子供の頃の思い出 ( その三 )


[ 1 : 秩父へ引越す ]

地図 敗戦の翌年 ( 昭和 21 年、1946 年 ) の 3 月に栃木県の国民学校 ( 小学校 )を卒業すると同時に、埼玉県の西のはずれにある 秩父市に行き、そこの旧制中学校 ( 後に占領軍の指示による 六 ・ 三 制の教育改革により併設中学に名称変更 )に入学しました。

秩父という所は周囲を武甲山 ( 1295 m )、両神山 (1723 m ) などの高い山に囲まれた盆地ですが、昔から水田が少なく米の収穫は僅かしかありませんでした。

( 注 : 1 、参照 )

その代わりに桑を植え養蚕が盛んで、絹織物の秩父銘仙 ( 注 : 2 、参照 ) を織る仕事が盛んでした。それで稼いだお金で地域の外部から米を購入していました。


注 : 1 ) 、米の収穫量

武蔵国改革組合村々石高 ・ 家数取調書 ( 新編埼玉県史、資料編 14 付録 )


組合名村数 構成郡域 石高 家数1軒当たりの石高
大宮郷寄場18秩父8,4623,3182.55
贄川村秩父1,0065771.74


参考までに 1 石 ( こく )とは昔のひと 1 人が、1 年間食べるのに必要な米の量 ( 10 斗、150 キロ ) であり、米俵にすると 2 俵半でした。即ち大宮郷 ( 秩父町 )寄場の農家では 1 軒当たり 2.5 人分の米 しか生産できず、贄川村の農家では 1 軒当たり 1.7 人分の米 しか収穫がありませんでした。

しかも当時の農村では、1 戸当たり 7〜8 人の家族数は当たり前でした。つまりこれを見る限り米の自給自足にはほど遠い状態であったことが分かります。そのせいでしょうか秩父音頭の文句にも、

いくら秩父に田が無いとても ( 繰り返し )、盆と正月 米の飯

というのがありました。最近の統計によれば、秩父郡では 84 パーセントが森林で、農地は僅か 2.6 パーセントに当たる 2,346 ヘクタールに過ぎず、1 戸当たりの平均耕作面積は 0.6 ヘクタール ( ha )で、昔から貧乏百姓の代名詞でした 「 五反百姓 」 とほぼ同じでした。

注 : 2 ) 、銘仙 ( めいせん )

銘仙とは平織りの絹織物の一種で、縦に絹糸を使用し、横糸には玉繭 ( たま マユ、2 匹以上の蚕が 一緒になって作った品質の悪い マユ ) からとった節が多く光沢に乏しい生糸を用いましたが、丈夫で安価なことから、女性の普段着や夜具地に使用されました。


[ 2 : 十石峠 ]

昭和 60 年 ( 1985年 )8 月12 日に日航 123 便が墜落し、 520 名 が死亡した事故現場の御巣鷹山 ( おすたかやま ) は、埼玉、長野、群馬 3 県の県境付近にあります。そこから北北西 13 キロの所に 十石 ( じゅっこく ) 峠 ( 標高1,365 m ) があり、長野県と群馬県との県境になっています。

その峠から群馬県側に始まる道を十石峠街道と言い、その名も山中 ( さんちゅう ) と呼ばれる神流川 ( かんながわ ) 上流の僻地を通ります。

現在でも道路地図で 十石峠街道をみると、舗装整備中だが地道が多く悪路、落石注意と書かれています。その名前の由来は秋の収穫が済むと、 毎日十石 ( 25 俵 ) の米が馬の背で 信州佐久地方から 十石峠を越えて山中 ( さんちゅう ) と呼ばれる群馬県側の下流地域へ、そして秩父へ運ばれたからだと言われています。

昔から秩父では農家でさえも 米の自給自足ができずに 、他国からの米に頼って暮らしていました。山国秩父の産物には木炭がありましたが、前述のように水田が少なく従って木炭を入れる炭俵を編んだり、縛る縄の材料にする稲 ワラが不足するので、米だけでなく 稲 ワラ も峠を越えて 他の地域から運び込んでいました。

つまり 私達にとっての不運は戦後の食糧難の時代に、 よりにもよって米の収穫が乏しい地方に住んだことでした 。郊外にある大滝村、荒川村などの農家では昔から米を主食にできずに、それに代わる麦、粟、ヒエ、芋類などを常食として暮らしていたのでした。( 注 : 3 参照 )

注 : 3 )、耕地不足から満州へ移住

昭和 14 年 ( 1939 年 ) に満州 ( 現中国東北部 に村ぐるみ入植した、中川村 ( 現 ・ 荒川村 )の 「 満州分村移民計画趣意書 」 によれば、同村は戸数約 600 戸、人口 3,300 人、耕地面積 330 町歩でしたが、全戸数の 7 割を占める農家のうち、 自作農として生活できるものは 1 割にも満たない状況でした

今後も人口増加に見合う新規開墾の余地が全く見込めないことから、 分村 移民 が村の自力更正の最善の方策とされたのでした。以後昭和 18 年まで全部で164 戸、689 人 が移住しましたが、敗戦間際の ソ連軍侵攻により、移住者は大きな苦難と、悲惨な運命をたどりました。


[ 3 : 十文字峠越え ]

十文字峠 信州から埼玉県側の秩父へ通じる ルートは前述の 十石峠を越えるものの他に、古くから秩父の西にある大滝村から信州に直接通じる 十文字峠 ( 標高 2,035 m ) 越えの道もありました。

大滝村に残る資料によれば、人が通れるだけの十文字峠越えの細い山道を明治の初期に整備する計画がありましたが、資金難から実施されませんでした。その計画書によれば

険路を整備 ・ 拡幅して荷を積んだ牛馬が自由に通れるようになれば、秩父郡内の 慢性的食糧不足 や、米をはじめとする穀類の 高値の状況 は解消し、信州へも塩や海産物を十分に送ることができる。

と述べられていました。


( 3−1、千曲川 スケッチによれば )

ところで十文字峠の向こう側の 長野県 ・ 南佐久郡 ・ 川上村 に住む人達は、 二千メートル 級の山々に 三方を囲まれて耕作地の標高も 1,300 m と高く、昔から 非常に貧しい暮らしをしていました 。島崎藤村が 1911 年 ( 明治 44 年 ) に雑誌に発表した 「 千曲川 スケッチ 」 によれば、

千曲川 ( ちくまがわ ) の上流に当たって、 川上村の 八 ヶ 村 というのがある。その辺は信州の中で最も不便な、そして 白米は唯、病人に食べさせる ほどの、貧しい荒れた山奥の 一つである。

と記されていました。 昔の話によると、

家に病人が出ると竹筒に米を入れたものを枕元に持参し、竹筒を振って サラサラと音を立てて、 これが米の音だよ と聞かせました。病気が治ったら白い御飯を炊いて食わせるからというと、死ぬまでに 1 度くらいは 白米のご飯を食べてみたい 一心で病気が治った

枕メシ

というのがありましたが、これは作り話ではなく、川上村に限らず戦前には多くの僻地での生活で実際にあったことでした。葬儀に関する本によれば、人が亡くなるとすぐにご飯を炊き死者の枕元に 枕 メシ を供える風習 がありますが、それは昔の人々の 「 白米のご飯 」 に対する 渇望 ( かつぼう、非常に欲しがること ) に由来する とのことでした。

昔は滅多に口に入らなかった白米のご飯の魅力により、 死者の再生を願う儀式 であったと説明していました。

ところで 敗戦後の食料難 の時代には白米の御飯のことを、憧れを込めて私達は 銀 シャリ とも呼んでいましたが、ちなみに シヤリ ( 舎利 ) とはお釈迦様の骨 ( 仏舎利 ) のことです。

インドを初めて統一した ウマリア王朝の 第 3 代 アショカ王 ( 紀元前 3 世紀頃 ) は仏教に帰依し 8 万もの仏塔を建てて、そこに釈迦の骨を細かく分けて納めましたが、 遺骨が白く米粒の大きさ だったことから、お米 ( ご飯 )のことを今でも料理屋、寿司屋などでは 「 シャリ 」 と呼んでいます。


( 3−2、川上村の名誉挽回 )

川上村の名誉を挽回するために付け加えますと、私は中学生の時 ( 昭和 23 年、1948 年 ) に川上村にある 「 白木屋旅館 」 に前泊して甲州 ( 山梨県 )・ 武州( 埼玉県 )・ 信州 ( 長野県 )の三県の境にある甲武信岳 ( こぶしだけ、標高 2,475 m ) 経由で十文字峠( 標高 2035 m  ) 小屋に泊まり、埼玉県側の奥秩父の登山基地 栃本 ( とちもと ) へ降りました。

その当時、川上村で見た農家の様子は島崎藤村の頃とあまり変わらず、家の障子は破れたままで畳の代わりに 「 むしろ 」 を敷くという、非常に貧しい暮らしをしていました。しかし昭和 40 年代 ( 1965 〜 1974 年 ) になると 標高 1,300 〜 1,400 メートル という寒冷な気候を利用して、レタス などの 高原野菜の栽培 に取り組み成功しました。

登山目的で 三度目に川上村を訪れたのは昭和 55 年 ( 1980 年 ) のことでしたが、村は豊かな農村に様変わりしていました。下の写真は レタス畑。

レタス畠

平成 14 年度の川上村の統計によれば、 白菜、レタス などの野菜の作付け面積は 2,460 ヘクタール で、 農家 1 戸あたりの農業収入は 2,000 万円 という、全国有数の 野菜王国 に変わっていました。

注 : 4 )、6 里観音

四里観音 十文字峠越えの山道には大滝村を起点にして 1 里 ( 4 キロ ) 毎に、江戸時代に建てられた里程を示す観音石像が今もあり、それぞれ 1 里観音、2 里観音と呼ばれていて、川上村の 6 里 ( 24 キロ ) 観音まであります。写真は十文字峠近くの 4 里観音 ( 16 キロ )ですが、それには 「 民俗資料、十文字峠の里程観音( 4 里観音)」の説明があります。

なお秩父の古代遺跡からは長野県の諏訪湖の北にある、和田峠から産出した黒曜石の矢じりが発見されていることから、十文字峠が縄文、弥生時代からの交易 ルートに使用された可能性もありました。

黒曜石は ガラス 片のように角が鋭いため、矢じりや ナイフ として使われましたが、ここ以外に黒曜石を産出した所は伊豆諸島の神津島と箱根に限られていました。


[ 4 : 子供の遊び ]

( 4−1、魚取り )

荒川村に親戚があったので、よく遊びに行きました。村の名前の荒川とは東京の隅田川や荒川放水路の上流に当たる川で、秩父の奥が源流です。夏になると箱眼鏡と ヤス と呼ばれる道具を持って荒川に行き、魚などを ヤス で突いて取りました。

今と違い川の水量も多く、水も透明で静かにしていると、小魚が足をつつきに来ました。もちろん急な流れの中でも泳ぎましたが、プールでの泳ぎとは異なり、平泳か抜き手で泳ぐのが 一番適した泳ぎ方でした。


( 4−2、トーカンヤ )

トーカンヤの行事 旧暦の 10 月 10 日は トーカンヤ ( 10 日の夜 ) の行事がありましたが、国民学校 ( 小学校 ) の児童の遊びでした。これは モグラを退治して豊作を祈る行事ですが、里芋の茎を芯にして周囲を ワラで覆い縄を巻いた物で、日が暮れると下記の 「 はやし歌 」 を歌いながら農家の庭を叩いて巡りました。

トーカンヤ、トーカンヤ、朝 ボタ 餅に、昼 ダンゴ、夜 ソバ食ったらぶっ叩け

山国の秩父では米の収穫が少なく、山地でも獲れる ソバを食べ、粟や、「 キビ 」で ダンコを作り、貴重な新米で作った ボタ餅を食べるのは楽しみでした。

注 : )

トーカンヤに似た民俗行事のことを、西日本では 亥( い ) のこ と呼びました。陰暦10 月の亥 ( い ) の日に行われる行事で、田の神が山へ去って行く日とされました。秋の収穫祭の 一つで、子供たちが石に何本も縄をつけ、各家で土を打って唱えごとをして回り、菓子や餅をもらってあるきました。


( 4−3、 十五夜参り )

十五夜飾り

旧暦の 8 月の 「 十五夜 」 には、今でも思い出す 「 十五夜 参り 」 の楽しい風習がありました。十五夜の月見に飾った他家のお供え物などを、家人の隙をみて密かに盗みに行くのです。

どこの家でも縁側に台を置き、その上に ススキ 5 本を飾り、お供えとして月見 ダンゴ、( あるいは、まんじゅう 15 個 )を 三方の上に飾りました。それ以外に収穫に感謝して野菜や柿、栗なども飾りましたが、子供達にとっては興味の対象外でした。

子供達は誰の家の 「 まんじゅう 」 が 一番美味しいのか毎年の賞味経験から知っていて、小学生の低学年を見張りに付けて待機するのです。その家で夕食が始まり 「 十五夜飾り 」 に対する警戒心が緩む頃になると、年長の子供が密かに庭の縁側の下まで這って行き、飾ってある 十五夜飾りの 三方の上から 「 まんじゅう 」 などをそっと見つからないように盗みました。

家人の知らない内にお供え物がなくなると、縁起が良いとか来年は豊作になるといって、その家の人達は喜びました。もちろん時には見つかる場合もありましたが、コラーと怒鳴られるだけで、 十五夜参りに来た子供達を追わない、叱らないのが土地の昔からの 「 しきたり 」 でした

家に小さい子供や孫がいない老夫婦の所では、「 まんじゅう 」 や ダンゴを子供たちが盗み易いように、わざと庭に出して飾りました。十五夜参りに行く際には母親に入り口が ヒモで閉まる布袋を作ってもらい、それを持って出陣し、戦利品を入れるのに使いました。

何軒もの家のお供え物を頂戴してから地区の 「 火の番小屋 」 に集まり、見張り役を務めた小学校低学年の子供も含めて皆で戦利品を分配して、スリルに満ちた体験談をしながら食べました。

ところで 30 年ぶりに秩父を訪れたところ、国道 140 号線拡張のため思い出の火の番小屋はすでに無くなり、旧友の話では 十五夜参りの風習もすたれたそうで残念なことでした。


[ 5 : フンドシ姿で帰宅 ]

姿の池

秩父には今も散策地である羊山 ( ひつじやま ) の南側に 姿の池 という大きな池がありますが、昭和 21 年 ( 1946 年 ) の夏のこと、友人 2 人と池に泳ぎに行き、岸から 30 メートル程の所を泳いでいると、1 人の じじいが自転車に乗ってやって来ました。

我々が服を脱いだ所で自転車から降りたと思ったら、3 人の シャツと ズボンを取って自転車の荷台に ヒモ で結び始めました。その時点で服が盗まれる事態に我々が気付き、泳ぎながら オーイ、オーイと声を上げたものの、じじいは落ち着いた態度で ヒモ を結び終えると、自転車に乗って去って行きました。

赤フン

岸に泳ぎ着いたものの、残っていたのは 3 人の下駄や草履だけで、身体を拭く手ぬぐいまでも盗まれてしまいました。その後は秩父の街中を当時の水泳時の正装 (?) であった、 赤い フンドシ 1 丁のみじめな姿で歩いて家に帰りましたが、仲間の 1 人が裸で帰宅途中に秩父公園 ( 現在の市役所 ) 横の交番の前で巡査に呼び止められ、職務質問をされた結果、盗難の被害届けを提出させられる羽目になりました。

私の家にも呼び出しがあり警察署に行ったところ、被害届に署名捺印させられましたがその際に、これはまえ ( 前科 )持ちの犯行だと巡査が言っていました。白昼街中を裸で歩き、人々からじろじろ見られた恥ずかしさと、堂々と服を盗んで行った じじいに対する憤りは今でも記憶に残ります。

今では道に落ちていても誰も拾わないような子供の シャツや ズボンも、敗戦直後は物資の不足から盗みの対象になる貴重品でした。母親からはお前が盗まれ易い場所に服を置くから盗まれるんだよと文句をいわれましたが、通っていた旧制中学校の下駄箱からも靴が盗まれる事件が多発しました。

近くに住む男が盗品を売りに行ったことから足が付き、警察に捕まりました。「 衣食足りて礼節を知る 」 の格言がありますが、その当時は物不足から泥棒が横行しました。


[ 6 : 秩父音頭 ]

盆踊りで歌われる秩父音頭の起源については詳しいことは分かりませんが、秩父銘仙を行商しに行った秩父の若者達によって、約 200 年前に中山道の宿場町からもたらされたとする説が有力です。

敗戦直後は娯楽がなかったので夏になると盆踊りが各地で催され、家の近くの秩父公園でも毎年おこなわれました。最近ではいわゆる観光化された 「 お上品な歌詞 」( 注 : 1 ) で歌われますが、庶民の間で歌い継がれてきた昔の歌詞は、当然のことながら卑猥なもの ( 注 : 2 )が数多くありました。

注 : 1
花の長瀞 ( ながとろ )あの岩畳、( 繰り返し )、誰を待つやら、あれさ おぼろ月

注 : 2
嫌だおっかちゃん ( 母親 ) 今度の嫁は、( 繰り返 し)、仕事嫌いで、あれさ ベベ ( セックス ) が好き

長瀞とは秩父の観光 スポットの一つで、今では荒川の観光川下りの発着所があります。

私が子供の頃は盆踊りの季節が近づくと男の子も女の子も、音頭の練習で大きな声で ( 卑猥な ) 歌詞を歌っていましたが、当時はそれが至極当たり前のことで盆踊り会場の櫓の上から マイクで歌っても、誰も何とも思いませんでした。

二つの歌詞を比較しますと、一つは 「 長瀞 」という地名や 「 岩畳 」の部分を置き替えれば、どこの地域でもそのまま通用するようなものでした。形だけは整っていても、心が通わないものであり、他方は庶民の生活体験に基づく、性を大らかに扱った写実的なものでした。

明治維新まで公衆浴場での男女混浴は当たり前であり、昭和 30 年代でも北海道や東北の温泉では男女混浴のところがありました。庶民の持つ性に対する感覚は、昔から自由でおおらかで、時には牧歌的なものでした。

長野県に行けば夫婦 (?) 和合の姿を彫った道祖神が路傍で見られますし、 産土神 ( うぶすながみ ) の 一種で男性の シンボルを模して作られた、巨大な石像、木像を祀る土俗信仰は、農産物の豊かな実り、子授け、安産を願うものとして今も 日本各地でみられます

秩父では 「 卑猥 」 を理由に、200 年以上昔から歌い継がれてきた 「 盆踊りの歌詞 」 が失われるのは、時代の流れとはいうものの、昔を知る者にとって残念な気がします。

道祖神の石像


注 : )道祖神
いつ頃から道祖神が祀られていたのでしょうか、道祖神の道祖という名前が初めて書物に登場したのは、平安時代中期の辞書である 「 和名抄 」( 931〜938 年成立 ) ですが、「 本朝世紀 」 という書物には、ちょうどその同じ頃の天慶元年 ( 938 年 ) の条に、このように書いてあります。

最近、東西の両京の大小の路衢 ( ろく、ちまたの意味 )に、木を刻んで神様として安置しているものがある。男性の像は冠をかぶり、女性の像と対になっているものもある。それらの下半身には露骨に陰陽が刻まれている。

猥雑な感じがするが何しろ圧倒的な庶民や児童の信仰を集めており、慇懃に礼拝している。この神は 「 岐神 」 とも 「 御霊 」 とも呼ばれている。みんな奇妙なもとだと語り合っている。

石像の道祖神が盛んに作られるようになったのは江戸時代のようですが、群馬県、長野県、新潟県の道祖神は圧倒的に男女双体像が多いのに対して、山梨県では丸石の道祖神が多いという特徴があります。


[ 7 : 秩父名物 ]

吊し柿の風景 かかあ天下に吊し柿、も一つおまけに屋根の石

かかあ天下の由来については秩父では昔から養蚕が盛んで、できた生糸で前述の秩父銘仙を織る仕事が江戸時代から行われてきました。蚕の マユ から糸を紡ぎ、はた織り機で布を織る仕事は機械化される以前は全て女性の仕事でした。

家庭の経済に大きく貢献する者が次第に家庭で実権を握るようになったのは、自然の成り行きでした。

同様な言葉に

上州名物、かかあ天下に空っ風

もありますが、冬季に吹く赤城おろしの強風と共に、ここも養蚕が盛んで桐生、伊勢崎、足利などは昔から絹織物の産地でした。上州 ( 群馬県 ) の 女性が働き者で、しかも気が強く、言葉が荒い のは、男達に昔から甲斐性がなく、あまり働かずに股旅物で有名だった国定村の国定忠治や沓掛( くっかけ )の時次郎の様に、バクチを打っなど遊び好きだったからという説もあります。

両者に共通する養蚕に関連して述べますと、昭和 19 年 ( 1944 年 ) に東京から当時国民学校 ( 小学校 )の 5 年生だった私達が学童集団疎開をした長野県は、その当時群馬県、山梨県などと共に全国有数の養蚕県で、上田市には明治 43 年 ( 1910 年 ) に開校した、官立の上田蚕糸専門学校 ( 後の繊維専門学校、戦後は信州大学繊維学部 ) がありました。

しかし同じ養蚕県でありながら長野県では、「 かかあ天下 」 の話を聞いたことがないので、そこにはやはり県民性に類するその地方独特の女性の気質 D N A が、大きく影響しているのではないかと思います。ところで結婚後我が家でも、会社の友人達からよく尋ねられました。

「 奥さんは群馬県の出身ですか?。」、「 いいえ栃木県です。 」、すると相手は不思議そうな表情で 「 関東の出身らしいので、てっきり群馬県の人だとばかり思っていましたが−−−? 」。 女房を観察する他人の目は、 家庭内の実力者 は誰かを素早く読みとるほど鋭いことが、これで分かりました。

屋根の石 吊し柿作りもかつては現金収入を得る為に、農家の副業として盛んにおこなわれましたが、後述する秩父の夜祭りの際の土産物としても売られました。山国の秩父では土地が狭く山が険しいため山村民の生活は貧しく、昔は屋根を葺く材料には 「 コケラ 」 と称する杉板を薄く剥いだものが使用されましたが、水や腐食に強い檜板に比べて耐久性が劣り、安価だけが取り柄でした。コケラは強風が吹くと風に飛ばされ易いので桟で固定すると共に、特に棟の部分には石を置いてそれを防ぎました。


[ 8 : 秩父夜祭り ]

山車の集合 毎年12 月2 日、3 日 ( 本番 )におこなわれる秩父の夜祭りは江戸時代初期からおこなわれて来ましたが、その山車 ( だし )は京都の山鉾、飛騨高山の山車と並んで日本 三大、山車の一つに数えられました。

私が秩父にいた当時は東京と秩父を結ぶ西武鉄道秩父線は未だ走っておらず、現在の西武鉄道秩父駅の敷地には、秩父農林学校がありました。夜祭りのため秩父鉄道は終夜運転をしていて、映画館も終夜上映をして、遊び疲れた人達に寝る場所を提供する サービスをしました。

京都祇園祭りの山鉾巡行の見せ場が 「 辻回し 」 という交差点での直角の方向変換であるならば、秩父夜祭りの ハイライトは当時の秩父公園内にある 「 お旅所 」に集合する為に各町内毎の山車を、団子坂の地道の急斜面を引き上げる時の迫力でした。


[ 9 : 武甲山の自然破壊 ]

武甲山 東京の池袋から西武鉄道秩父線の特急に乗り、1 時間 20 分で終点の西武秩父駅に降りると、目の前に秩父の象徴である標高 1,295 メートルの武甲山が見えます。 かつては関東平野の西の端にある、甲 ( かぶと )を伏せた形の目立った山でした。

しかし昭和 40 年代に始まった高度経済成長の波により セメントの需要が急増したため、全山が石灰岩の塊である武甲山は石灰岩採掘の事業が進み、山の標高が 30 メートルも低くなり、山頂の三角点も移動させられました。

この山には併設中学 1 年生の時 ( 昭和 21 年、1946 年 ) の登山で登りましたが、現在は石灰岩採掘のため、我々が登った登山道は閉鎖されてしまいました。昔の武甲山の姿を知る者にとって、削りに削られた山容を見ると、これがかつての武甲山の姿かと、自然破壊のすさまじさにただ驚くばかりです。

秩父での生活も、昭和 24 年 ( 1949 年 ) の春に併設中学校卒業と同時に栃木県に帰ることになり、秩父に別れを告げました。



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