3:パル判事の言葉、

(1)、聖書に恥よ!

聖書にはキリストの言葉として 「 罪なき者、石もて打て 」 がありますが、東京裁判 ( 極東国際軍事裁判所 ) において英国をはじめ欧米諸国は、それまで自らがおこなった 侵略戦争 や、数百年に及ぶ アジア ・ アフカに対する 植民地支配 とは 無関係の如くに振る舞い ました

そして日本を侵略国家と断罪し、アジア侵略の汚名を一身に着せ、日本を スケープゴート ( いけにえ ) とすることにより、自らの侵略行為、植民地支配責任を覆い隠そうとしたのです。

英語、フランス語、ポルトガル語、スペイン語など世界の言語地図を見れば、どこの国がどこを侵略し、植民地支配をしたのかが一目で分かります。

これまで武力侵略により植民地支配をしてきた連合国には、日本を侵略の罪で裁く資格など全く無く、その恥知らずな行為に対して日本は、 聖書に恥よ 、と叫ぶべきなのです。

東京裁判を構成する11ヶ国の代表判事の中で、その当時国際法関係の著書があったのは、カルカッタ大学法学部教授を経て カルカッタ大学総長を勤めた インド代表の ラダ ・ ビノード ・ パル判事 だけでした。

判事は英文 25 万語 ( 日本語の訳文にすると 1219 頁 ) に及ぶ判決理由書を書きましたが、その中で判事団では唯 1 人、日本人被告全員の無罪を判決しました。

その根拠は東京裁判そのものの違法性と起訴の非合理性を指摘したもので、

第 2 次大戦以前の国際社会では、一国が他国に対して征服支配し ( 武力により ) 侵略することは、犯罪ではなかった。 犯罪ではなかったが故に 、これまで欧米諸国も アジア、アフリカを( 武力により ) 侵略し、植民地化してきたではないか。

戦争が犯罪でないのであれば、なぜ日本と ドイツの指導者のみを裁くのか?。戦争に勝ったが故に正義であり、負けたが故に罪悪であるとするのであれば、もはやそこには、 正義も法も真理も存在しない。

と述べました。

(2)、適用すべき法律の有無

判事の意見を要約すると、本来戦犯裁判に適用すべき法律が国際法上からは存在せず、戦争に対する共同謀議、平和に対する罪、人道に対する罪を、 戦争終了後に裁判所条例により新たに制定した 東京裁判それ自体が、以下の法の真理、司法の原則に反する違法なもので、起訴すべきではなかったというものでした。

  1. 国際法優位の原則
    事実上米国大統領により指名された、連合国軍最高司令官に過ぎない マッカーサーが制定した東京裁判所条例よりも、国際法が 上位の法規範 であるのは自明のこと。

  2. 罪刑法定主義
    文明国における法律の大原則として広く採用されている、法に規定が無ければ 罪にはならず 、法に規定が無ければ 刑罰を受けない とする原則。( ラテン語では、Nullum crimen sine lege,nulla poena sine lege.

  3. 法の不遡及 ( ふそきゅう ) の原則
    実行時に 適法であった行為は 、その後に作られた法により 遡って罰っせられない 、とするもの。

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(3)、談合裁判

戦争末期の昭和 20 年 ( 1945 年 ) 6 月に 米、英、仏、ソ連 ( 当時 ) の 4 ヶ国は ロンドンで会議を開き、今後の戦争裁判の方針を決めました。

きたるべき戦犯裁判では 連合国の行為は問題とされてはならず 、あくまでも枢軸国 ( 日本、ドイツ、イタリア ) の過去の危険を裁くことにするという、いわゆる ロンドン協定を結びました。

この事実を見れば自分たちの犯罪行為を棚上げにした彼らに、正義と文明の名の下に他国を裁く資格など全く無く、あるのは 敗者に対する復讐心だけ なのは明白でした。パル判事は、

戦犯裁判が常に降伏した者の上に加えられる 災厄 であるとするならば、連合国は法を引用したのでもなければ、適用したのでもない。単に 戦勝国の権力を誇示した にすぎないと述べましたが、けだし名言でした。
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判事の意見は 法律に照らして裁判をする という国際的に普遍性のある司法制度の根幹から導き出されたものです。東条首相を初めとする戦犯に対する復讐心と日本人に対する蔑視、偏見から、刑罰を加えるという政治目的のために司法の原則をねじ曲げて戦犯裁判をおこなう連合国の行為に、パル判事は 法と正義を護る 立場から反対したのでした。

さらに判事によれば日本が戦争に踏み切ったのは、自分勝手な侵略のためではなく、むしろ独断的な現状 ( アジアにおける植民地支配 ) の維持政策をとる欧米諸国によって、 挑発されたため であるとしました。

残虐行為に対する政治指導者の責任

非戦闘員の生命と財産の無差別破壊が違法というのであれば、 原子爆弾投下の決定 こそ、「第 1 次大戦 ( 1914〜1918 年 ) における ドイツ皇帝の指令 ( 注参照 )、第 2 次大戦における ナチス指導者 (アドルフ ・ ヒットラー ) の ユダヤ人抹殺指令に近似した唯一のものだ 」 と述べていました。

何十万人もの非戦闘員を原爆により虐殺した、米国大統領による 「 残虐行為 」 の責任の存在を間接的表現ながら指摘したものでした。

注:)
第 1 次大戦当時、オーストリア、イタリアと 3 国同盟を結んでいた ドイツの皇帝 ウイルヘルム 2 世 ( 在位 1888〜1918 年 ) が、オーストリア皇帝の フランツ ・ ヨーゼフに送った悪名高い手紙によれば、
すべてを炎と剣の、生け贄 ( にえ ) にしなければならない。男、女、子供、老人を殺戮 ( さつりく ) し、1 本の木、1 軒の家さえ立ったまま残してはならない。
と命じました。

(4)、判決の締め括り

パル判事が書いた判決理由書の最後は、次の言葉で締め括られています。

時が、熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、その時こそ、正義の女神は秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。

現在では東京裁判の正当性を主張する国際法学者は、国際的にも、国内的にもごく少数にしかに過ぎません。パル判事が予言した如く、時が正義の仮面を引き剥がし、 偏見と復讐の素顔 、を白日の下にさらしたからであり、厳正中立であるべき 法の真理 、が政治目的化した東京裁判により歪められた事実を、前述の オランダ代表判事を勤めた レーリンクを初め、世界の国際法学者、研究者達が認めるようになったからです。

外交官の経歴を持ち英国法曹界の長老でもあった ハンキー卿は 「 戦犯裁判の錯誤 」 と題する著書 ( 昭和 27 年 10 月日本語訳出版 ) の中で、パル判事の日本人戦犯無罪論に 100 パーセント賛成する考えを述べました。

パル判事は昭和 27 年 ( 1952 年 ) に国連から、国際法委員会の委員に任命され、その後には委員長の職を勤めましたが、 東京裁判の関係者で国連の国際法委員に任命された者は、 パル判事ただ 1 人でした。

彼を除きその職にふさわしい見識と能力の持ち主が、いなかったのかも知れません。

昭和 41 年 ( 1966 年 ) 10 月に来日し、国際法の分野での活躍、功績により、天皇陛下から勲 1 等瑞宝章を授与されましたが、翌年 82 才で死去しました。

注:1)
ローマ法王の発言

征服者が非征服者を裁判することには不当な点がある。そして中立国の裁判官を加える必要がある。
と国際刑法学会で演説しました。( シカゴトリビューン紙が昭和 28 年に報道。)

注:2)
朝鮮戦争 ( 1950〜53 ) 勃発直後の、昭和 25 年 ( 1950 年 ) 10 月 15 日、ハワイと東京の中間にある ウエーキ島で トルーマン大統領 ( 当時 ) と会談した マッカーサーは、自己の管轄下でおこなわれた東京裁判に言及して、

裁判をしたことは誤りであった と述べました。

注:3)
米国の著名な月刊雑誌、フォーチュンの当時の記事 ( 昭和 24 年 4 月号 ) に依れば、
法廷に証人として出廷せず、従って宣誓無しに作成された検事側書類を証拠として受理し、検事と弁護人に異なる ( 大差ある ) 審理手続きで弁護側に不利を与えた東京裁判は、判決に批判の余地を残した。

インドの判事 パルは、 勝者が決めた定義による裁判は、文明を抹殺するものである と爆弾宣言をしたが、フォーチュン誌が 3 年前に表明したのと同じ趣旨のものである。

国際条約では侵略の定義は定められておらず、( 侵略であろうと無かろうと )一切の戦争を犯罪とはしていない。更に個人を罰する規定は存在せず、国連人権宣言第 11 条 ( 犯罪のあった当時の刑法以上の重き刑罰を科すべからず ) の精神に違反するもので、侵略に対する法的制裁は事後法であり、支配者によって創られた罪状である。 要するに本裁判は、法の精神に反するものである。
と述べられていました。

注:4)、レーリンクの発言

昭和 58 年 ( 198 3年 ) 5 月に東京で東京裁判国際 シンポジウムが催されましたが、東京裁判において オランダ代表判事を勤めた国際法学者である レーリンクも出席しました。その際の講演で彼は
侵略戦争は第 2 次大戦の開戦の段階では、国際法上の犯罪ではなかった。そして侵略戦争の罪は明らかに敗戦国に対してのみ適用されたが、二つの裁判 ( ニュールンベルクも含めて ) とも、その源に ( 敗戦国に対する ) 悪意があった ことは真実である。それ(裁判)は政治目的のために誤用され、多かれ少なかれ不公平であった。
と述べました。
つまりその当時、戦争は犯罪では無かったにもかかわらず、敗戦国に対する 復讐という政治目的 から、「 平和に対する罪、戦争に対する共同謀議 」 などの罪を事後法により制定し、被告達を極刑に処しました。

裁判の不公平さについては「多かれ少なかれ」の程度ではなく、審理の進め方、証拠の採用などの手続きにおいて、極めて不公平であったというのが実状です。

東京裁判に判事として直接かかわり有罪判決の片棒を担いでおきながら、35 年も経ってから今更なにを弁解するのかと言いたくなります。彼は東京裁判当時、パル判事の爪の垢でも煎じて飲むべきでした。



4:米国流の正義とは

(1)、国際刑事裁判所の設置に反対

平成 14 年 7 月 1 日から、国際刑事裁判所 ( International Criminal Court ) の設立条約が発効し、これまでに 138 ヶ国 が署名しそのうち 76 ヶ国 が既に条約を批准しました。この裁判所は虐殺や戦争犯罪など非人道的な行為をした ( 国ではなく )、 個人 を裁く初めての国際裁判所で、オランダの ハーグに常設されました。注目すべき点はこの裁判所が裁くのは前述の 「 人道に対する罪 」 だけで、東京裁判で日本人を戦犯として裁いた「 平和に対する罪 」を裁くことはありません。なぜだと思いますか?。

戦争の原因について 一方の国が正しく、他方の国が正しくないなどと、容易に決められないからです。中国の諺に 「 春秋に義戦なし 」 つまり、乱世の春秋時代 ( BC 770〜BC 403 年 ) に正義の戦いなど存在せず、というのがありましたが、ヨーロッパにも、 「 正義は国の数だけ存在する 」という諺があるからです。

米国は以前からこの裁判所設置には大反対をしてきました。現在米国は 130 ヶ国に 25 万 5 千人の陸海空軍兵士や海兵隊員を派遣していますが、海外での戦闘で米兵が戦犯として裁かれる恐れがあるという理由からです。そのため米国は過去何度も I C C 設立準備委員会で 米兵を訴追対象から除外する規定の設置を求めてきました。そして未だにこの条約の批准を拒否しています。

ベトナム戦争当時の昭和 43 年 ( 1968 年 ) 3 月 16 日、ウィリアム ・ カーリー中尉に率いられた第 11 旅団の米兵達が、多数の ベトナム民間人女性、子供を虐殺したことで有名となった、 ソンミ村事件 が起きましたが、たとへ米兵がこのような戦争犯罪を犯しても、起訴をするなという要求です。なんと身勝手でしかも恥知らずな要求でしょうか!。

(2)、ベトナムでの虐殺責任者のその後

虐殺事件

事件の詳細は ソンミ村を含む、ソンチン地区における住民の大虐殺で、カーリー中尉と彼の部下が合計 347 名 の老人、女性、子供、赤ん坊を、掃討作戦の際に部落の数箇所に集めたうえで銃により虐殺しました。

裁判において女性や子供、赤ん坊を殺害した理由を問われた兵士の 1 人は、

女性は V C ( Vietnam Communist 、ベトコン = 民族解放戦線兵士 ) の子供を産む、そして子供は成長すれば V C になる、だから殺害した。

と述べました。

大虐殺でもこの刑罰

内部告発により虐殺命令を下した指揮官の カーリー中尉 1 人だけが軍事裁判に掛けられて終身刑を宣告されましたが、合衆国退役軍人協会 ( U.S Veterans Association ) の強い政治的圧力により、間もなく判決は 20 年の刑 に覆され、さらに 10 年 に減刑されました。裁判中もその後もニクソン大統領から自宅謹慎の特権を与えられ、身柄拘束や収監もされませんでした。

無罪判決

昭和 49 年 ( 1974 年 )10 月には地元 ジョージア州、コロンバスの地方判事 ロバート ・ エリオットが、正当な理由もなく原判決を破棄したため、カーリー中尉は虐殺事件から 6 年後 には晴れて自由の身となりました。

過去に多数の日本軍兵士を不公平な戦犯裁判で死刑にするなど厳しく処罰しておきながら、自国の兵士が戦争犯罪や非人道的行為をした場合には、インチキな裁判で無罪とし、その後も米兵が国際刑事裁判所で裁かれる事には大反対をするのです。

正義の正体

「 他国民には厳しく、自国民にはやさしく 」、このダブル ・ スタンダード ( 二重基準 ) こそが米国の唱える 正義の正体 であり、「 東京裁判は 復讐劇にすぎない 」、と喝破した パル判事の正しさを証明するものです。

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