浅間山の噴火
[ 1 : 落梅集 ]関東地方にお住まいの方は浅間山をご存じだと思いますが、 群馬県と長野県との県境にそびえる高さ 2,568 メートルの山です。冬季に羽田空港を離陸して北へ向かう際には、関東平野を覆う スモッグの層を抜けると、 左手遠方に雪で真っ白になった浅間山を見ることができます。この山は現在も噴煙を上げる活火山ですが、過去には何度も大噴火した記録がありました。 小学生か中学生の時だったと思いますが、島崎藤村 ( とうそん、1872〜1943 年 ) の詩集 [ 落梅集 ] の中にある [ 千曲川旅情の歌 ] の詩を教科書で習いました。
小諸なる古城のほとり / 雲白く遊子 ( ゆうし ) 悲しむ / 緑なす はこべは萌えず / 若草も籍 ( し ) くに よしなし / しろがねの衾 ( ふすま ) の岡辺 ( おかべ ) / 日に溶けて淡雪流る ( 中略 ) ところで藤村が 小諸 ( こもろ ) 義塾 の教師として、 6 年間 ( 1899〜1905 年 ) の在職中常に見た浅間山は、最初に掲載した写真のような美しい形の山ではなく、懐古園のある小諸 城址 から見れば、それとは似ても似つかぬ右の写真の山容でした。 後述しますが浅間山は 三重の火山からなり、左は黒斑山 ( くろふやま ) 、右は牙山( ぎっぱやま )と前掛山 ( まえかけやま ) で、最高峰である浅間山の山頂は右の奥に隠れていて見えません。
[ 2 : 噴煙との出会い ]私にとって長野県は、第 2 の心のふるさとでした。ホームページにも既に書きましたが、戦争末期の昭和 19 年 ( 1944 年 ) 8 月になると、米軍機による無差別爆撃の被害から子供たちを守るために、当時東京都豊島区巣鴨にあった私達の国民学校 ( 小学校のこと ) では、学校ごと長野県小県郡 ( ちいさがたぐん ) 青木村の 田沢温泉の旅館や、付近の室賀 ( むろが ) 村にある山奥の寺に、先生、寮母さんと共に疎開しました。成人してからも懐かしさから集団疎開当時の同級生達と一緒に 2 度、個人的にも妻子を連れて 6 度、かつての疎開先の寺を訪れて 村出身の寮母さんにも会いました。集団疎開中に私たちが体験した食糧不足による空腹などの辛い話は、以下を クリックしてお読み下さい。
1:戦時中の生活、学童集団疎開
学童集団疎開した寺の裏側にある山を登ると、その当時、山の尾根には山火事の延焼防止や消火活動のための 防火線 と呼ばれる、樹木を切り倒し ヤブを刈り払ってできた、幅が 1 間 ( 1.8 メートル ) ほどの空き地が、丁度 [ 万里の長城 ] のように尾根に沿って続いていました。 そこに立つと甲州 ( 山梨県 ) 、武州 ( 埼玉県 ) 、信州 ( 長野県 ) の境界にそびえる 甲武信岳 ( こぶしだけ、2,475 m ) に水源を発し、長野県内を日本海に流れ下る千曲川 ( ちくまがわ、新潟県に入ると信濃川と名前が変わる ) に沿って走る信越本線 ( 現在の しなの鐵道 ) の線路が見えましたが、この線路を南に行けば東京に帰れることを子供たちは皆 知っていました。 当時は小学校 5 年生でしたので親元から遠く離れた山奥での集団生活で淋しくなると、寺から山道を 40 分近く登り、尾根の防火線に出ては眼下に見える千曲川や信越本線の線路を眺めたものでした。運が良ければ東京方面に向かう上り列車の蒸気機関車が黒煙を吐きながら走るのが見えたので、望郷の念をつのらせました。
尾根からは東に直線距離で 30 キロ以上離れた浅間山の頂上が見えましたが、そこからは常に噴煙が上がっていました。今回この随筆を書くに当たって気象庁の浅間山噴火資料を調べると、昭和19 年 ( 1944 年 ) の 6 月から 12 月まで、および昭和 20 年 ( 1945 年 )1 月から 8 月の間には、毎月数回から数 10 回の噴火が記録されていましたが、当時の浅間山は火山活動の活発な時期でもありました。
その際にはここ室賀村 ( むろがむら ) から 千曲川の下流 20 キロ の所にある、犀川 ( さいがわ ) との合流点の 川中島 で、 1553 〜 1564 年の間に 5 回にわたり戦いました。
15 年まえに、近くの更埴市 ( こうしょくし、現、千曲市 ) の観光 スポット あんずの里 を、アンズの花の満開の季節に大阪から 車を運転して訪れましたが、その際に川中島の古戦場にも立ち寄りました。 写真は川中島古戦場の八幡原史跡公園にある銅像ですが、武田信玄が 人生における最大の危機を迎えた場面です 。
永禄 4 年 ( 1561 年 ) 4 度目の戦の際には、千曲川の西岸に陣を敷いた上杉の軍勢が、前夜ひそかに渡河したのに気付かず、翌朝霧の中から突然現れた上杉勢に武田側は不意を突かれ、本陣で指揮をとっていた武田信玄は、突入して来た馬上の大将 上杉謙信に危うく斬られようとしました。 しかし側近の 1 人が突きだした槍でかろうじて謙信の攻撃をかわしましたが、床几に座わり太刀を抜き合わせる 時間的余裕も無く、軍配 で刀を除けようとしているのが武田信玄です。その場面を江戸時代の歴史家 ・ 漢詩人の頼 山陽 ( らい ・ さんよう ) が詠んだ、有名な 七言絶句の漢詩、川中島がありますが、「 不識庵 ( 上杉謙信 )、機山 ( 武田信玄 ) を撃つ図に題す 」 として書かれた詩です。 鞭声粛々夜過河 暁見千兵擁大牙 遺恨十年磨 一剣 流星光底逸長蛇 ( 3−1、読み方と意味 ) べんせい ( 馬に ムチを当てる音 ) しゅくしゅく ( 静かに ) 夜 川を渡る / あかつきにみる 千兵 ( 何千という兵士 ) の 大牙 ( たいが、大将の旗 ) を擁する / いこ ん十年 一剣をみがく / 流星こうてい ( 振り下ろす刀が 一瞬 閃いたが ) 長蛇 ( 惜しい獲物 、武田信玄 )を逸 ( い ) っす ( 討ち漏らしてしまった )。
注 : )でした。
[ 4 : クギ との再会ならず ]
当時 北信濃の戦国大名で、武田の軍勢とは信濃の支配権をめぐり何度も抗争した村上義清 ( 1501〜1573 年 ) がいましたが、その配下の室賀 ( むろが ) 氏 が築いた山城 ( やまじろ ) の跡といわれるものが、集団疎開した室賀村にある寺の近くの 摺鉢山 ( すりばちやま、881 m ) にありました。頂上付近には岩を削って作った、洞穴状のものが防火線から見えました。 昭和 20 年 ( 1945 年 ) 7 月のある日、 5 〜6 人の仲間と一緒に摺鉢山を登ることにしましたが、山の尾根にある防火線 ( 防火用の小道 ) から外れると道がなくなり、 ヤブ 漕ぎをしながら、時には崩れた石垣の間を這って急斜面を登り、ようやく頂上に着きました。
そこには測量に使う 三角点の標石がありましたが、山城としては頂上が狭いので、敵の動きを見張る監視所、昔の言葉で言えば 物見砦 ( ものみ とりで ) か、発煙により合図をする 狼煙台 ( のろしだい、烽火台 ほうかだい、ともいう ) の跡ではないかと思いましたが、そこからは浅間山がよく見えました。 その当時 普段は西から東に向かって流れる浅間山の噴煙が、 東から西に向かって流れると、不吉なことが起きるという、 [ 言い伝え ] を村人から聞いていましたが、その時の噴煙は なんと東から不吉な方向の ( ? ) 西に流れていました。 摺鉢山の登頂記念に、用意した 5 寸 クギ を近くの松の幹に打ち込んで山を下りましたが、これには後日談があり、それから 34 年後に クギ との再会を求めて、大阪からやって来た私は 1 人で再び摺鉢山に登りました。 途中までは登山道が整備されていて昔とは大違いでしたが、その先の急斜面は昔のままで道はなく、這 ( は )うようにしてようやく頂上に登ると、 登頂記念の クギ があったはずの松の木は成長して 三角点測量の邪魔になったせいか伐採されていて、残念なことに クギ との再会は果たせませんでした。「 言い伝え 」 のとおり ( ? ) 我々が登った翌月の昭和 20 年 ( 1945 年 ) 8 月 15 日には、日本は連合国軍に降伏し戦争が終わりましたが、東京の学校周辺が 4 月の空襲で 一面の焼け野原 となったために、帰る場所がなく学童集団疎開は現地で解散することになりました。
成人してから パイロットになり高層気象を知るようになると、日本付近における上層風は大気の循環、地球の自転 ( コリオリ の ちから )、ジェット気流、気圧配置などにより、ほとんどの場合は西風 ( 偏西風 ) が吹きます。 しかし夏場など高気圧の中心付近に覆われると風が時計回りに吹くために、たまには西へ向かって弱い上層風が吹くこともあるので、当時もその風が吹いていたのだと思います。
[ 5 : 浅間山、噴火の歴史 ]浅間山 ( 2,568 m ) は一般に思われているような単独の火山ではなく、実は 三重の火山から成り立っていて、古い噴火の順に西側の 黒斑 ( くろふ ) 火山 ( 約 9 万年前に始まり、2.1 万年前に終息 )、 東側の仏岩 ( ほとけいわ ) 火山 、( 2 万年前〜1.3 万年前 ) 、中央の 前掛 ( まえかけ ) 火山 ( 約 1 万年前から ) であり、現在も 前掛火山が活動を継続中です。
第 1 火口は、黒斑山 ( 2,404 m ) の東面に残り、黒斑山 ・ 剣が峰 ・ 牙山などの第 1 外輪山となり、今も噴煙を上げる第 2 火口の東側には浅間山、西側には隆起した前掛山 ( 2,524 m )となっています。上の写真では左が黒斑山、中央が剣が峰、右が前掛山です。 浅間山は火口から 4 キロ 以内が噴火の危険のため長期間立ち入り禁止ですが、登山者の便宜を考えて前掛山頂には 浅間山の標識 があるそうです。これ以外の大噴火としては
日本の火山災害史上では最大といわれる天明の浅間大噴火は、天明 3 年 ( 1783 年 ) 4 月 8 日 の午前 10 時過ぎに前兆が始まりましたが、過去の記録によれば噴火は 天仁元年 ( 1108 年 ) の大噴火から 675 年ぶりであり、享禄 4 年 ( 1531 年 ) の噴火から 252 年ぶりに 、後の大噴火につながる火山活動を開始しました。 その後しばらく休止していましたが、45 日経った 5 月 26 日に 2 回目の爆発が起きました。地震のような鳴動と共に、天までとどくかと思われるほと高く噴煙があがり、それが東に流れて各地に灰を降らせました。地元の者の手記によれば、
28 日には昼すぎになって近所に砂が降り、同日の 12 時頃になって大爆発があり、大地がしきりに鳴動した。火口からの黒煙は以前よりも強くなり、山の中から赤い雷がしきりに走り出た。人々は身の毛もよだつ程で、見る者は恐ろしさのあまり冷や汗を流し、気絶せんばかりであった。 6 月 29 日 以降になると連日地鳴り鳴動が激しく起こり、噴火が激しくなりましたが、7 月になると噴火の勢いがますます強まり噴煙だけでなく、火山弾も打ち上げて噴煙の中では火山雷も盛んになりました。 噴火活動はさらに激しくなり絶え間なく火山の爆発が続いたために、空は煙で夜になったように暗く、浅間山全山が崩れるのではなかと思われ 家財を残して避難する者もあらわれました。 絵は浅間山の夜の噴火を描いた 浅間山 夜分大焼之図 で、ものすごい勢いで火柱を吹き上げている様子を描いています。
[ 7 : 噴火の クライマックス ]
7 月 6 日〜 8 日にかけて噴火は クライマックスとなり、6 日の夜から 7 日にかけて火口から灼熱した大小の溶岩流が浅間北側の火口壁を越えて流出し、山の北東側に流れ出て地表を覆いましたが、吾妻 ( あがつま ) 火砕流と呼ばれているものです。
7 月 7 日の状況について上野国 吾妻 ( こうずけのくに あがつま ) 郡 大笹村の 無量院住職の 浅間 大変覚書 ( あさま たいへん おぼえがき ) によれば、
七 日、鳴動前日ヨリ 百 倍キビシク、地 動クコト 千 倍ナリ。コレニヨリ老若男女 飲食ヲ忘レ、立チタリ居タり、身ノ置所ナク、浅間ノ方 バカリ眺メ居リ候 トコロ、山ヨリ 熱湯湧キ出シ押シ下シ 、南木 ( 地名 ) ノ御林見ルウチニ皆燃エ尽クス。 とありました。
8 日には再度大爆発をおこし、幅 30 間 ( 54 メートル )、高さ数百丈 ( 1,500〜2,000 メートル )にも及ぶ火煙を噴き上げましたが、それが北側に崩れ 倒れかかったかと思うと、火口から吹き出た 多量の火砕流が 、今度は真っ直ぐ北側に急斜面を滑り落ちました。 途中の土砂 ・ 岩石を巻き込みながら 「 土砂なだれ 」 となってその量を増し、あっという間に火口から約 12 キロ 北にある 鎌原 ( かんばら ) 村 を埋め尽くし、更に下って利根川支流の吾妻川 ( あがつまがわ ) までなだれ落ちて行きました。 鎌原火砕流 ( 熱泥流 ) といわれるものがこれです。
[ 8 : 生死を分けた 15 段 ]浅間山の火口から北側に 12 キロ 離れたところにある鎌原 ( かんばら ) 村 ( 現、嬬恋村、つまごいむら ) の人々は、突然頂上から川霧のような白いものが湧き、それが黒煙を伴いものすごい速さで走り下って来るのが見えました。 火口から新しい溶岩が大量に流出し、火砕流となって流れ下ったのでしたが、白く見えたのは噴出する熱水から生じた水蒸気で、黒煙は燃える溶岩や、それに押し倒された木々で、山肌の土や岩は高温の溶岩に削り取られ、焼け焦げて煙を立てながら毎秒 100 メートルもの スピードで流れ下りました。火砕流 によって生じた 「 熱土砂 なだれ 」 は中心付近で最速であり周辺部では速度が遅くなります。幸運にも火砕流の西の縁にいて異変を知った人々は、とっさに村の小高い丘の上にある観音堂目指して走りました。 死にものぐるいで逃げて当時 50 段ほどあった石段を登った数十人の村人は助かりましたが、 老女を背負って逃げて来た若い女性が石段下に最後にたどり着きました 。その後石段を登る途中で不運にも 「 熱土砂なだれ 」 が 2 人を襲い 、姿が見えなくなりました。 火砕流によって生じた 「 熱土砂なだれ 」 はその後も観音堂のある丘に押し寄せ続け、 50 段あった石段は上から 15 段を残したところまで土砂に埋まり 、ようやく止まりました。鎌原村を埋没させた火砕流・「 熱土砂なだれ 」 は、そのまま吾妻川に流れ込んで今度は 「 熱泥流 」 となり、下流域に大被害をもたらしました。
それから 195 年後の昭和 54 年 ( 1978 年 ) に 浅間山麓の埋没村落、総合調査会 による発掘調査がおこなわれましたが、鎌原 ( かんばら ) 村では、かねてから言い伝えがあった観音堂下、石段部分の発掘がおこなわれました。 その結果石段およびその付近から、「 言い伝え 」 のごとく 2 名の女性の遺骨 が発見されました。この石段の上り口には
天明の生死を分かつ15段と記した立て札が立てられています。
火山活動は 3 ヶ月にわたって続きましたが、 猛烈に荒れ狂った浅間山の噴火も、 7 月 8 日の午後になると粘性の強い溶岩流を火口から吐き出すと、ようやく沈静化に向かいましたが、最後に流出した溶岩が 鬼押出し の名で知られている鬼押出し溶岩流であり、その溶岩堆積物が山麓の観光 スポットの 鬼押出し になっています。写真の遠くに見える浅間山から、流れ出たものです。 ちなみに浅間山の大きな噴火は 先史時代、古墳時代、平安時代、江戸時代などにありましたが 、群馬県内での遺跡などの発掘調査をおこなう際には、火山の灰や軽石などが時代を決める有力な手がかりとして利用されています。 2 万年前の噴火では、浅間山麓に近い支流の吾妻川 ( あがつまがわ ) から本流の利根川にかけて大規模な泥流 ( でいりゅう )が発生しましたが、群馬県前橋市では市街地の地層に 15 メートルもの厚さに堆積物 が形成されています。
[ 9 : 噴火による被害 ]
[ 10 : 火山灰の降下範囲 ]浅間山の溶岩流、火砕流は主に北側に流れて大きな被害を出しましたが、上空の風は南東に向かい吹いていた為に噴煙はその方向に流れ、浅間山の南側を通る中山道の宿場のうちで、山に最も近い 軽井沢 は前日 ( 7 日 ) の大爆発で灰や軽石が、4〜5 尺 ( 1.2 m〜1.5 m )も積もり道路と飲料用の水路が完全に埋まりました。 火山はその晩から 8 日に掛けて荒れ狂ったので、人々は家 ・ 家財を捨てて逃げだしました。当時軽井沢には 3 軒の本陣の他に 182 戸の民家がありましたが、火山弾により焼けた家 52 戸、降り積もった軽石、灰の重みで 22〜23 戸が潰れ、その後の降雨により屋根の灰や軽石が水を吸い、合計 82 戸が圧壊しました。
[ 10 : 徳川実記の記述 ]徳川幕府が 40 年かけて編纂し、1849 年に完成した 516 冊からなる編年体の歴史書である徳川実記によれば、
八日、コノ日鳴動マスマス甚 ( はなはだ ) シク砂礫 ( されき ) ヲ降ラス。大キサ栗ノゴトシ。コレハ信濃国浅間山コノホド燃エアガリテ、砂礫ヲ飛バスコト夥 ( おびただ ) シキヲモテ、カク府内 ( 江戸 ) マデ及ビシトゾ聞コエシ。と記されていましたが、死者が 2万人というのはいささか オーバーな数字で、実際はその十分の一程度でしたが、 記録に現れた最も少ない死者の数字では 1,124 人、最多では 1,624 人でした 。
[ 11 : 村の復興 ]噴火により最大の被害を受けた鎌原 ( かんばら ) 村 [ 現、群馬県、吾妻 ( あがつま ) 郡、嬬恋村 ( つまごいむら ) ] の 住民 93 名は 、近隣の村の有力者たちの援助により彼等の自宅に引き取られて生活し、後には被災地に小屋を建てもらい住むことになりましたが、その間の食糧などの援助も受けました。それと共に村の指導者によって、この大災害の苦難を生き抜くために、
村民一同は互いに、まことの骨肉の一族と思うべしと生き残った者が互いに親族の縁を結ぶことを約束させました。 佐渡奉行、勘定奉行、町奉行を務めた 根岸鎭衛 ( ねぎし やすもり ) の見聞きした風俗、習慣、奇談などを記した随筆集 ( 1814 年に成立 ) である 耳袋 ( みみぶくろ ) によれば、
夫を失いし女へは、女房を流されし男をとり合わせ、子を失いし老人へは親のなき子を養わせ、残らず一類にとり合わせたという。とありましたが、貧富の差、身分の差を一切なくし、 最愛の配偶者を失った者同士を再婚させて 新しい 30 組の夫婦を作り 、生き残った親無し子全員には 養い親を定めて養子縁組させるなど 、全員で新しい家庭を作り 、互いに助け合いながら鎌原 ( かんばら ) 村を離れることなく、再びその土地の上に新しい生活を築いていきました。 めでたし、めでたし!!。
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