに何時間も閉じ込めるようなことまでするようになりました。彼は妻である 「 その女性 」 が彼に冷たくなったのは妻が浮気をしているに違いないと決めつけ、自分の行為に対する反省はまったくなく、ついには別居する事態になりました。
すると タイミングよく海軍士官の夫は中国の広東 ( かんとん ) に転勤したので、子供のいない 「 その女性 」 は女学校時代の金持ちの親友を頼って ワシントンに行き、やがて社交界に顔を出すようになりました。その社会では離婚してしまった女性よりも、
「 わけあり 」 で
夫と別居中の妻 の方が交際するには好ましい相手とされたので、「 その女性 」 は次から次へと相手を替え、快楽にふけるようになりました。
当時の国際電報は全て外国の諜報機関により傍受され暗号も解読される危険があったので、国務省では海軍士官の妻や家族に外国公館宛ての秘密書類を携行する
伝書使 ( クーリエ、Courier ) の仕事を依頼していました。「 その女性 」も特別待遇の海外旅行ができるとあってこれに応募し、1924年に中国に向けて出発し現地で夫と再会しました。
しかし 12 年続いた夫婦の絆はすでに切れ 「 その女性 」 は伝書使の仕事を終えるとすぐには アメリカには帰らずに、中国の上海や北京でも夫に内緒の派手な火遊びで妊娠した子供を堕ろし 1928 年 2 月に 二人の離婚がようやく成立しました。
[ 5 : 地位と富を求めて ]
かつての計画どおりに 「 その女性 」 は、それまでの海軍士官夫人の生活からより豊かな生活を求めて、妻子のある ユダヤ人貿易商の
アーネスト ・ シンプソン と交際するようになり、やがて彼に妻を離婚させ彼と二度目の結婚をしましたが、最初の離婚成立から僅か 5 ヶ月後の 1928 年 7 月のことでした。これで青年実業家夫人として経済的には安楽に暮らせることになりましたが、「 その女性 」 の野心はこれだけでは留まりませんでした。
夫の アーネストは商売に支障があるために自分が ユダヤ人であることをひたすら隠し、
ワスプ ( W A S P、White,Anglo-saxon,Protestant、白人でしかも アングロサクソン系の新教徒 ) の出身である妻にも このことを隠して、 イギリス紳士のように振る舞い ロンドンに住むことにしました。
1920 年代の アメリカ人は イギリスに憧れていて、一方の イギリスでも アメリカ人は膨大な富を稼ぐというので、ロンドンの社交界もようやく彼等を受け入れるようになりましたが、ロンドンの社交界入りを目指した 「 その女性 」 にとっては絶好の タイミングでした。しかしその当時 ロンドンに大勢いた アメリカの大財閥の夫人連中からみれば、シンプソンの 二度目の夫人になった 元海軍士官夫人出の 「 その女性 」 の存在など眼中にありませんでした。
[ 6 : いわし ( 鰯 ) と呼ばれた エドワード皇太子 ]
イギリス王室について調べる際に混乱するのは、呼び名が変化することです。たとえば 1894 年に誕生した エドワード皇太子 ( 後の ウインザー公 ) は 1909 年に祖父の エドワード 七世が死ぬと、父が即位して ジョージ五世になりましたが、エドワードも新たに
コーンウォール公爵 ( Duke of Cornwall ) の位を贈られて正式に王位継承者になりました。

参考までに エドワード皇太子が 12 才で王立海軍学校に入学した際には、彼のことを腕白な同級生は特別扱いしませんでした。小柄で痩せていた エドワードに付けたあだ名は サーディン ( Sardine、いわし ) でした。これは将来皇太子になった際に プリンス ・ オブ ・ ウェールズの称号が与えられることが既に決まっていたことから、
ウェールズ ( Wales ) と同じ発音の
くじら Whale(s) とは大違いの、
「 チビ 」 という意味で付けられたものでした。
その後 1911 年 7 月の 16 才の誕生日には予定通りに プリンス ・ オブ ・ ウェールズ ( The Prince of Wales ) の称号が授けられましたが、将来国王 になる者 に爵位など不要と思うのは、今も イギリスに厳然と存在する
階級社会 ・ 肩書社会 に
無知な日本人 だけで、これにより将来彼の配偶者になる女性は イギリス王妃になるまでは、
ダッチェス ( Duchess 、公爵夫人 ) または
ウェールズ公 妃殿下 ( Her Royal Highness
The Princess of Wales ) と呼ばれる公的資格が与えられることになりました。
[ 7 : 上流階級の暮らし ]

当時の イギリスにおいては上流階級の夫人たちは 後継ぎの子供を産めばそれで十分であり、家庭内のことは使用人の頭 ( かしら ) である バトラー ( Butler、執事 ) に任せ、育児は小児語で ナニー ( nanny ) と呼ばれる住み込みの乳母 ( Nurse-maid ) が世話をしました。
夫は先祖伝来の広大な土地から得る収入や莫大な金融資産から生じる利益のために
働く必要がなく 、クリケット ・ 乗馬 ・ 狐狩りや社交 ・ ダンス パーティー などでひまをつぶすぜいたくな暮らしをしました。
子供が小学校にあがる頃になると子供 1 人ひとりに専属の チューター ( Tutor、家庭教師 ) を付けて家庭内で教育させ、その後は 中高 一貫校である いわゆる イートン校などの パブリック ・ スクール ( 私立学校 ) で寮生活をさせるのが英王室 ・ 貴族の子弟に対する一般的な教育方針でした。
ちなみに 1440 年に創立された イートン校の場合、授業料と寮費の合計は現在
年額 3 万英 ポンド = 450 万円 程度であり、制服は最低でも 10 万円以上する燕尾服を着用し、貴族の親は子供が生まれるとすぐに入学申し込みをするといわれていました。
[ 7−1、不倫 狂騒曲 ( 狂想曲 ? ) ]
「 貞操観念 」 という言葉は現代の日本では既に
死語になっていますが 、19 〜 20 世紀における ロンドンの上流階級の人々にとっても無用の言葉であり、
不倫が流行していました 。
ジョージ 五世の長男として生まれた
エドワード皇太子 ( 後の ウインザー公 ) の初恋の相手は、こともあろうに イギリスの下院 ( House of Commons、庶民院 ) 議員の妻である ワード夫人でしたが、二人の子持ちである彼女に皇太子は青春の情熱を傾けました。
フランス人の ローラン夫人も皇太子の恋人の一人で、
自分と エドワード皇太子との不倫関係を棚に上げて 、大金持ちである夫の女性関係に嫉妬して夫を ピストルで射殺する事件を起こしました。
しかし裁判で彼女が無罪になったのは、皇太子が腕利きの弁護士を裁判に差し向けて彼女を弁護したためといわれていて、皇太子はその後も週末になると飛行機で ローラ夫人に会いに行き楽しい週末を過ごしました。そのほか女性で初めて大西洋横断飛行に成功した アメリカ人の飛行家、アメリア ・ イアハート( Amelia Earhart、1897〜1937 年 ) も、 一時 エドワード皇太子の愛人になりました。

当時 ロンドンの社交界の中でも有名だったのは アメリカ人の テルマ ・ ファーネス 、子爵夫人 ( Thelma Furness, Viscountess Furness 、1904〜1970 年 ) で、夫の ファーネス子爵がいる身でありながら堂々と エドワード皇太子の別荘で同棲生活を始め、世間をあっと言わせました。
しかし彼女の夫も夫で カリブ海にある バミューダ諸島での クルージング会社の経営が好調で、南 フランスに若い美女を囲い、 ロンドンの妻の元には寄りつこうとはしませんでした。上の写真は夫婦気取りの エドワード皇太子と
ロイアル ・ ミストレス ( Royal Mistress、皇太子の愛人 ) の テルマ ・ ファーネス子爵夫人
当時の ロンドン社交界は遊び好きの皇太子を中心にして
不倫 狂騒曲 ( きょうそうきょく ) を奏 ( かな ) でていましたが、「 名声欲 ・ 財産欲 」 が人一倍旺盛な 「 その女性 」 も、知り合いを通じて ロンドンの社交界になんとか潜り込む事に成功し、皇太子との出会いの チャンスをひたすら待ち望みました。
[ 8 : ロイアル ・ ミストレス ]
テルマが エドワード皇太子との同棲を続けたのは、
彼の弱点 をしっかり握っていたからとされますが、後に彼女は親しい友人に皇太子のことを
「 The little man 」 とあだ名を付けたことを告白しましたが、その 「 little 」 の意味について ここでは各自の想像にお任せします。
「 その女性 」 が エドワード皇太子と初めて言葉を交わしたのは 1931 年の 1 月のことで、テルマの別荘に夫婦で招待され、そこで皇太子に紹介された時のことでした。「 その女性 」 は初対面の瞬間 皇太子が従順で控えめな女性よりも、意志が強く包容力のある女性に惹かれる タイプであることを本能的に見抜きました。
当時の上流社交界では夫は妻の行状に口を差し挟まないし、妻も夫が若い愛人をつくっても知らぬふりをしていました。「 その女性 」 はやがて長年の夢が叶い、
友人の テルマを蹴落として エドワード皇太子と愛人関係になることに成功し、ロンドン社交界で
ロイアル ・ ミストレス ( エドワード皇太子の愛人 ) という地位 (?) を得ることに成功しました。しかも
その 一方で アーネスト ・ シンプソンの妻でありながら−−−。

写真を見れば分かりますが、彼女はどう見ても
美人の部類ではなく 「 並か それ以下 」 の容貌であり、上流階級夫人としての教養にも欠ける 「 その女性 」である
ウォリス ・ シンプソン が皇太子を虜 ( とりこ ) にした理由については、皆が不思議がりました。
( 8−1、「 ウォリス 」の慢心 )
ロイアル ・ ミストレスになるとあたかも王室の一員のごとき扱いを社交界で受けられようになり、その快感を彼女にもたらしましたが、同時に貧しい出自の 「 ウォリス 」 を有頂天にさせ慢心させました。皇太子の私邸の ヨーク ・ ハウスで長年皇太子直属の使用人として働いていた フットマン ( Foot-man、男性家事使用人 ) や執事に対して、「 皇太子さまが−−− 」 を口癖にしては、彼女のやりたい放題のことを命じました。
その結果、それまで父親代わりに皇太子を監督してきた執事の フィンチとも対立し、
「 嫌だったら辞めればいい 」 と冷ややかに言う彼女に、彼等は辞表を出して職場を去っていきました。 さらに不品行をしていたのは エドワード皇太子だけではなく彼の弟の ジョージ王子もそうでした。黒人女性や同性愛男性との関係 ・ 麻薬の使用 ・ 私生児の うわさなど、長兄に劣らず ゴシップ ( 醜聞 ) が絶えませんでしたが、ギリシャの マリーナ王女と結婚して ケント公と名を改めました。
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ついでに述べますと チャールズ皇太子と カミラ ( Camilla ) 夫人との長年の不倫が原因で、ダイアナ妃自身も不倫の末に離婚し、後に交通事故死しましたが、 ダイアナ妃の両親についても、母親 フランシスの不倫が発覚したために ダイアナが子供の頃に両親は離婚しました。
彼女は父 エドワード ・ スペンサー に引き取られて育てられましたが、 ダイアナは 生来頭が悪く学業成績も不良で 、貴族の出身にもかかわらず勉強嫌いのため大学にも行かずに 幼稚園で保育の仕事を手伝っていましたが、20 才の時に 33 才の チャールズ皇太子と結婚し、15 年後に離婚し翌年に自動車事故死しました。
イギリスにおける皇太子妃の選考要件には 頭の悪さ、高卒の教養 などは関係なく、将来の イギリス王妃にとっては Good looking 「 外見の良さ 」 だけが 最も重要でした 。
ちなみに チャールズ皇太子の長男 ウイリアム王子と結婚し、今回 ジョージを出産した キャサリン妃の母親は元 英国航空の客室乗務員、父は同じく運行管理者 ( Dispatcher ) をしていて結婚しましたが、母方の祖父母はそれぞれ工員と炭鉱夫の家系で労働者階級に属していました。そのために、ウィリアム王子との結婚では、「炭坑から王室へ」などと報じられましたが、家柄など もはや問題になりませんでした。
なお欧米先進国では客室乗務員に対する 社会的評価が低く 、機内で食事や飲み物を サービスするいわゆる 「 ウエイトレスの仕事 」 は、 「 高卒女性の職業 」 とみなされています。
私の知る限り客室乗務員の採用条件に短大卒以上とあったのは 「 KLM オランダ航空 」 だけであり、首都 アムステルダムにある スキポール ( Schiphol ) 空港がいくら立派でも、所詮 ( しょせん、行き着くところ ) オランダは ヨーロッパの田舎者といわれる国でした。
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1936 年 1 月 19 日に ジョージ五世が亡くなると エドワード皇太子が予定通り即位することになり、翌日に セント ・ ジェームズ宮殿で即位式がおこなわれ 皇太子は
エドワード八世 となりました。
その日の午後に全ての王族出席のもとで父の ジョージ五世の遺言が朗読されましたが、新国王の エドワード八世は父の遺産相続から除外されていました。

すでに十分な財産を持っているのを理由として相続人から排除されましたが、父親にそこまで嫌われていたのかと思うと、彼は悔しさと怒りで顔を赤くし、
「 弟や妹が全部持っていき、この私には何もないのか! 」 と叫びました。しかし彼はすでに コーンウォール公領から毎年 100 万 ドル以上の収入があり非常に裕福でした。
[ 9 : 国王退位決断の時 ]
当時の首相 スタンリー ・ ボールドウィン ( Stanley Baldwin ) は、政治的、宗教的理由から、国王に在位したままでの ウォリス ・ シンプソンとの結婚は不可能であるとエドワード八世に勧告しましたが、新国王の母親である メアリー王妃は長男が王位を捨てても 「 ウォリス ・ シンプソ 」 と結婚したがっているのを知り、
「 あきれて言葉も出ない 」 と腹を立てました。
もしそうなれば次男の ジョージ王子が王位を継ぐことになりますが、内気で ドモリ しかも体力もない次男が寿命を縮めなければ良いが、と案じました。
ここにきて イギリスの新聞 「 ロンドン ・ タイムズ 」 もそれまで遠慮してきた 「 ウォリス ・ シンプソン 」 と新国王との関係を報道するようになり、そこでは政府の諜報機関 ( M Iー6 ) が集めた 「 ウォリス 」 に関する二度の離婚暦 ・ 奔放な男性遍歴 ・ 中国時代の行状即ち、娼館の マダムの証言を基に、エドワード八世を虜 ( とりこ ) にした 「 ウォリス 」 の
中国仕込みの巧みな閨房 テクニック ・ 麻薬取引 ・ ギャンブル習慣 ・ 堕胎暦 ・ ドイツの ナチとの関係 について詳細に記事にしました。
追いつめられた 「 ウォリス 」 は
新国王さえ手放さなければ 、屈辱的な世論の集中砲火に身を晒 ( さら ) すことなく イギリスの社交界から退場できると判断して、一世一代 ( いっせいちだい、一生のうち唯一度 ) の
大芝居を新国王の前で打ちました 。
自分と別れてもっと王妃にふさわしい方と結婚して、国王としての務めを果たしてください。
二度の離婚歴のある女性を イギリス国王妃とするのは前代未聞であり、エドワード八世はここで イギリス国王の地位に留まるのか、王位を捨てて彼女と結婚するのかの二者択一の決断を迫られました。

1936 年 12 月 10 日、新国王 エドワード八世は ウインザー城から ラジオを通じて、王位を捨てる覚悟であることを国民に伝えました。国王の重大発表を聞くために人々はラジオの周りに群がり、劇場 ・ 映画館は公演や上映を中断し、街の通りは からっぽになりました。
ついに私の考えを述べるときがやってきた。皆はすでに私が王位を捨てる理由については承知のことと思う。愛する女性の助けと支えなしでは、国王としての重い責任と義務を果たすことはとうてい不可能である−−−−−。
皆に平和を、次の国王に祝福あれ!
という言葉で放送を終えました。退位した エドワード八世 ( 1894〜1972 年 ) は ウインザー公 ( Duke of Windsor、公爵 ) と名称を変えましたが、彼の望みどおり
ウォリス ・ シンプソン ( Wallis Simpson、1896〜1986年 ) が夫との離婚が成立したのを受け、王室の反対を無視して ウインザー公は ウォリスと念願の結婚を果たし夫妻は国外に住むことになりました。
[ 10 : 研ぎ澄まされた復讐心 ]

しかし夫妻は イギリス王室からは嫌われました。退位した エドワード八世に代わり国王の地位を継承したのは病弱な次弟の ジョージ 六世でしたが、彼が 1952 年に死亡したため、娘の
エリザベス ( Elizabeth 、現 ・ エリザベス女王 2 世 ) が王位を継ぐことになり、 1953 年に ウェストミンスター寺院で盛大な戴冠式 ( たいかんしき、コロネーション、Coronation celemony )がおこなわれました。
しかしその際に エリザベスの伯父に当たる エドワード公夫妻は
招待されず、イギリス王室から疎外されたことで 元 国王としての面目を大きく失墜しました 。 王室にとっては王位を捨てて不品行な過去があり、私生児という賤しい出自の ウォリス ・ シンプソンと結婚した ウインザー公を、
イギリス王室の面汚し ( つらよごし ) と思っていたからでした。

右写真の時計型の ブレスレットは 、ウインザー公が結婚式の 1 ヶ月前に購入し 「 私たちの契約 ( コントラクト ) のために 」 と刻ませたもので、 ウォリス ・ シンプソン が ウインザー公との結婚式で腕に着けたものでした。それは
45 個の サファイアと無数の ダイヤモンド で飾られたものでした。
子供のいない ウインザー公が 35 年間の結婚生活で妻の ウォリス ・ シンプソン に買い与え、結婚記念日などに贈った数多くの宝石、いわゆる
ウインザー ・ ジュエリー ( Windsor Jewelry ) は、 1986 年に ウォリスが死ぬと生前の ダイアナ妃 ( 1961〜1997 年 ) が相続するものと イギリス国民は思っていました。
ところが冒頭で述べたようにそれらの宝石類は遺言により全て競売に掛けられてしまい、しかも純益すべてが イギリスではなく フランスの パスツール研究所に寄付されましたが、これは ウインザー公あるいは妻の ウォリス ・ シンプソン の、イギリス王室に対する長年研 ( と ) ぎ澄まされた
復讐心の表れでした 。
( 10−1、 棺を蓋いて事定まる )

アメリカの平民出身で しかも教会での 幼児洗礼も受けられず、美人でもなかった貧しい娘が、元 イギリス国王と結婚したという、文字通りの シンデレラ物語でしたが、中国の歴史書 ( 晋書、しんしょ ) に
棺を蓋いて事定まる ( かんを おおいて ことさだまる ) 、つまり人に対する評価は、死後に棺の蓋を閉じてから定まるという言葉があります。

1972 年に ウインザー公 に 78 才で先立たれ大きな
「 後ろ楯 ( だて ) 」 を失うと、交際する人も次第に減り彼女は自宅に引きこもり世間からも忘れられていきました。孤独のうちに認知症から植物人間の状態になり、1986 年に 90 才で人知れず死亡しましたが、棺の蓋をしてから判断すると、
宝石などの虚飾 に満ちあふれたものの、彼女の人生は 果たして幸せだったのでしょうか?。
14 世紀の中期に記された平家物語の冒頭にあるご存じの 、
祇園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり 、沙羅双樹 ( しゃらそうじゅ ) の花の色、 盛者必衰 ( じょうしゃ ひっすい ) の理 ( ことわり ) を顕 ( あらわ ) す。驕 ( おご ) れる者久しからず 只 春の夜の夢の如し。
の文章を思い出させます。
[ 11 : 現人神 ( あらひとがみ ) だった天皇 ]
私は昭和 15 年 ( 1940 年 ) に東京市 ( 当時 ) 豊島区 ・ 巣鴨にある小学校に入学し、2 年生だった昭和 16 年 ( 1941 年 ) に大東亜戦争 ( 太平洋戦争 ) が開戦となり 、長野県の山奥の寺に
学童集団疎開中の 昭和 2 0年 ( 1945 年 ) 8 月 15 日に敗戦となりましたが、 6 年生の時でした。
その間小学校では毎日 朝礼の際に
「 宮城 ( 皇居のこと ) 遙拝 ( ようはい )、最敬礼 」 、あるいは
「 天皇陛下に対し奉 ( たてまつ ) り、最敬礼 」 という号令のもと、全校生徒が宮城の方向へ向き最敬礼をしました。

最敬礼とはその当時 天皇 ・ 皇族 ・ 神霊に対しておこなう敬礼として定められ、上体を 45 度前に傾ける ( 具体的には両手が膝頭に届くまで曲げる ) お辞儀 ( おじぎ ) でした。ところで神道では白は清浄な色とされ、
神霊の乗り物 とされる 神馬 ( しんめ、しんば とも言う ) としては、特に白馬 ( はくば ) が神聖視されました。
私は小学 3 年生 ( 1942 年 ) の時に、 一度だけ父親に連れられて当時東京の 代々木 ( よよぎ ) 原にあった陸軍の練兵場 ( 現 ・ 代々木公園、陸上競技場、サッカー場、NHK ホールなどがある場所 ) でおこなわれた観兵式を見に行きましたが、白馬にまたがった観閲官の大元帥陛下は、遙か遠くからでも、目立った存在でした。
陸軍始めの観兵式 ( 昭和 18 年、1943年 )
5 年生 ( 11 才 ) になると 2 学期の国史 ( 歴史 ) の テストでは、初代の神武天皇から今上天皇 ( きんじょう、当時の ・ 昭和天皇 ) までの
神話と虚構の産物 である
124 代の歴代天皇名 を、間違えずにどこまで言えるかが採点の対象でした。
幸いにも私は 124 代の天皇名を間違えずに全部言うことができましたが、 子供の頃に懸命に覚えたことは
80 才 になっても記憶に残るもので、 今でも ジンム ( 第 1 代、神武天皇 ) ・ スイゼイ ( 綏靖 ) ・ アンネイ ( 安寧 ) ・ イトク ( 懿徳 ) ・ コウショウ ( 孝昭 ) ・ コウアン ( 孝安 ) −−−と第 33 代、推古 ( スイコ、女帝の第 1 号 ) 天皇までなら、順序正しく歴代天皇名を言うことができます。
私と同じ年代の人は、皆このような教育を受けましたが、当時子供たちの間で盛んに歌われた歌に
「 勝ち抜く僕ら小国民 」 がありましたが、参考までに下記をお聞き下さい。
勝ち抜く僕ら小国民
なお歌詞の一番では 「 赤い心 」 となっていますが、私たちが歌ったのは歌の文句と同じ 「 赤い血潮 」 でした。歌詞は二番までしかが無いので、それ以下の歌詞も示します。
歌詞 三番
僕らの体に込めてある / 弾は肉弾大和弾( 魂、やまとだま ) / 浮沈を誇る敵艦も一発必中体当たり / 見事轟沈させてみる / 飛行機ぐらいはなんのその
歌詞 四番
今日、増産 ( ぞうさん、戦時中の労働力不足を補うための 小 ・ 中学生による勤労奉仕 ) の帰り道 / 皆で摘んだ花束を / 英霊室 ( えいれいしつ、小学校に設けられた地区の戦死者の慰霊をする場所 ) に供えたら / 次は君らだ分かったか / しっかりやれよ、頼んだと / 胸に響いた神( かみ、戦死者の英霊 )の声
歌詞 五番
あとに続くよ僕達は / 君は海軍予科練( 飛行予科練習生 )に / 僕は陸軍荒鷲 ( 陸軍機の操縦士 ) へ / やがて大空飛び超えて / 敵の本土に空高く / 日の丸の旗立てるのだ。
この歌を聞いた感想は如何ですか ?。私たち 80 才前後の者はこのような環境で育ち、敗戦前後の食糧難の時代を
辛い空腹に耐えながら 生き抜いてきたのです。

当時の小学生はこのような
天皇制国家主義、軍国主義に基づく 、
小国民教育 つまり天皇を神と崇 ( あが ) め奉り、そのためには死ぬことも辞さないとする教育を受けて育ちました。
大日本帝国憲法 ( 明治憲法 ) 第 11 条には、
「 天皇ハ陸海軍ヲ統帥 ( とうすい、軍隊を支配下におき率いること ) ス 」 とありましたが、写真は
大元帥陛下 である天皇の大礼服姿です。それと共に伊勢神宮 ( 内宮 ) に祀られている天照大御神 ( あまてらすおおみかみ ) の子孫であり
現人神 ( あらひとがみ ) 、つまり人間の形をした神であると神格化されました。
しかし当時の小国民教育の中でさえ、124 人もいた天皇の中で国民に善政を敷いた例として学校で習ったのは、大阪平野から立ち上る炊煙 ( すいえん、炊事をする煙 ) が少ないのを高殿から見た、第 16 代、仁徳天皇が 3 年間国民に租税を免除したことと、第 45 代、聖武天皇の妃である光明皇后 ( こうみょうこうごう、701〜760 年 ) が悲田院 ( ひでん いん ) ・ 施薬院 ( せやく いん ) を建てて社会事業をおこない、貧しい人や孤児を救い、病人に薬を与え治療をしたことの二例だけでした。
天皇は現人神 ( あらひとがみ ) であるとする教育は昭和 20 年 ( 1945 年 ) 8 月の日本の敗戦まで続き、翌年の 1 月 1 の官報により発布されたいわゆる
「 昭和天皇の人間宣言 」 により、天皇自身が現人神 ( あらひとがみ ) の
神格を否定したことにより 幕を閉じました。
そうせざるを得なかった背景には、昭和 20 年 ( 1945 年 ) 12 月 15 日に占領軍総司令部 ( G H Q ) が出した
政教分離 の指令 、即ち
S C A P I N ( Supreme Command for Allied Powers Instruction Note ) の 「 国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件 」 ( 448 号 ) が出されたからでした。
( 11−1、 天皇は利用されることに存在意義がある )
日本の歴史を見れば天皇自らが政治をおこなったのはせいぜい平安時代までの僅か 500 〜600 年程度でありで、それ以後は武家勢力の台頭によって天皇の政治的な権力は次第に奪われ、鎌倉時代 ( 1192〜1333 年 ) ・ 室町時代 ( 1336〜1573 年 ) ・ 江戸時代 ( 1603〜1867 年 ) へと武家政権が続きました。
天皇が再び政治権力を持つようになったのは明治維新による新政府樹立 ( 1868 年 ) から敗戦 ( 1945 年 ) までの、
僅か 77 年間 でした。
その大日本帝国憲法 ( 明治憲法 ) 下においても、第 4 条、「 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬 ( そうらん、一手ににぎって治める ) シ 」 、とありましたが、実際には イギリスの王室並みに
「 君臨すれども統治せず 」 に近い
飾り物 に過ぎませんでした。
第 55 条、「 国務各大臣ハ天皇ヲ補弼 ( ほひつ、助言を与える ) シ其ノ責ニ任ス ( つまり統治の結果に関する責任は国務大臣が負う ) 」 とあり、さらに第 2 項には 「 全テ法律 勅令其ノ他 国務ニ關 ( カカワ ) ル詔勅ハ
国務大臣ノ 副署 ヲ要ス 」 とありました。
つまり基本的には内閣の ( 軍部の台頭後はその意向を含めた ) 方針を
天皇が追認する という慣行になっていきました。
( 11−2、 戦争終了後の、天皇に対する取扱い )
日本の敗戦間近であった 1945 年 6 月 29 日の ワシントンポスト紙によれば、ギャラップ 社 ( Gallup Organization ) がおこなった アメリカ人に対する世論調査によれば、敗戦後の昭和天皇の取扱いについては以下の結果でした。
- ( 裁判によらない ) 処刑が、 33 パーセント
- 裁判で決定、 17 パーセント
- 終身刑が、 11 パーセント
- ( たとえば中国大陸などへの ) 追放、 9 パーセント
- ( 天皇に関して知らない、または興味がないことによる ) 無回答、 23 パーセント
でした。
ところが 「 カミカゼ特攻機 」 を投入し離島では玉砕してまで必死に戦った日本軍が、天皇の ポツダム宣言受諾という
「 鶴の一声 」 によりただちに戦闘行為を中止し降伏した事実を目の当たりにした米国政府は、敗戦後の日本に対する占領政策を円滑に遂行するために、
天皇の国民に対して持つ 女王蜂 ( Queen Bee ) ・ 女王蟻 ( Queen Ant ) 的影響力を 極力利用することに決めました。
このように昔から天皇は
時の政治権力者に利用されることに、その 存在意義 がありました 。

この写真が撮影されたのは神奈川県 ・ 海軍厚木飛行場に アメリカの占領軍が飛来してから約 1 ヶ月後の 昭和 20 年 9 月 27 日 のことですが、場所は皇居の濠近くの第一生命館に置かれた占領軍総司部の建物内ではなく、連合国軍総司令官の マッカーサーが住んでいた アメリカ大使館内でした。
戦いに敗れたとはいえ一国の元首が 公式訪問したのにもかかわらず マッカーサー は
玄関 ホールに出迎えもせず 、モーニングに シルクハットという昼間の礼装姿の天皇に対して相手に敬意を示す服装をするどころか、 わざと ネクタイを外した普段の軍服姿で会談に臨み
天皇を侮辱しました 。
そして
神である天皇 よりも偉い存在であると自認する、自らの姿を日本国民の前に示しましたが、彼は自己顕示欲が極めて旺盛な嫌な性格の奴でした。
ちなみに仲間や親の仇 ( かたき ) であろうが、時の
権力者にすぐに媚 ( こ ) び へつらう悪癖 を持つ日本人から、この男や
GHQ ( General Head Quarters 、連合国総司令部 ) に対する感謝文や
「 日本人の得意な密告 」 などの手紙が、 トルーマン大統領により彼が首にされる ( 1951 年 4 月 ) までの 5 年 8 ヶ月間に
50 万通 も寄せられました。
中には 64〜70 才の老爺に対して 「 アナタ の子を産みたい 」 と手紙を書いた アホ ( 関西弁、阿呆 ) な日本人女性が
15 人もいた といわれていますが、母親の出身地である バージニア州 の軍港がある ノーフォークには マッカーサー記念館があり、観光名所になっています。
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