鳥島の ( 続き )


[ 6 ジョン万次郎らの、救出の経緯 ]

ジョン万次郎

前頁の表 の ピンク欄にあるのがご存じの ジョン万次郎たち漁師 5 名の遭難記録ですが、 当時 14 才の彼は四国の室戸岬沖で漁の最中に、 1 月 29 日 ( 太陽暦 )に嵐に遭って遭難し、2 月 5 日に鳥島に漂着しました。しかし 火種 がなかったので 「 あほうどり 」 の生肉を食べ 、鳥の 「 渡り 」 に備えて 「 あほうどり 」 の干し肉を作り食料の備蓄をしました。

彼等は幸運にも 5 ヶ月後の 6 月 28 日 ( 太陽暦 ) に、 アメリカの捕鯨船 ジョン ・ ハウランド号 ( John Howland、377 トン ) により救出されましたが、その際の経緯についてはこれまで救助された日本人側の話が記録にあるだけでした。ところが近年に新しい資料が発見されました。

平成 12 年 ( 2000 年 ) になって ジョン ・ ハウランド号の乗組員 ライマン ・ ホームズ ( Lyman Holmes ) という当時 18 才の船員が記録した 航海日誌 ( 内容としては航海中の 日記 ともいうべきもので、1839 年 10 月 31 日 ~ 1843 年 5 月 2 日 まで ) が東京の古書店で発見され展示されましたが、それには 500 万円 の値段が付きある団体が購入しました。

ジョン万次郎が取り持つ縁で、 アメリカの マサチュセッツ ( Massachusetts ) 州の フェアヘブン ( Fairhaven ) と高知県 ・ 土佐清水市が姉妹都市 ( Sister city ) の関係にありますが、土佐清水市の出身で引退した元国会議員の平野貞夫氏と小沢一郎 センセは親しい間柄なのだそうです。そこで彼が センセ に資金提供を依頼して、団体のために購入したとされます。

小沢 センセ も政治と カネの問題、つまり資金管理団体である「 陸山会 」 の土地購入をめぐる政治資金収支報告書 ・ 虚偽記載事件で検察による 不起訴処分 を受けたものの、検察審査会による 不当とする判断 で苦しい立場にいますが、 汚れた カネによる 不動産購入をしただけでなく、珍しいことに 生きた カネの遣い方 もしました。

ちなみに ジョン ・ ハウランド号の公式の航海日誌は、船長の ホイットフィールド ( Whitfield ) 家に保存されたままで非公開です。


( 6-1、ウミガメ探し )

以下は ホームズの航海日誌の 1 部分ですが、これまでの救出された側の記録では ウミガメの話は全く出ませんでした。

ウミガメ

1841 年 6 月 28 日 ( 月 )
午後 1 時、2 隻の ボートを降ろし、 島に ウミガメを探しに行った 。3 時に 5 人の中国人か日本人(?) を連れて帰ってきた。この島に漂着して暮らして居た人達であった。彼等は泳いで ボートに乗り移ってきた。何もしゃべらない。お互いに、身振り、手振りでしか理解できない。島に衣類や数個の箱があるということのようだ、海岸に 2 隻 ( おそらく 1 隻であろう ) の ジャンク ( Junk 、 和船 ) の残骸があった。

サンドウイッチ諸島 ( Sandwich Island 、ハワイ 諸島の旧名 ) に送り届ける手配をした。1 隻の ボートを降ろし、彼らの衣類をとってこさせた。40 ガロン ( 151 リットル ) 入りの樽が 1 つ、彼等が乗ってきた船の残骸の近くに置いてあった。その船は 10 ~ 15 トンと思われる。

長期間行動する捕鯨船の食事といえば、腐敗を防ぐために塩抜きしなければ食べられないほど塩分の強い塩漬された肉 ( Salted meat )、 ビスケットか乾 パン、それと時々 ワインか ビールが出ましたが、彼等にとって ウミガメの新鮮な肉は 「 よだれ 」 が出るほどの好物でした。

ウミガメを求めて鳥島に接近したことが ジョン万次郎たちの救出につながりましたが、賢くて勤勉な当時 14 才の万次郎少年 ( 1827~1898 年 ) は ホイットフィールド船長に気に入られ、その好意で、 日本人初の留学生となり、 日本人初の ホームステイ を船長宅にして学校教育を受け、 航海術 ・ 測量などを学びました。


( 6-2、日本への密入国 )

しかし望郷の念やみがたく彼は 1851 年に ハワイに居住していた 2 名の仲間と共に、日本近海で捕鯨をする捕鯨船 サラボイド ( Salaboyd ) 号に乗り、 琉球国 ( 沖縄 ) 南部に近づいたところで捕鯨船から  ボートに乗り移り、 摩文仁 ( まぶに ) ・ 間切 ( まじり ) の浜に密入国しましたが、遭難してから 10 年後の ペリー黒船来航の 2 年前のことでした。

琉球では密入国について 7 ヶ月間の取調べをうけましたが、その後薩摩藩へ身柄を送られた際の書類の末尾には

万次郎事 ( こと ) 和字 ( 日本の漢字 ) ハ不存由候得共 ( ぞんぜぬよしに そうらえども )、亜美利駕 ( あめりか ) 之文字 ( のもじ ) 読書ハ勿論、船乗リ至而巧者之様子 ( にいたっては こうしゃのようす )、大気成者ト相見得候 ( たいきなるものとあいみえそうろう、細かいことにくよくよしない者 )
と万次郎の評価が付け加えられていました。薩摩から更に長崎奉行所に送られ取調べを受けましたが、長崎奉行牧志摩守 ( まき しまのかみ ) が幕府に提出した書類の添え書きには

万次郎ハ頗 ( すこぶ ) ル怜悧 ( れいり 、頭の働きが優れていて賢い ) ニシテ、国家ノ用トナルベキ者ナリ

とありました。西洋事情に通じ ・ 英語力を買われて 幕府の直参 に取り立てられ 中浜万次郎と称しましたが、しかし ペリー来航の際の外交の舞台では通訳に選ばれませんでした。その理由とは老中などの幕府の主要な役職者を前にして米国事情を説明した際に

世界各国之内 御国 ( 日本 ) の外は大抵同盟又は通商 国々にて互いに船往来致し、いずれも懇意 ( こんい ) 致さざる国 無之 ( くに これなし ) 。
と鎖国政策の時代遅れを指摘したために、 尊皇 攘夷思想 熱烈な信奉者 でした 水戸藩主の徳川斉昭 ( なりあき、1800~1860 年 ) が、ジョン万次郎に スパイの疑いを抱き、外交交渉の際に アメリカに有利になるように通訳するおそれがあると主張した為でした。


( 6-3、万次郎のその後 )

万次郎は 1860 年に遣米使節の随伴艦の咸臨丸に教授通弁方 ( 通訳 ) 主務として乗り組み再び訪米しましたが、船酔いで寝たきりだった船長の勝 海舟 ( 注参照 ) に代わって操船の指揮をとり、便乗者で前年 ( 1859 年 ) に横浜沖で難破した フェニモア ・ クパー号 ( Fennimore Cooper ) の船長 ブルックス ( Brooks )など船員 9 名の協力を得て、船を予定通りに サンフランシスコに到着させました。

注:)
サンフランシスコに咸臨丸が到着した翌日 ( 1860 年 3 月 18 日 ) の新聞 Daily Alta California によれば、船長の勝 海舟は航海の間、ほとんど病気 ( 船酔い ) であり、知的な医師によってずっと看病されていた。

とありました。

ジョン ( 中浜 ) 万次郎にとって人生で最も輝いていたのは 30 才 ( 1857 年 ) で幕府の軍艦操練所教授を命じられ、その後 咸臨丸で訪米し ( 1860 年 2 月 ~ 同年 6 月 ) 、恩人の ホイットフィールド船長と アメリカで再会し帰国する迄の期間でしたが、帰国の 3 ヶ月後にはその職を解かれて、それ以後徳川幕府の下ではその英語力 ・ 海外生活経験を生かす機会にあまり恵まれませんでした。

幕末とはいえ封建社会の厳しい身分制度の下で、賤しい漁師の生まれという出自 ( しゅつじ、出どころ ) に過ぎない、 成り上がり者 の万次郎が持つ米国の知識に頼らなくても、日米和親条約締結 ( 1854 年 ) により伊豆下田に米国領事館を置き、1858年に日米修好通商条約を結ぶなど、生の海外情報を容易に入手できる環境になったからであり、彼の予想外の出世に対する周囲の 「 ねたみ 」 もあったからでした。

利用する価値がある間は積極的に利用するが、不要になれば さっさと切り捨てる

という非情とも思える徳川幕府の処遇に、ほんろうされた彼の人生でした。

中浜万次郎

明治維新 ( 1868 年 ) 後は東京大学の前身である開成学校の教授に任命され、明治 3 年 ( 1870 年 ) には、フランスと プロイセン ( Pruisen ) との間で行われた普仏戦争 ( 1870 年 7 月 ~ 1871 年 5 月 ) への戦争視察団の一員として、大山巌 ( おおやまいわお、日本陸軍の創成期から日露戦争にかけて活躍した軍人 ) などと共に、 ヨーロッパに通訳として派遣されました。


[ 7 : ジョン万次郎の足跡 ]

道路標識

13 年ほど前に夫婦の個人旅行で何度目かの北米 東海岸を訪れた時のこと、行ってみよう見てみようの好奇心から、ニューヨークの マンハッタンに近い ラガーディア ( La Gurdia ) 空港から マサチューセッツ州 ボストンの ローガン ( Logan ) 国際空港に行きました。

そこで レンタカーを借りて 南に約 50 マイル ( 80 キロメートル ) 離れた所にある、かつて 北米の捕鯨基地として有名でした、 ニュー ・ ベッドフォード ( New Bedford ) を訪れました。

そこは バザーズ湾 ( Buzzards Bay ) に面した港町でしたが、今では オーストラリアと並び反捕鯨を旗印にする アメリカも、 1846 年当時は 736 隻の捕鯨船 を持つ世界最大の捕鯨国でした

この港や 同じ州内でここから南東 80 キロメートルにある当時 アメリカ有数の捕鯨基地でした ナンタケット ( Nantucket ) 島 など、北米東海岸の港から出漁した捕鯨船が大西洋の鯨を捕り尽くしたので、次は西海岸に捕鯨基地を移して太平洋の鯨を捕り尽くし、更に日本近海の鯨を捕るために ハワイ諸島、オアフ島の ホノルルや マウイ島の ラハイナ( Lahaina )を捕鯨基地にして、当時 手付かずの鯨の宝庫 でした日本近海にまで進出しました。

ジョン・ハウランド号

鳥島に漂着した ジョン万次郎ら 5 名を救出したのも、あるいは難破漂流中の日本船から数多くの船乗りたちを救助したのも、彼等捕鯨船の連中でしたが、ジョン万次郎たちを救出した捕鯨船 ジョン ・ ハウランド号 ( 右の絵図 ) も ニュー ・ ベッドフォードを母港とする捕鯨船でした。日本からの帰途、 ホイットフィールド船長が他の 4 名を ハワイの ホノルルで下船させ、ジョン万次郎 1 人を連れて ニュー ・ ベッドフォードに帰港しました。

ニューベッド鯨博物館

ここには アメリカには珍しい捕鯨博物館 ( Whaling museum ) があるので見物しましたが、和歌山県 ・ 太地 ( たいじ ) 町の 「 くじら博物館 」 と同様に くじらの骨格標本があり、様々な展示品 ・ 捕鯨に関連する人物の紹介に交じって、ジョン万次郎を紹介する パネルもありました。

鯨油のタル

右の写真は捕鯨産業が盛んだった頃のもので、そこに並べてある タル は捕鯨船がもたらした鯨油の入った バーレル ( Barrel、胴が膨らんだ形をした、31.5 ガロン= 約 119 リットル入り の タル ) ですが、アメリカにおける捕鯨の盛んな時期は 1820~1865 年でした。

鯨油年度別生産量図

この期間には世界で 毎年 1 万頭の くじら が捕獲され その 8 割 は アメリカが捕獲しました

歴史家の デビッド ・ モメント ( David Moment ) によれば、捕鯨の ピークは 1845~1846 年であり、1845 年には 525,000 バーレル ( Barrels、樽、 62,594,000 リットル ) の鯨油と抹香鯨 ( マッコウクジラ ) の巨大な頭部に溜めている抹香鯨油 ( スパーム ・ オイル、 Sperm Oil )を得ましたが、抹香鯨油は最高級の潤滑油や、スス が出ない最高級の灯明用の油になりました。

ミリセント図書館

ジョン万次郎の アメリカにおける育ての親でした ホイットフィールド船長の自宅は、 ニュー ・ ベッドフォードから アクシュネット川 ( 注参照 ) に架かる橋を渡って 東側 にある フェアヘブン ( Fairhaven ) にありましたが、町の観光拠点である ミリセント ( Millicent ) 図書館を訪れると、そこにある ゲストブック ( Guest book 、 訪問者記念 サイン帳 ) には、1987 年 ( 昭和 62 年 ) に ここを訪れた皇太子時代の現 ・ 天皇と美智子妃殿下などの著名人 の サインがありました。

注:)
捕鯨を題材にした有名な海洋小説、 「 白鯨 ( はくげい ) 」 を書いたのは アメリカ人作家の ハーマン ・ メルビル ( Herman Melville ) ですが、彼が 20 才の時 ( 1841 年 ) に  ニュー ・ ベッドフォードから乗船した捕鯨船の名前が アクシュネット ( Acushnet ) でした。

捕鯨船アクシュネット

そこから ニュー ・ ベッドフォード ( 市 ) と フェアヘブン ( 町 ) の間を流れる川 が アクシュネットと名付けられましたが、絵図は捕鯨 ボートで操業中の捕鯨船 アクシュネットの様子を描いたものです。

ところで私自身と捕鯨との関連をいえば、大学 2 年の時に習った英語の教材が Moby Dick ; or The Whale ( 白鯨 ) でしたが、捕鯨船や ・ 捕鯨 / 反捕鯨について詳しく知りたい方は、 ここを クリック


[ 8 : 玉置半右衛門のこと ]

玉置半右衛門の名前をご存じですか?。彼こそは、かつては足の踏み場もないほど鳥島に繁殖していた 「 あほうどり 」 を金儲けのために大乱獲し、 ほとんど絶滅させた男でした

彼は八丈島出身で横浜で商売をしていましたが、その際に 「 羽毛ふとん 」 が西洋で用いられ、原料の羽毛が高値で取引されることを知り、ジョン万次郎がもたらした鳥島に生息する無尽蔵の 「 あほうどり 」 の情報を元に、羽毛を採る計画を立てました。

明治 21 年 ( 1888 年 ) 3 月に東京府から鳥島の 10 年間の借用許可を得て、早速鳥島の開発計画に着手しましたが、それに依れば牛の牧畜を主体にして、あほうどりの羽毛の採取もおこない、鰹節 ( かつおぶし ) の製造にも当たるとされました。 それに基づき八丈島から約 30 人の作業員が鳥島に移住し、あほうどりを撲殺して羽毛を採り始めました。

明治 31 年 ( 1898 年 ) の鳥島における事業規模は、

  1. 人口 : 89 人 ( 成人の男 42 人、女 29 人、 15 才未満の男 6 人、女 12 人 )

  2. 羽毛採取量 :1 万 456 貫 ( 39.21 トン )、推定売上げ価格 3 万 2,675 円

  3. 鰹節生産量 : 5 万 20 貫、価格 780 円
  4. 牧畜 : 牛 4 頭、豚 9 頭
でした。玉置半右衛門は採取した 「 あほうどり 」 の羽毛を横浜の貿易会社を通じて海外に輸出し巨万の富を得ましたが、羽毛採取のために殺された 「 あほうどり 」 の数は年間に 20 万羽 ともいわれ、以後 1902 年 8 月 9 日に鳥島が火山の大爆発を起こして、住民である作業員とその家族 125 人が 全滅するまでの15 年間に、推定 500 万羽の あほうどりが殺された とされますが、玉置はこの事業により巨万の富を得ました。

当時は噴火による住民の災害を、「 あほうどり 」 の 祟 ( たた ) りで (?) 全滅した という人もいました。


( 8-1、絶滅状態のあほうどり )

大乱獲の結果鳥島の 「 あほうどり 」 は激減し、昭和 5 年 ( 1930 年 ) に鳥島を訪れた山階芳麿 ( やましなよしまろ、注参照 ) はその数を 2,000 羽ほど と記録しています。

「 あほうどり 」 の生息数の減少に驚いた山階芳麿は、鳥島を禁猟区にするために奔走しましたが、その後に山階芳麿により派遣された山田信夫によれば、昭和 7 年 ( 1932 年 ) には 数百羽 、私が生まれた年である昭和 8 年 ( 1933 年 ) には 数十羽 と激減していました。

その理由は昭和 8 年 ( 1933 年 ) から鳥島が 禁猟区になった ために、直前に大量捕獲が行なわれたからとも言われています。

注:)
山階宮菊麿王の次男で当時侯爵 ( こうしゃく )でした山階芳麿は鳥類の研究に興味を持ち、昭和 7 年 ( 1932 年 ) に東京市 ( 当時 ) 渋谷区の自邸に山階鳥類標本館を母体にして 山階鳥類研究所 を設立し、昭和 17 年 ( 19442 年 ) に財団法人化しましたが、日本で唯一の鳥類専門の研究所として有名です。

昭和 56 年 ( 1981 年 ) には沖縄本島に固有の飛ばない鳥の、 ヤンバルクイナ を発見したことでも知られています。

昭和 24 年 ( 1949 年 ) にアメリカ人鳥類学者の オースチンが アメリカの軍艦で鳥島周辺を調査した際には、1 羽の 「 あほうどり 」 も発見できなかったために、「 あほうどり 」 の 絶滅が学会に報告 されました。


( 8-2、鳥島における、あほうどりの復活 )

敗戦直後の昭和 22 年 ( 1947 年 ) 6 月 1 日から連合国総司令部最高司令官 ( アメリカ占領軍 ) の命令により、鳥島測候所の気象観測業務が開始されましたが、オースチンが 2 年前に絶滅を報告した 「 あほうどり 」 を、昭和 26 年 ( 1951 年 ) 1 月 6 日に、気象庁鳥島気象観測所員の山本正司氏が島の南側の燕崎で発見し、鳥類学会に報告しました。

 最大確認数 ( 羽 )最大確認数 ( 羽 )
1955年 281973年25
1956年 201974年62
1957年 301976年71
1958年 251978年95
1959年 221979年105
1965年 23 ( 船上より観測 )1980年100+-
1966年 49 ( 船上より観測 )1999年1,070
1968年 13 ( 船上より観測 )2008年2,000 ( 推定 )



[ 9 : 最後に ]

一時は絶滅したものと思われていた鳥島の 「 あほうどり 」 が、気象庁鳥島測候所の職員により生存が確認され、その後は鳥類研究者、環境省、所轄する東京都 などの努力により、絶滅の危機を回避することができたので結構なことでした。

なお火山島である鳥島に将来起こるかもしれない噴火の危険を考慮して 、2008 年以降に鳥島から南南東 360 キロメートルにある、小笠原諸島の聟島 ( むこじま ) 列島に 「 あほうどり 」 の繁殖地を設定する計画が推進されていて、鳥島で生まれた少数の幼鳥を現地に空輸しましたが、聟島はかつて 1930 年代まで 「 あほうどり 」 が生息していた地域でしたので、移住 ・ 繁殖計画が成功することを期待しています。

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