一部の札所の遍路に対する非常識な対応については、これまで皆がひたすら我慢するのみで 表だって言及するのを避け 、それを記述した ホームページもこれまで目にしたことは殆どありませんでした。 その結果 「 初遍路に出る人 」 がそれについての予備知識、情報が無いまま、札所の対応にいきなり ショックを受け、怒り、失望し、 自分自身を納得させているのが実情です。 四国八十八ヶ所の札所の中には、このような非常識な札所が存在している現状を多くの人々に知ってもらうべく、 タブーを破り私が体験した実例を紹介します。
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こんな人が!
その 1 あるとき納経所で私がお願いしますと言って差し出した納経帳を、くわえ煙草のまま記帳して、挙げ句の果てに投げて寄越す若い僧侶 がいました。 これまでに、どこかの仏教学校/仏教大学?でそれなりの教育を受けたであろう僧侶が、しかも仏教施設で働きながら平然とこのような 行為をする事自体、何かが間違っていると思います。それは札所で働く者の 人間性や、僧侶としての資質の問題 だと私は思います。
遍路をしているというだけで、初対面の納経所の人間から、 これほど卑しめられた扱いを受けるとは 思いもよりませんでした。 この話を遍路宿で夕食後の雑談でしたところ、ある遍路が 相手が口を利いただけ、 まだ マシ ですよ 。納経の際にお願いします、ありがとうございますと挨拶しても相手は仏頂面で無言。次の札所へ行く道順を尋ねても無言で、アゴをしゃくっただけでしたが、 早く立ち去れという意味でした 。という話をしました。
よく見ると数年前に書いたと思われる日光で茶色に変色した紙に、地図らしきものがありましたが、到底読める代物ではありませんでした。この女性にとって 「 左へ行きなさい 」 と言うのは、より面倒だったのでしょう−−−多分。
ここまで堕落した札所
その 1、祖師に恥じよ!、同行 2 人真冬に巡ったある寺の納経所には 「 用事のある者は呼びリンを 1 回鳴らして待て 」と掲示がありました。15 分ほど戸外で待っていたところ、ようやく納経所に入って来た僧侶から、いきなり 閉めろ といわれました。 なにを閉めるのかと思ったら、 入って来た僧侶に納経帳を差し出す為に開けた窓の ガラス戸を 、「 寒いから閉めろ 」 という意味でした。記帳のために要する時間はせいぜい 1〜2 分です。その短い時間だけ開けた窓の ガラス戸が寒いのであれば、寒い戸外に遍路を 15 分も待たした行為をどう思うのか?。しかも遍路は 同行 2 人 と言われているように、道中では常に弘法大師のお導きを受けながら一緒に旅をしているのです。
弘法大師を寒空の下に長時間待たせておきながら、数分間の自分の寒さに文句をいう態度は、真言宗の僧侶として、 祖師に恥じよ!と言おうと思いましたが、遍路が守るべき 10 善戒のうちの 9 番目の戒律、 怒らない を思い出して我慢しました。 金銭のことはあまり言いたくはありませんが、この際だから敢えて申しますと、遍路は決して タダ で記帳、押印をして貰っているわけではありません。1 回に付き最低でも納経帳への記帳代 300 円から、フルコースでは最高 1,000 円の料金を支払っていて、その収入の上に札所の経営、家族の生計が成り立っているわけです。 そのことを忘れ果て、語弊がありますが、見方によっては収入をもたらすお客の立場でもある遍路を理由もなく見くだして、いかにも 記帳をしてやるから、ありがたく思え とでも言うような思い上がった態度で、遍路に接する札所の僧侶、寺の家族、アルバイトの従業員などがいるのは実に嘆かわしいことです。
札所と社会主義国の類似点彼等の行為には 仏門に仕える身でありながら宗教心の 「 カケラ 」すら感じられず 、かつての ソ連や中国の国営 デパート、国営飯店 ( ホテル )や レストラン従業員のお客に対する 鉄飯椀 ( 親方日の丸 ) 的な不作法な態度 と同じです。それは 客がどんなに不愉快になろうが自分達は少も困らない。しかも客は必ずここにやって来る。なぜなら欲しいものは、ここでしか手に入らないからさながらです。 昭和 54 年 ( 1979 年 ) に始まった 「 改革解放政策 」 以前の中国や、昭和 60 年 ( 1985 年 ) に始まった ペレストロイカ政策以前のソ連の社会では、サービスという概念が存在しないひどいものでした。
当時北京市内で最高級の 北京飯店 ( 国営の ホテル )でさえも、レストランに食事に行くと ウエイトレス達は、客が呼んでも無視して仲間同士の雑談に耽り注文を聞きに来ず、モスクワを代表する ソビエッカヤ ・ ホテル でも、レストランに入ってから雑談中の ウエイトレスに 注文を聞いてもらい(?)、最初の料理が運ばれるまでに 1 時間は待たされる のが当たり前でした。ソ連の国営 デパートや中国の友誼商店 ( Friendship Store、外国人向けに、外貨でしか販売しない国営商店 )でも、訪れる客は仲間同士の楽しい雑談や休息(?)を妨げる不届き者扱いで、仏頂面で嫌々ながら仕事をし、客が買った品物を投げて寄越すのが普通でした。 普通の国であれば店員は客に品物を売ろうとし、食べてもらおうとしますが、社会主義の国ではその常識は通用しませんでした。同一労働、同一賃金でしかも 勤務評定が無く、真面目に働いても、怠けていても給料が同じという 社会主義の制度的欠陥 から 、ウエイトレスや売り子達ができるだけ仕事をさぼろうとしたのは当然の結果でした。 そこで働く従業員達は 客よりも 自分達がはるかに偉い と思っていて、態度も横柄で、彼女達の機嫌を損ねたら 客は食事をさ せてもらえず、売ってもらえない 、というのが改革解放以前の社会主義国に共通の社会習慣、常識でした。 一部の札所に 「 たむろ 」 する連中の態度、仕事ぶりを見ると、社会主義国の レストランや商店の従業員と同じだと思います。 四国の札所では四国霊場会の協定により、執務時間を朝七時から夕方 5 時までと一律に決められているにもかかわらず、朝 7 時過ぎに記帳に訪れると ベルを押してもなかなか起きて来ず、やっと起きて来たと思ったら安眠を妨げた無礼な(?)遍路に対して、露骨に敵意を示す寺の僧侶がいます。 また勤務時間中の記帳についても仲間同士の雑談や休息、テレビ鑑賞を妨げる不届き者として不快感を示す者や、 納経帳や掛け軸の提出の仕方 にまでいちいち文句をつける僧侶もいて、札所の業務に対する責任感や仕事についての熱意、誠実さに欠け、宗教施設で働く者としての適性や人間性に疑問を持つ者もいます。 謙虚な気持ちで札所を巡る遍路たちの 「 何かを探し求める素直な心 」 が、彼等の行為によって、これまでどれほど多く傷つけられて来たことでしょうか!。
その 2、留守にする札所もっとひどい札所がありました。 留守にするのです 。香川県のある札所を訪れたところ、納経所の前に 10 人近くの人がうろうろしていました。理由を聞くと札所が留守で記帳してもらえないので困っているとのことでした。札所には何の掲示もなくいつ帰るのか不明のため、車で巡る人達は次第に去ってゆきました。 しかし歩き遍路は簡単に次ぎに進むわけにはゆきません。また歩いて戻って記帳する必要がありますから。私はそこで 1 時間待ちましたが、留守のままなので次の札所に徒歩で向かいました。 2 時間半後に着いた次の札所で記帳を終えてから念のために、留守の札所に電話したところ家人が戻っていました。また歩いて戻るとその後の予定が大幅に遅れるので、列車で戻りました。 「 留守でしたので次ぎの札所の記帳をしてから列車で戻りました 」 と記帳の際に年輩の僧侶に話したところ、「 フーン 」 と言っただけで不在のために多くの遍路に迷惑を掛けたことなど、 どこ吹く風 の様子でした。 これでは宗教人どころか、一般社会人としても あまりにも無責任、常識が無さすぎます 。うわさによるとこの札所は、急用で不在になる際にも、人件費を惜しむあまり、他の札所のように アルバイトの人を雇って留守を任せることはせず、 一時的にせよ職場放棄をする ので、遍路の間で悪評があるのだそうです。 以上、一部の札所については 本来在るべき姿 からはほど遠く、 札所もここまで堕落したのか!、という感じを受けました。
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札所に対する苦言/ 社会常識を持て
四国遍路で不愉快な思いをさせられたのは、 きまって寺の僧侶を含めた納経所にいる連中からで 、札所の外ではそのような事は 1 度もありませんでした。 私は札所に対して「 もっと遍路に親切にしろ 」 とか 「 優しくしろ 」、などと 贅沢なこと を言うつもりは毛頭ありません。僧侶といえばかつては聖職者として、仏の教えを人に説く尊敬された存在でした。 そういう人に対して口にするのも、 実に情けない話 ですが、社会で通用する常識をもって遍路に接して欲しい、と言うだけです。 札所で人の上に立つ僧侶が常識をもって振る舞えば、家族や札所で働く者は自然にそれを見習うようになるものです。
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ここまで遍路に言われたら、札所の関係者は同業者のあるまじき所業に 赤面し 、四国霊場会などの組織を通じて 非常識な札所の業務改善 を働きかけてもよい 「 ハズ 」 です。しかし札所は納経手数料の値上げについては 一致協力するものの、それ以外のことには興味がないのか、遍路がもたらすお布施 ( 納経代 ) の ゼニ勘定や、あり余る収入での札所や宿坊の改築/新築に忙しのか(?)、業務改善の件に関してはさっぱりです。
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悪評札所は修行の場か?。
四国遍路を文字通り 10 善戒を守る修行の場と捉え、遍路の間で以前から悪評がある 一部の納経所の対応に、文句や愚痴を言うべきではないとする考え方もあります。しかし その考え方こそが 長い間、彼らの宗教人らしからぬ非常識な振る舞いを許し、存続させた原因だと私は考えます。
さらに札所と遍路の関係についてはっきり言わせてもらえば、そこには 「 記帳をお願いします 」、「 ご苦労さま 」の関係があっても、 上下の関係 では決してないということです。 新しい気持ちで遍路を始めようとする人達に、私と同じ怒りや不快感を味わいながらの遍路をさせたくはありません。非常識で横柄な態度をとる、 1 割前後の悪評札所の存在 について、 四国霊場会は放置せずに、業務改善 ( 指導、勧告 ) をすべきであると思います。
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