無人島 鳥島について
日本には鳥島という名前の島がいくつもありますが、たとえば佐賀県唐津市の 鳥島 や、 長崎県五島市の鳥島 ( 別名 肥前鳥鳥 ) 、位置は 男女群島 女島の西約 30 キロメートル 。 沖縄県島尻郡久米島町の鳥島 ( 別名 硫黄鳥島 ) 、位置は沖永良部島の北西 65 キロメートルなどです。今回随筆の題目にしたのは伊豆諸島の八丈島からさらに 300 キロメートル南にある島で、東京からだと 600 キロメートル南にある絶海の孤島の 鳥島 のことです。
正式な名称は 伊豆鳥島 ですがその位置は 北緯 30 度 29 分 、東経 140 度 18 分 にあり、今も火山活動を繰り返している島で、日本における火山の分類では ランク A ( 注 参照 ) に分類されています。写真は平成 14 年 ( 2002 年 ) に起きた噴火の状況ですが、島は直径約 2.7 キロメートルのほぼ円形で、高さは約 400 メートルありますが、この火山島にも以前は人が住んでいました。
注:) 火山の ランク別分類 [ 1:鳥島との出会い ]アメリカ海軍飛行学校を昭和 33 年 ( 1958 年 ) 秋に卒業し帰国して以来、青森県八戸市にある海上自衛隊八戸基地に勤務していましたが、昭和 38 年 ( 1963 年 ) 4 月に千葉県 ・ 東葛飾郡 ・ 沼南町 ( しょうなんまち、当時 ) にある下総 ( しもふさ ) 航空基地に飛行機ごと部隊移動 ( 転勤 ) しました。
その後は昭和 40 年 ( 1965 年 ) に海上自衛隊を退職するまで下総基地で対潜水艦哨戒機の機長として勤務しましたが、日常の訓練飛行では高度 1,000 フィート ( 330 メートル )で海上を這 ( は ) い回る 6 時間の飛行や、航法訓練では高度 1 万 フィート ( 3,300 メートル ) 前後で 12 時間の洋上飛行をするなど太平洋上を飛び回ったので、伊豆七島を初め、青ヶ島、鳥島、小笠原諸島などは機上から何度も見る機会がありました。 ところが海上自衛隊の飛行機が何度も鳥島の上空を低空で飛行したことから、ある時気象庁から防衛庁 ( 当時 ) に電話があり、
鳥島にある測候所に勤務する気象庁の職員に、家族からの手紙 ・ 品物などを届けて欲しいのだが、何とかならないか?。ということでした。 当時は富士山頂の気象 レーダーは未だ存在せず、もちろん気象衛星も無い時代でしたので、梅雨の季節には日本の南岸に横たわる梅雨前線の位置や、秋に来襲する台風の位置 ・ 進路などを知る上で、鳥島測候所は気象 ・ 防災に不可欠な観測情報を得る南の最前線での任務に従事していました。 ちなみにそれより南南東 300 キロメートルにある小笠原諸島は当時米軍の管理下にあり、施政権が日本に返還されたのは、昭和 43 年 ( 1968 年 ) のことでした。
測候所の職員は 20〜 30 名程度が南海の孤島に 3 ヶ月交代で勤務していましたが、その間家族からの連絡手段は緊急の場合を除きありませんでした。そこで海上自衛隊では下総基地に二つあった航空隊の一つである、第 3 航空隊が パラシュート投下訓練の 一環として、鳥島に勤務する職員の家族から託された手紙や物資を鳥島へ投下することになりました。 毎月 2 回度程度、 家族からの品物を円筒状 コンテナーに詰め、それに パラシュート ( 物量傘 ) を付けて鳥島に投下しましたが、測候所職員や その家族から たいへん喜ばれました。私の所属する航空隊はその任務を担当しませんでしたが、私自身は前年に北太平洋上で巡視船に パラシュートで輸血用の血液投下をしたことがありました。
昭和 37 年 ( 1962 年 ) の夏のこと、北太平洋で操業中の サケ ・ マス ( 鮭 ・ 鱒、業界用語では、けいそん ) 船団で漁船員が ウインチ ( Winch、巻揚げ機 ) に巻き込まれ 片足切断の重傷を負ったために、海上保安庁の巡視船 「 だいとう 」 ( 写真 ) に収容され北海道の釧路港に高速で向かいましたが、出血が甚だしく負傷者に対する輸血が必要になりました。
そこで海上保安庁を経由して青森県の八戸基地に輸血用血液を パラシュートで投下するよう依頼があったので、丁度日曜日に自宅待機 ( スタンバイ ・ クルー ) の機長でした私が 12 名の乗組員と共に飛ぶことになりました。 八戸市内の病院から 2,500 CC の輸血用血液を集め、500 CC ずつ 5 個の前述した物資投下用の コンテナーに詰め、海に沈まないように浮き具も付けて パラシュートの準備をしました。
巡視船の位置は カムチャツカ半島の州都 ペテロパブロフスク ・ カムチャツキーの南南東 280 キロメートル 付近を航行中でしたが、八戸基地から 6 時間 飛行して巡視船と会合し、5 個の パラシュートを順次海上に投下して、それを巡視船が無事に回収しました。輸血をした結果負傷者の命は助かり、後日漁船員が所属する釧路の漁業組合長から航空隊宛に礼状が届きました。 ちなみに 12 時間半の飛行を終えて八戸基地上空に戻ると濃い海霧のために着陸できず、宮城県 ・ 仙台市近くの航空自衛隊 ・ 松島基地も海霧による天候悪化のため、当時東京にあった米空軍の立川基地に向かいましたが、着陸したのは午後 11 時過ぎで 14 時間半 の長時間飛行になりました。( 民間機と違い機長 ・ 副操縦士の交代要員なし )
鳥島のその後については昭和 40 年 ( 1965 年 ) になると火山活動による震度 4 の群発地震が起きるようになり、島の中央にある高さ 394 メートルの硫黄山の噴火の危険が増大したために、気象庁は職員を避難させることになり、鳥島での気象観測はその年の 11 月で打ち切られ現在に至っています。 鳥島は過去に何度も噴火をしていて、明治 35 年 ( 1902 年 ) には大噴火して島の住民が全員死亡し、昭和 14 年 ( 1939 年 ) にも大噴火したこともありましたが、最近では平成 14 年 ( 2002 年 ) 8 月 11 日に小噴火がありました。 明治 35 年の大噴火について当時の新聞記事では、
伊豆七島 ・ 小笠原島へ航海の途中であった日本郵船会社の汽船 ・ 兵庫丸 船長からの報告によれば、明治 35 年 8 月 16 日午前 8 時頃、鳥島の南西に当たり海底火山の高く噴出するを遙かに見たり。次第に近づくと該島の中央より黒煙の時々噴出するを見る。午前 10 時 30 分頃に至り、海岸から 1〜3 海里 ( 1.8 〜 9 キロメートル ) の距離において、汽笛を以て住民を呼べども更に 人影 および家屋を見ず 。と記されていました。
注:)千歳浦 ![]() ![]()
写真は硫黄山から流れ出た溶岩により半分近く埋まった神社の鳥居と噴火口付近の噴石丘 ( ふんせききゅう ) ですが、後年に鹿児島の桜島を訪れた際にも、溶岩に半分埋まった鳥居を見たことがありました。
[ 2:あほうどり ]昭和 30 年 ( 1955 年 ) の秋に海上保安大学の練習船で ハワイ へ遠洋航海に行った際には、太平洋の真ん中で鳥が飛ぶのを初めて見ましたが、無知な私は洋上で生活する海鳥が夜は海の上で寝ることをそれまで気が付きませんでした。( 渡り鳥の ツバメは陸上で寝るのに−−− ) 。私が鳥島付近を飛行機で飛び回っていた当時は、「 あほうどり 」 の名前は知っていましたが、昔は日本に沢山生息していたものの既に絶滅したと思っていたので、誰も気にかけませんでした。
ところで 「 あほうどり 」 ( 英語名 アルバトロス、Albatross ) は ミズナギドリ目 ( もく )・ アホウドリ科 ・ アホウドリ属の鳥で、海鳥としてはもっとも大きな鳥ですが、日本付近に住むものは全長約 92 センチメートル、羽根を広げると 2.4 メートルにもなります。 かつては伊豆諸島の鳥島、小笠原諸島の北の島 ・ 婿島 ( むこじま ) ・ 嫁島 ・ 西之島、沖縄東方にある大東群島の北大東島 ・ 沖の大東島、尖閣列島、台湾付近の澎湖列島などで繁殖期に多数が集団営巣していましたが、鳥島では 大乱獲されて絶滅した と考えられていました。その特徴とは
[ 3:荷船 ・ 海難多発の原因 ]関ヶ原の戦いに勝ち徳川幕府が覇権を握ると西国大名が持つ水軍 ( 海軍 )を無力化するために、慶長 14 年 ( 1609 年 ) に大名の大船 ( おおぶね、500 石積以上の船 ) を没収しました。その後 寛永 12 年 ( 1635 年 ) に幕府が改訂した武家諸法度 ( ぶけしょはっと、寛永令 ) によれば、その 17 条に
500 石積以上之船停止 ( ちょうじ ) 之事とありましたが、その意味は 500 石積み ( 排水量約 100 トン ) 以上の 軍船の 、建造 ・ 航行を禁止するということでした。 武家諸法度は本来大名 ・ 武家に適用する法令でしたが、当初は民間の荷船にも適用されたために、米 ・ 酒 ・ 材木などの大消費地である江戸への物資輸送に支障が出たので、3 年後の寛永 15 年 ( 1638 年 ) に前述した武家諸法度の 17 条を改訂し、
但荷船制外之事「 ただし ( 民間の ) 荷船は ( 規制 ) 外のこと 」 になりました。ところで大船建造禁止令の要点とは、
( 3−1、生存の カ ギ は、あほうどり の在島の有無 )
火山島という不毛の無人島に漂着し何ヶ月も、 あるいは後述する 最長で 20 年間 も生き抜くためには、漂着時期が 「 あほうどり 」 の在島期間、つまり繁殖の季節 ( 10 月〜 3 月末 ) に合致するかどうかが重要な要素を占めていました。 「 八丈浦手形の覚 」 によれば、繁殖の季節には
諸鳥沢山成事 ( しょちょう たくさんなること )、山を歩行候 ( あるきそうろう ) に、棒をもち払ひ歩行仕候 ( はらいあるき つかまつりそうら ) えども、肩先などへ懸 ( かか ) り、せわしく( 落ち着かない ) 御座候 ( ことでした ) 。とあるように、鳥島では 足の踏み場もないほど 「 あほうどり 」 が島にいましたが 、 その間は食料に全く不自由せず、渡りの季節に備えて 「 あほうどり 」 の干物を作ることにより食料の備蓄をし、時には羽毛を綴って着物を作りました。 島から鳥が一斉にいなくなる 「 渡り 」 の季節以後 に漂着した場合には、食べ物が無く餓死せざるを得ない状況でしたが、下表は遭難して鳥島に漂着し、その後 幸運にも日本に帰国できた人の記録ですが、漂着した 月 に注目してください。一説によれば船が遭難して鳥島に漂着しその後帰国できた遭難者の数は、80 名以上ともいわれています。 ( 3−2、鳥島に漂着し、生還した者たち))
遠江国 ( とおとおみのくに、現 ・ 静岡県 ) ・ 浜名郡 ・ 新居宿 ( あらいじゅく、現 ・ 湖西市 ) の浜名湖西岸の新居湊 ( あらいみなと ) の筒山 ( つつやま ) 五兵衛の持ち船である千石船の鹿丸に 12 名が乗り、亨保 4 年 ( 1719 年 ) 11 月 26 日に陸前国 ( 宮城県 ) 石巻小竹浦を出て南へ航海中、11 月 30 日に上総国 ( かずさ、千葉県 ) の 九十九里浜沖で暴風雨に遭い船が難破しました。 およそ 2 ヶ月近く漂流の末 鳥島に漂着し、本船から伝馬船で生活に必要な鍋釜 ・ 道具類を島に荷揚げしましたが、無人島での生活で最も苦労したのは飲み水であり、川や泉がないので、船から運び出した手桶 ・ 小桶 ・ 「 あほうどり 」 の卵の殻などを岩山のくぼみに置いて天水 ( 雨水 ) を溜めました。食料は大鳥 ( おおとり = あほうどり ) を主に食べましたが、「 渡り鳥 」 であることが分かり干物にして食料の備蓄をしました。 毎日 1 羽食べるとして、渡り鳥が島へ戻るまでの間に 1 人当たり 200 羽 の 「 あほうどり 」 の干物 を用意しましたが、偶然漂着した無人の難破船の積み荷の米俵から陸稲 ( おかぼ、畑に栽培する稲 ) の種籾 ( たねもみ、種子 ) を得て陸稲を栽培したり、鳥がいない間は カニ や海藻を採り魚を釣って食べました。衣類などについては、
食事に仕り候大鳥 ( つかまつりそうろう おおとり ) の皮を羽毛共に干し上げ、しばらくの内 敷物に仕り候得 ( つかまつりそうらえ )ば、自ら和 ( やわ ) らかに相成り候 ( あいなりそうろう ) ゆえ、あちこち継なぎ合い、着用仕( ちゃくようつかまつ ) り候て、相凌 ( あいしの ) ぎ申候。意味は食用にした あほうどり の羽毛の付いた皮を、干した後にしばらく敷物にして使用すると、柔らかくなるので、糸でつなぎ合わせて着物を作り、それを着物代わりに着ました。上図は あほうどり の羽根で作った 羽衣 ( はごろも )、羽根笠、羽根うちわ です。 無人島で暮らす内に 12 名中 9 名が死に、平三郎 ・ 仁三郎 ・ 甚八の 3 名が生き残りましたが、漂着してから 20 年後のこと 別の船が鳥島に漂着しました。その船は江戸 ・ 堀江町の宮本善八所有の 1,200 石船 ( 船頭、富蔵以下 17 名乗り組み )でしたが、元文 4 年 ( 1739 年 ) に青森県の八戸から江戸に向かう途中に房総沖で遭難し、鳥島に漂着したものでした。 さいわいにも彼等の船に搭載していた伝馬船 ( てんません、本船に搭載され岸との荷物の輸送や、人の往来に使う小型の和船 ) が無事でしたので、これを改修して帆装を施し、平三郎たち 3 名を含む合計 20 名が水 ・ 食料を準備して鳥島から帆走により脱出しました。彼等は途中にある青ヶ島には立ち寄らずに、八丈島に直行し無事に到着しました。八丈島からは幕府の御用船に乗り江戸に向かいましたが、平三郎たち 3 名が 20 年も無人島で暮らし生還した ことから、 8 代将軍 ・ 徳川吉宗が興味を持ち 3 名に謁見を賜りました。 同じ頃に イギリスの小説家 ダニエル ・ デフォー( Daniel Defoe ) が 1719 年に空想小説 「 ロビンソン漂流記 」 を書きましたが、船乗りだった主人公の ロビンソン ・ クルーソー ( Robinson Crusoe ) が南米 ベネズエラにある オリノコ ( Orinoco ) 川の河口近くで船が難破して孤島に漂着し、 28 年後に帰国するという小説の筋書きでした。
私の好きな作家の 1 人でもある吉村昭が書いた小説に 「 漂流 」 がありますが、読まれた方もあろうかと思います。主人公は土佐 ( 高知県 ・ 香美郡 ・ 香我美町 ) 出身の長平 ( ちょうへい ) ですが、彼は 4 人乗り組みの 30 石船の太平丸に水夫として乗りましたが、嵐に遭って船が難破漂流し鳥島に流れ着きました。 12 年半の間に仲間の 3 名が死んだので、彼は 1 年半も 1 人で無人島で暮らし 、奇跡的に故郷に帰還した実話を小説の題材にしたものでした。高知県香南市にある 土佐 くろしお鉄道の香我美 ( かがみ ) 駅前に長平の銅像がありますが、毎年 5 月には 「 無人島 長平まつり 」 が行われていて、その説明板には以下の文言があります。
香我美 ( かがみ ) 町 岸本出身の 「 無人島 長平 」 こと 「 野村長平 」 は、今から 213 年昔の 1785 年 ( 天明 5 年 ) に奈半利 ( なはり、現 ・ 高知県 ・ 安芸郡 ・ 奈半利町 ) から船で帰る途中あらしに遭って流され、此の地より南東に 760 キロ離れた太平洋上の無人島 「 鳥島 」 に流れ着いた。後から鳥島に流れ着いた者たちとは、大坂 ( 大阪 ) 北堀・備前屋亀次郎に船ごと雇われた肥前国 ( ひぜん、長崎県 ) 寺江村・金左衛門船の 11 名乗り組みの船でしたが、さらに 2 年後に日向国 ( ひうが ) 諸県郡 ・ 志布志浦(しぶしうら、現 ・ 鹿児島県 ・ 志布志市 ) の 6 人乗り組み住吉丸が翌年1月に漂着しました。
彼等 合計 18 名 の無人島生活はその後も続きましたが、幸いに造船の心得のある者がいたので、流木を集めて住吉丸が積んでいた道具を使い、船を作り島から脱出することにしました。小型の船を作るのに 6 年かかりましたが、伊勢丸と名付け 青ヶ島経由で八丈島にたどり着き、そこから幕府の御用船で江戸に行き、それぞれの故郷に帰ることができました。
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