歴史認識について
[ 7 : 中国の プロパガンダ ( 政治的意図を持つ宣伝 ) ]国家として体系的に編纂された歴史は、たいてい時の 政府 ・ 政権にとっての正統性や利益に対する根拠付けに主眼がおかれて作られています。たとえば日中戦争における中国側の死者について中国政府の発表によれば、1945 年の終戦直後には 300 〜 500 万人 とされました。 ところが反日意識の強い江沢民 ( こうたくみん ) 国家主席の時代 ( 1993 〜 2003 年 ) になると、数字の根拠を全く示さずに突然 3,000 万人となりましたが、天安門事件に見られる 民主化を求めた国内思想の引き締めを図るために 、 反日を国是 ( こくぜ、国家としての方針 ) とする政策の一環でした。 以後国内で思想的分裂の危機が起こる度に反日の旗が振られるようになり、現在では 3,500 万人 が中国政府の公式見解になっていますが、今後も際限なく数字の値が増加する ( ? ) ことでしょう。なぜなら中国では 歴史は 政治や宣伝の道具 にしか過ぎないからです 。 ところで、
上の写真は延安の洞穴 住居前で撮ったものですが、右端が 1972 年に、田中角栄 ( 当時 首相 ) と日中共同声明に調印したことでも知られる、国務院総理 ( 首相 ) を務めた周恩来 ( しゅうおんらい )、 1 人おいて毛沢東です。ここは現在 「 中国革命の聖地 」 とされています。 注 : 長征 ( ちょうせい、Long March ) とは韓国や中国が歴史認識について、 あるいは 「 正しい歴史を学べ 」 を日本に要求する行為とは、歴史の解釈や歴史観を 彼等と同じにせよ という意味であって、そのようなことは 「 属国に対して以外 」 はあり得ないことです 。 ( 7−1、朝鮮戦争の原因について ) 昭和 25 年 ( 1950 年 ) 6 月に スターリンの同意を取り付けた金日成の北朝鮮軍が、突然韓国との国境であった北緯 38 度線を越えて韓国を侵略し、開戦から僅か 3 日後に首都 ソウルを陥落させ、韓国軍と米軍は朝鮮半島南端の釜山近くまで後退させられました。この劣勢を挽回するために マッカーサーが指揮する米軍が、 ソウル近郊にある仁川 ( じんせん ) に敵前上陸することにより形勢が逆転し、 北朝鮮軍が撤退し ピョンヤンも連合国軍に占領されました。 北朝鮮が危うくなるとこんどは中朝国境を流れる鴨緑江 ( おうりょくこう ) の対岸から中国の 義勇軍と称する正規軍 が参戦し、戦闘は 3 年間継続しました。多数の戦死者を出しながらも勝敗がつかず、「 休戦協議 」 で幕を閉じましたが、この朝鮮戦争の原因について、 ( 7−2、日本の左翼主義者の場合 ) 日本に はびこる 「 戦後左翼主義 」 の歴史学者や日本社会党 ( 現 ・ 社民党 ) は、長年下記のような解釈を本に書き宣伝を繰り返してきました。 ( 7−3、中国の歴史教科書の場合 ) 京都帝国大学を兵役により中退した元 ・ 中華民国 ( 台湾 ) 総統 ( 在任 1988〜2000 年 ) の 李 登輝 ( り とうき、1923 年 〜 ) によれば、中国の歴史は常に 「 だます者と、だまされる者 」 の歴史であり、中国の歴史を語るうえで、裏切りと、陰謀を抜きにして語ることは不可能といわれています。 人をだます遺伝子は、上は不正蓄財が常習化している 中国政府の最高幹部 から下は自営手工業の おやじ に至るまで現代中国人に脈々と受け継がれ、新幹線や新型自動車から デズニーの キャラクター ・ アップルの アイパッド ( i Pad ) に至るまで、製品の模倣や名前の パクリが何の取り締まりも受けずに常習的におこなわれています。 中国は朝鮮戦争の際に北朝鮮を援助するために公称 義勇軍、実際は 100 万人の正規軍 ( 人民解放軍 ) を朝鮮半島に派遣しましたが、中国政府が発行した中学 2 年の歴史教科書では、朝鮮戦争に関して 5 ページに及ぶ説明の中の冒頭で下記のように記していました。 1950 年 6 月に 朝鮮に 内戦 が勃発 した。そして米国が自らの考えで派兵し、 北朝鮮を 侵略 した 。米国を中心とする国連部隊は 38 度線を超え、鴨緑江 ( おうりょっこう、中朝国境を流れる川 ) 沿いまで戦火を拡大させた。 中国軍の参戦の目的は自国を守るためであり、 米国に対抗して朝鮮 ( 北朝鮮 ) を支援したという意味で、この戦争は 「 抗米援朝戦争 」 であり、 朝鮮と中国の 勝利 で収まった 写真は朝鮮戦線で捕虜となった中国軍兵士。つまり朝鮮戦争を北朝鮮による侵略ではなく内戦と偽り、米国が北朝鮮を侵略したので自衛のため義勇軍 ( ? ) による支援をしたと偽る一方で 戦争に勝利したと教えていました。ここまでの記述を読んで、中国 ・ 韓国の歴史認識に対する貴方の感想は ?。 [ 8 : 敗戦後の日本に対する、各国の思惑 ( おもわく ) ]歴史を考える上で参考になる言葉に、 イギリスの首相を 2 度務めた パーマストン ( Palmerston、1784〜1865 年 ) の言葉があります。永遠の同盟国など存在しないし、永遠の敵国も存在しない。永遠なのは 国益だけだ 。 ( 8−1、インドネシアの場合 ) オランダの東 インド会社が 1619 年に ジャワ ( Java ) 島にあった バンテン王国の首都 ジャカルタを占領し、堅固な要塞を築いて、バタヴィア ( Vatavia ) と改名し、ここを本拠地にして日本を含む アジア ・ ヨーロッパ貿易に従事しましたが、日本ではちょうど じゃがたらお春 の生きた時代でした。 オランダの東インド会社は ジャワの植民地で収穫した コーヒー ・ 茶 ・ タバコなどから上がる莫大な利益を収奪する一方で、過酷な搾取と 「 愚民化政策 」 を推進しました。 太平洋戦争中に日本が インドネシア ( ジャワ ) を占領し、オランダの植民地勢力を一掃し、インドネシアに軍隊を創設し教育を施しました。しかし太平洋戦争の敗戦により インドネシアから追い払われた植民地宗主国の オランダが、戦後再び インドネシアに戻って来たために、オランダからの独立を求める戦争が始まりましたが、旧日本兵の有志が インドネシア軍に参加して オランダ軍と戦い、600 名が戦死したといわれています。 ところで雑誌 「 正論 」 によれば、 スカルノ大統領はその恩に報いて建国宣言の日付を 皇紀 2605 年 ( 1945 年 ) 8 月 17 日と記したのだそうです。しかし、 戦後も親日政策を通したら欧米に睨 ( にら ) まれ国は立ち行かなくなる。だから彼らに同調して日本は悪いことをした、賠償をよこせと スカルノは カネと ついでに愛人 ( 注 参照 ) を持って行った。 ジャカルタの独立記念館には 400 年間搾取 ( さくしゅ ) した オランダには 一言も触れず、( 4 年間しか駐留しなかった ) 日本軍に対しては、この国を侵略すると 資源と労働力を搾取した 。と書いてあるのだそうです。 注 : 愛人のこと ( 8−2、タイの場合 ) 1941 年の太平洋戦争開戦当時に アジアと アフリカに存在した独立国は僅か 五箇国であり、そのうち アジアには日本と タイの 二箇国しか存在しなかったことを既に ここで述べました 。 日本は太平洋戦争中に タイに 泰緬鉄道 [ たいめん てつどう、タイと ビルマ ( ミャンマー ) を結ぶ鉄道 ] を建設しましたが、その建設には多数の欧米人捕虜も労働力として使用しましたが ( 国際法上合法 )、食料不足からくる栄養失調と、 コレラや マラリアなどの伝染病により多数の死者が出たために、敗戦後に日本軍の責任者は責任を問われて処刑されました。 太平洋戦争中に日本と同盟関係にあった タイは戦後になると、日本は悪いことをしたとして泰緬鉄道 ( たいめんてつどう ) 沿線の カンチャナブリ ( Kanchanaburi ) に、 ジース ( J E A T H ) 戦争博物館 欧米人が言う 「 死の鉄道記念館 」 、( J E A T H とは建設に従事した、Japanese、English、Australian、American、Thai、Holland の頭文字)を付けた、戦争博物館 ) を建てて欧米人を納得させた。 しかし私が アメリカ留学中の 1957 年 ( 昭和 32 年 ) に見た映画、 「 戦場に架ける橋 ( 動画 ) 」 に登場する クワイ河 ( River Kwai ) に架かる鉄道橋のたもとにある日本軍の建てた慰霊碑はそのまま残し、かつてそこを走った日本製の 機関車をそこに飾っている。 それだけでなく、 白人国家にとって忌 ( い ) まわしい 有色人種から受けた強制労働 の象徴 ・ 記念物でもある 泰緬鉄道 ( たいめん てつどう ) の撤去を連合国側が求めたが、タイはそれを拒否して タイ側では今も地域の足として鉄道が残されている。のだそうです。 ( 8−3、ミャンマーの場合 ) 第二次大戦後 イギリスから独立した旧植民地のうち イギリス連邦 ( The Commonwealth of Nations ) に加盟した国は、 本家の イギリスを含め 54 ヶ国 ありますが、アジアでは インド ・ シンガポール ・ パキスタン ・ マレーシアなど 8 ヶ国が加盟 しています。しかし加盟しなかった アジアの国 ( 地域 ) が 二つありましたが、一つは 1997 年に イギリスの植民地から中国に施政権が返還された ホンコンであり、あとは 1948 年に完全独立した ビルマ ( 現 ・ ミャンマー ) でした。 そこには 1886 年から ビルマが蒙った イギリスによる 過酷な植民地支配 の実態があり イギリスに対する積年の 恨 ( うら ) み からでした が、下記の 「 ミャンマーの不幸 」 と、「 アウンサン将軍とその娘 」 をお読み下さい。 アウンサン将軍は イギリス植民地からの独立のために 一度は日本と手を握ったものの、太平洋戦争における日本の敗色が濃厚になると、今度は植民地支配者の イギリスと手を結び日本を攻撃しました。そして日本の敗戦後は イギリスの意向に沿って 彼等にとって忌まわしい有色人種に捕虜となり、強制労働させられた 記念物である泰緬鉄道のビルマ側の線路を全て撤去しました 。 さらに イギリスが ビルマ植民地化のために連れて来た数百万の華僑 ・ インド人 ・ 山岳民族の ビルマ ( ミャンマー ) からの追い出しはしないと約束しました。 しかし イギリスにすれば アウンサン将軍は彼等に 一度は弓を引いたことのある 裏切り者 にしか過ぎず、彼は何者かに銃で暗殺されました。ビルマに置けばやがて反英の シンボルになる可能性がある 一人娘の スー ・ チーを イギリスが引き取り、インド、後に イギリスで教育し、イギリス人の マイケル ・ アリスと結婚させました。完全独立後に ビルマは国名を ミャンマーと変え植民地支配の名残りの左側通行も英語も廃止し、前述した華僑 ・ インド人の多くを ミャンマーから追放しました。 [ 9 : 国連憲章には、侵略の 定義 が今も 無い ]歴史認識の 2 番目である侵略 に対する考えを述べることにしますが、 ここで重要な点は武力による他国への侵略は、第 2 次大戦終了まで 国際法違反ではなかった という事実です。 世界の帝国主義諸国がこぞって弱小国や未開国を侵略し、植民地にしたのは 「 世界的な流行 」 であり、第 1 次世界大戦開始時の 1914 年当時、地球上の 陸地の 84 パーセント は、人口比率で僅か 15 パーセント に過ぎない 白人国家が支配していました 。 この事実を見る限り、日本人 だけが 侵略や植民地支配について 非難され、罪を問われる立場にはなく 、まして中国 ・ 韓国から謝罪を強要される理由など全くありません。なぜなら繰り返しますが当時の国際法上、合法な行為だったからです。合法的行為に日本がなぜ謝罪や損害賠償をするのですか?。 謝罪や補償が当然であるとするなら 、太平洋戦争末期に日本の 60 もの都市に対しておこなわれた、 非戦闘員に対する米軍機の 無差別な 焼夷弾攻撃 ( 空襲 ) および 原爆投下 による 被害 ( 焼死者 48 万人 ) について、 日本人も アメリカに謝罪 ・ 損害賠償を 「 しつこく 」 要求すべきですが、なぜしないのですか ?。 歴史に対する評価方法について 貴方が恥を 掻きたくないのであれば 、 正しい評価方法を学ぶこと が必要です。 第 2 次大戦後の 1945 年 10 月に国連が発足し、承認された国連憲章の第 1 条には国連の目的として、国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と 「 侵略行為 」 その他の−−−とありますが、何をもって 侵略行為 とするかという規定が何もありません。 なぜ無いのかといえば、当初の国連創設の主要 メンバーであった アメリカ ・ イギリス ・ フランス ・ ソ連 ( ロシア ) ・ 中国 ( 蒋介石政権 ) などの考えが異なり合意できなかったからでしたが、蒋介石政権を除き、その他の国は互いに 侵略の常習国 だったからです。 アメリカに関して言えば西部開拓の名のもとに先住民を虐殺して土地を奪い、その 「 西進行動 」 が太平洋岸に到達すると次には 南と更に西に向かい 、 米墨戦争 ( べいぼくせんそう、1846年 メキシコとの戦争 ) により メキシコから ニューメキシコ、テキサス州などを奪いました ( 後述 )。 米西戦争 ( べいせいせんそう、1898 年の スペインとの戦争 ) により、プエルトリコ、米領 サモア ・ グアム ・ フィリピンを奪い 、1893 年には軍艦 ボストンと米海兵隊 150 名により ハワイの カメハメハ王朝の第 8 代の女王であり、最後の ハワイ王となった リリウオカラニ女王 ( 名曲 アロハ ・ オエの作詞者 ) を ホノルルにある イオラニ宮殿に幽閉し、退位を迫り ハワイ諸島を手に入れました 。 写真の イオラニ宮殿に今も掲げられている旗は ハワイ州の旗ですが、元々は アメリカの侵略により 滅ぼされた かつての カメハメハ王朝の国旗なのです。( 9−1、侵略行為の存在を決めるのは安保理 ) 国連憲章 ・ 第 39 条によれば、安全保障理事会が 「 侵略行為 」 の存在を決定し、それに対処するため、勧告またはいかなる措置をとるかを決定する、 とあります。 ところが 「 侵略行為 」 とは何かという 「 定義 」 が無いことが問題となり、朝鮮戦争が起きた 1950 年の第 5 回国連総会以来問題として提起されました。 その当時、 侵略行為をしたのは米軍と韓国か ?。 あるいは北朝鮮と中国か ?。の議論が起きました。 朝鮮戦争が停戦した 1953 年には侵略の定義に関する特別委員会が設置され 20 年間検討された結果、 1974 年の国連総会 でようやく 「 侵略の定義 」 と題する決議 が国連総会で採択されました。しかし総会決議には、加盟国政府に対する 法的拘束力はなく 、国際問題に対する世界の世論の形成や道徳的判断に影響を与える程度のものです。 ここまで述べたのは第 2 次大戦以後のことですが、それ以前のことは推して知るべしで、東京裁判においては、 「 法の不遡及 ( ふそきゅう ) の原則、注 参照 」 に違反して事後法を作成し日本を 「 平和に対する罪 」 で裁きました。 ( 9−2、欧米諸国は聖書に恥じよ ) 国際的に 「 侵略の定義 」 さえ 存在しなかったにもかかわらず 、戦勝国の欧米諸国は自らが過去に行った数々の侵略行為には眼をつむり口を閉ざし、日本を侵略国として断罪したのです。ウソだと思う人は自分で調べてごらんなさい。 注 : 法の不遡及( ふそきゅう ) の原則この事実をしっかり記憶して下さい。 さらに キリスト教徒である欧米諸国の連中に対しては、 新約聖書 にある 「 ヨハネによる福音書 」 ・ 第 8 章 ・ 7 節にある言葉 「 罪なき者、まず石もて打て 」 を読み返せ。 そして自らの行為について 聖書に恥じよ ! と言いたいのです。 ( 9−3、国連決議による侵略の定義とは ) 前述したように 1974 年の国連総会でようやく 「 侵略の定義 」 と題する決議が採択されましたが、その内容とは、 第 1 条上記は、かつて欧米諸国が大航海時代以後に アジア ・ アフリカ ・ 太平洋地域 ・ 中米 ・ 南米で行った侵略行為そのものですが、世界の言語地図を見れば、どこの国がどこの地域を侵略支配したのかがよく分かります。 1973 年の国連決議による 「 侵略の定義 」 の制定以前から、 日本の行為だけは 「 侵略 」 である と洗脳されて信じ込み、 自責の念 ( ? ) に駆られてひたすら謝罪せよと説いてまわる反日戦後左翼の何と多いことか。そういう人々言いたいのです。それならば私財を投げ打って韓国に 「 私的補償 」 でもしたら如何ですか!。 そういう人が現れた話など 80 才になった私は、これまでの人生で聞いたことがありませんが、 口は出すけど 「 カネ は出さない主義 」 の人は軽蔑の対象にされます。下記をご覧下さい。 謝罪とは 基本的に相手側に それを受け入れる気持ち があってこそ成り立つものですが 、その気持ちが 最初から全くない 輩 ( やから ) や国 に対して、いくら謝罪しても無駄なことなのです。2006 年に中国で発売された 江沢民 ( こうたくみん ) の 「 文選 」 には、彼がかつて外交当局者を集めた会議で、( 日本への ) 「 歴史問題は永遠に 取り上げなければならない 」 と発言したことが書かれていますが、このように中 ・ 韓は日本の 「 過去の 一時期 」 への謝罪と反省要求は 「 今後も永遠に繰り返し 」 、 、首相が交代する度に 年中行事として儀式化すること を要求しているのです。このことを肝に銘じる必要があります。 ところで 1839 年に起きた イギリスによる インド産 アヘン の、中国への輸出に対する中国の禁止に端を発した イギリスと中国との アヘン戦争に イギリスが勝利した結果、南京条約により ホンコン島が イギリスに永久割譲され、1856 年に勃発した第 二次 アヘン戦争の結果、中国との間で北京条約を締結し、対岸の 九龍半島も イギリスに割譲されました。つまり ホンコン島 一帯は 1842 年から 1997 年まで約 150 年間も植民地として支配されました 。 ( 9−4、相手を見て謝罪や カネを要求する 中国と韓国 ) 昭和 4 0 年 ( 1965 年 ) の日韓国交樹立に際して締結した日韓基本条約により、韓国は日本政府から 無償 3 億 ドル、有償 2 億 ドル の計 5 億 ドル ( 当時 1 ドル=約 360 円 ) の資金供与及び融資を受けましたが、当時の韓国の国家予算は 3.5 億 ドルであり、日本の外貨準備額は 18 億 ドルの時代でした。つまり 韓国は 国家予算の1.4倍 の経済援助を受けました 。 その一方中国とは1978年に日中平和友好条約を結びましたが、それ以後 実質的な戦後賠償 として中国に対する ODA ( Official Development Assistance 、政府開発援助 )の総額は 2005 年現在で、 円借款約 3 兆 472 億円、無償資金協力 約 1,416 億円、技術協力 約 1,446 億円にのぼりました。 更に驚いたことに世界第 2 位の経済大国になった中国に対して、日本政府は現在も ODA ( 政府開発援助 ) を続けていて、 2012 年度も 42 億 5 千万円も支出 していますが、民主党政権の対応には疑問を抱きます。 1997 年に ホンコンの施政権が中国に返還されましたが、その際に最後の ホンコン総督を務めた クリストファー ・ パッテン ( Patten ) によれば、 「 イギリスは中国に謝罪する必要はない 」 と明言し、返還交渉の際に中国側からの 謝罪要求や補償金要求は 無かった とのことでしたが、なぜだと思いますか?。 その理由は 七つの海に 「 日没することのない大英帝国 」 の植民地を誇り、世界中に植民地を数多く持っていた 侵略の本家 本元の イギリスから 、戦後に多数の植民地が独立しましたが、その際に謝罪や補償金の支払いは 皆無であり 、たとえ中国が要求しても絶対に拒否することが明白だったからでした。 イギリスに限らず アメリカ ・スペイン ・ ドイツ ・ ポルトガル ・ ベルギー ・ イタリア などの旧宗主国 ( きゅうそうしゅこく、 以前植民地を管理 ・ 支配していた国 ) が旧植民地国に 「 植民地支配 」 を謝罪し、賠償金を支払った例は皆無 であり、日本だけが 「 例外中の例外 」 だったのです。 現に 1993 年に ベトナムを訪れた フランスの ミッテラン大統領 ・ 1995 年に インドネシアを訪れた オランダの ベアトッリクス女王も、植民地支配について一言も謝罪しませんでした。 ( 9−5、強い相手に謝罪も カネも要求しなかった 韓国 )
( 9−6、マハティール首相の言葉 ) 1981 年に マレーシアの第 4 代首相に就任した マハティール( Mahathir 、1925 年〜 ) が、 「 Look East 、日本を見習え 」 政策をとり息子や娘を日本に留学させ、日本の集団主義と勤労倫理を学べという提言をしました。その後 彼は 22 年間首相を務め マレーシアを発展させました。 自民 ・ 社会 ・ さきがけ 3 党連立の村山内閣が平成 6 年 ( 1994 年 ) に誕生しましたが、党首の入閣に当たり社会党は、長年唱えていた自衛隊違憲論をひるがえし、反対し続けていた日米安保条約に対しても一変して容認することにしました。女性初の衆院議長になった社会党の土井たか子は、よほど嬉しかったのに違いありません。 党是 ( とうぜ、党が基本とする方針 ) を変更した罪滅 ( つみほろ ) ぼし かどうか知りませんが、村山総理などと共に、東南 アジアへ 「 謝罪行脚 」 に行きました。 マハティールは彼らと会談した際に、 50 年前に起きたことを日本が謝り続けることは理解できない。 これまでに十分謝罪した日本が、これ以上謝罪する必要はない 。 日本の戦争責任を問うならば、それより以前に、 非人間的な支配と収奪を続けた 欧米の宗主国の責任はどうなるのか。 日本軍が来た事で ( 東南 アジアが ) 植民地支配から解放され 、近代化がもたらされた。と述べました。 [ 10 : 日本は ドイツを見習え、は正しいか ? ]韓国が日本を非難する際に常に主張する言葉に、侵略戦争をきちんと謝罪した (?) ドイツを見習え がありますが、正しいのでしょうか?。( 10−1、 いけにえ 作戦 ) 辞書によれば 「 いけにえ 」 とは、 人や動物などの生き物を神への供え物として、生きているままで捧げること。とあります。 1945 年 5 月 9 日に ドイツ国防軍が降伏すると、国防軍の将軍たちはすぐに伝説作りを始めましたが、 「 クリーンな 国防軍 」 ( つまり、国防軍は 戦争犯罪には無縁である ) とする伝説でした。 ナチス政権下で ドイツがおこなった殺人工場の ガス室により 600 万人の ユダヤ人 ・ 200 万人の ポーランド人 を虐殺した ホロコーストや、 弾圧による 「 戦争犯罪 」 を、すべて 「 ナチス 」 ( 注 参照 ) の連中に 転嫁 ( てんか、罪や責任を他人に なすりつける ) して 、それ以外の国防軍の軍人は責任をすべて免れることに決めました。そうした神話 ・ 「 クリーン伝説 」 が今日まで、 ドイツの国民を 「 善良な ドイツ人 」 と 「 残虐な ナチス 」 とに巧みに使い分けして、ドイツの国内世論はもとより、国際世論までも影響を与え、 戦争責任の回避に役立っているのです 。上の写真は ガス室などで悪名高い アウシュビッツ強制収容所に勤務する親衛隊員と、 婦人補助部隊員です。 右の写真に見る如く ナチス党の構成員はいうまでもなく ドイツ国民であり、大多数の国民が ナチス党を支持し選挙の際には ナチスに投票したにもかかわらず、 「 ドイツ人には責任がない 」 などと主張しているのです。 注 : ナチス ( Nazis Germany ) ( 10−2、 ドイツ政治家の言葉 ) 第 2 次大戦後の ドイツ政府は、西 ドイツ時代の初代大統領 ホイス ( Heuss ) から、ドイツ連邦共和国第 6 代大統領の ワイゼッカー ( Weizsacker 、注 参照 ) はもちろんそれ以後の大統領も、一貫して前述したごとくドイツ全体の犯罪を、 「 ナチス 」 に転嫁 ( てんか、罪や責任などを他人になすりつける ) し、ドイツ民族による戦争犯罪を否定しています。 これは賢い手法であり、日本も早速真似をすべきだと思います。すなわち中国 ・ 韓国が主張する歴史認識に対して責任を負うべきは 「 善良な日本人 」 ではなく、 「 日本の軍国主義者たち 」 であるとすべきなのです。 実に名案だと思いますけれど−−−。 注 : ワイゼッカー の言葉立派なことを述べているようですが、彼の言葉に だまされてはいけません 。この日は ドイツ降伏 40 周年にあたり、彼はこの記念日を 「 ナチス の暴力支配による非人間的 システムからの解放の日 」 と形容しましたが、ここでも名前を挙げたのは例によって ナチス であり、 真実の加害者 である 「 ドイツ 国家 ・ ドイツ人 」 ではありませんでした。 ドイツ人の巧みな レトリック ( Rhetoric、文章 ・ スピーチ表現上の技法、言い回し ) によって、 韓国人と同様に世界には 簡単にだまされる人が多いのです。 大統領の パクリ 演説ヨーロッパで最大の発行部数 ( 毎週 110 万部 ) を持つ ドイツの ニュース週刊誌 である シュピーゲル ( Spiegel、ドイツ語で鏡の意味 ) 誌の編集長によれば、 ワイゼッカーの発言は単なる 一般論であり、演説内では 「 ヒトラーの ポーランド 進駐 」 という表現を使い、「 ドイツの 侵略 」 とは言いませんでした。 あの演説では、罪についてほとんど何も話されず、責任や悲劇的な運命への告白が語られただけです。 ヒトラーの元で行ったことと、その結果引き起こされたものへの責任だけです。 罪については語られず、したがって 謝罪もありませんでした 。と批判していました。 次も韓国や 「 戦後左翼 」 により よく引用される、第 4 代 ドイツ連邦首相であった ブラント ( Brandt ) の発言ですが、彼は 1970 年に訪問先の ポーランドの首都 ワルシャワで、ユダヤ人 ゲットー( 強制収容所 ) 跡地にある英雄記念碑で跪 ( ひざま ) づいて献花し、ナチス ・ ドイツ時代の ユダヤ人虐殺について謝罪の意を表しましたが、その際に、 自分の国の過去について、批判的にとらえればとらえるほど、周りの国々との友好関係を深めることができる。若い人々には、 ナチスの過去 について 責任を負わせてはならないが 、彼らも歴史の流れから抜け出すことはできないのだから、ドイツの歴史の暗い部分についても、学ばなくてはならない。と述べましたが、その一方で帰国後に 「 戦後に ドイツ人を旧東部 ドイツ領から ポーランド政府が追放した不正は、いかなる理由があろうとも正当化されることはない 」 と テレビで演説し、ポーランド側の加害行為をも批判しています。 ブラントはあくまでも 「 ホロコースト、ユダヤ人虐殺 」 についてのみ謝罪した のであって、 第 2 次大戦や ポーランドへの 侵略を謝罪したのでは ありませんでした 。 ブラントの ポーランドに対する態度は、 ナチス が ポーランドに被害を与えたことは認めつつも、それは ポーランドによる東部 ドイツ領の併合と、 ドイツ人に対する迫害により相殺されるというものでした。彼も 「 善良な ドイツ人 」 と 「 残虐な ナチス 」 とを、言葉の上で 巧みに使い分ける ごまかし をしていました 。 [ 11 : 歴史認識の原点は中華思想 ]中国の正式名称は 中華 人民共和国ですが、国連における中国の正式英語表記は People's Republic of China 、 つまり チャイナ ( 支那、しな ) の人民共和国であり、そこには 「 中華 」 の意味など全くありません 。 中華とは中国の漢民族が、自己の文化 ・ 国土を理想的なものとして自国を言う美称 ( びしょう、美しい名前 ) であり、それに対して周辺諸国を 東夷 [ とうい、東方に住む民族に対する 蔑称 ( べっしょう、さげすんで言う呼び名 ) ] ・ 西戎 ( せいじゅう、西方に住む異民族に対する蔑称 ) ・ 南蛮 ( なんばん ) ・ 北狄 ( ほくてき ) と全て 蔑称 ( べっしょう ) で呼びました。 このように古くから中国には 中華思想 がありましたが、それによれば中国は世界文明の中心であり、華 ( か、はな ) であるが、周辺は夷 ( い、えびす、野蛮人 ) である。 中華には高徳の王がいるが、礼を知らない夷 ( い、 野蛮人 ) は中華に感化され、徳化され、礼を知って初めて文明国 ( 中国 ) の 従属国に仲間入りができる。それゆえ周辺の夷 ( い、野蛮人 ) は中華に従うべきである。と考えるのが中華思想です。 その思想には中国と周辺諸国との 外交関係において対等の関係など存在せず 、野蛮国である夷 ( い、野蛮人 ) は常に文明国である 華 ( か、中国 ) の下位に位置する 華夷序列 ( か い じょれつ ) を主張します。この考えを基に中国の日本に対する見方とは 日本は東の夷 ( い、野蛮人 ) である朝鮮の その さらに東にあり、華夷序列の 末席に位置する 劣等の 倭夷 ( わい、野蛮人の国 ) である。 その夷にすぎない日本が日中戦争において中華の国 ( 中国 ) を侵略し、 華夷序列を踏みにじり 破壊する無礼な過ちを犯した 。 夷 ( い、野蛮人の国 ) である日本は この過ちを認めて反省し 、 謝罪し続けることこそが正しい歴史認識 であり、この認識を持たない限り日中関係の進展はない。とするものでした。つまり遣唐使の時代 ( 630〜894 年の間に 16 回派遣 ) の 1,100 年以上も前の両国の関係を、自国に有利とあれば現代にまで利用ずる 「 歴史戦略 」 の強引さには、 ただ呆れるほかはありません 。 [ 11−1 : 今も韓国が持つ 小中華思想 ]一般の日本人には信じられないことですが独立後のねつ造された教育を受けた韓国人は、日本に対して 文化的優越性 を教え込まれているのです。曰く 文字を教えて やった 、仏教を教えて やった など など、先進的 ・ 文化的に優れた朝鮮が、未開で野蛮で劣等な日本に先進的な文明を授けて やった としています。 しかし漢字は朝鮮人の発明ではないし、仏教は インドから中国 ・ 朝鮮半島を経由して 538 年 ( もしくは 552 年 ) に日本にもたらされたとされますが、朝鮮人が発明発見 ・ 開祖となったものではなく、単なる 「 文化の通過点、仲介者 」 に過ぎないくせにと反論したくなります。 西国三十三ヶ所巡礼の 1 番札所である和歌山県 ・ 那智勝浦にある 青岸渡寺 ( せいがんとじ ) の伝承によれば、寺の開基者 裸形 ( らぎょう ) 上人は第 16 代 ・ 仁徳天皇 ( 在位 : 313〜399 年 ) の治世に、 インドから 一行 6 人が熊野の海岸に漂着し那智山に籠もったとされ、これが最初の仏教伝来とする説もあります。 さらに韓国では、日本刀 ・ 武士道 ・ コムド ( 剣道 ) ・ 柔道 ・ 合気道 ・ 盆栽 ・ 茶道 ・ 日本食 ・ 錦鯉 ・ テコンドー ( 空手 ) ・ 秋田犬 ・ 折り紙などは朝鮮が起源で 日本人に教えて やった とする虚偽の主張 をしているのです。 その根底にあるものが前述した華夷序列 ( か い じょれつ ) であり、朝鮮は千年も前から中国王朝の属国となり、近代においても明 ( みん、1368〜1644 年 ) ・ 清 ( しん、満州民族が建国した、1616〜1911年 ) 王朝により 400 年間も属国の状態に置かれました。 華夷序列において中国の下位であることを当然のことと受け入れても、日清 ・ 日露の戦争に日本が勝利し、 当時 世界の最貧国だった大韓帝国 ( 李氏朝鮮が使用していた国号 ) が日本に併合されたことは、 彼らの儒教思想から中国同様に 華夷序列 を破ることであり、 許し難い行為 とみなしているのでした。[ 12 : 戦後左翼の終焉 ( しゅうえん ) ]右翼 ( Right Wing )・ 左翼 ( Left Wing ) とは 1792 年の フランス国民議会で、議長席から見て左側が急進派の ジャコバン( Jacobine ) 派、中央に中間派、右側に穏健派の ジロンド ( Girondins ) 派が議席を占めたことに由来します。 ( 12−1、公職追放と戦後左翼の誕生 ) 日本の敗戦から 5 ヶ月後の昭和 21 年 ( 1946 年 ) 1 月 4 日付、連合国最高司令官 ( S C A P 、Supreme Commander for the Allied Powers ) の覚書 ( おぼえがき、メモランダム Memorandum の訳、実質的には指示 ) で、 「 公務従事に適しない者の 公職からの除去 に関する件 」 が出され、これを受けて日本政府は昭和 21 年、2 月 28 日に勅令第 109 号 「 就職禁止、退官、退職等ニ関スル件 」 を公布し、職業軍人 ・ 戦争協力者 ・ 軍国主義団体の役員などが公職から追放されました。 さらに昭和 22 年 ( 1947 年 ) 1 月 4 日の勅令第 1 号により 「 公職に適さざる者 」 の範囲が拡大され戦前 ・ 戦中の有力企業や軍需産業の幹部 ・ 新聞社、雑誌社その他の出版社、放送機関、映画制作会社、演劇興行会社その他すべての報道機関の役職者も退職させれました。 教職員に対しても昭和 22 年 ( 1947 年 ) 5 月 21 日に公布、即日施行された 「 教職員の除去、就職禁止等に関する政令 」 により、教職不適格者に該当するものは公職から追放となり退職させられました。その結果 1948 年 5 月までに 「 日本の民主化にとって有害と見なされる人物 」・「 好ましくない人物 」 などが公職から追放され、 その人数は 20 万人以上 となりました。 いわゆる軍国主義に荷担したとして多くの人々が公職や大会社、言論機関から追放されると、代わりに盛んになったのが マルクス ・ レ−ニン 主義の流行でした。特に マスコミなどの言論人 ・ 文化人 ・ 学校の教職員 ・ 大学生の間に広がり、 左翼主義者に非ざれば知識人に非ず の状態になりました。 それは左翼主義を信奉することにより自らの侵略戦争に対する無垢 ( むく、汚れの無さ ) を示し、 追放除けの護符 ( ごふ、お守り ) に 、あるいは 戦争協力者としての免罪符 ( めんざいふ、15 世紀末に ローマ ・ カトリック教会が販売した罪を免れる証書 ) 代わりにしようとしたのでした。 ところで マルクス主義の革命理論によれば革命の主体は 労働者であり 、戦後の 大学進学率が僅か 15〜20 パーセント の頃の、いわば富裕層に近い子弟であった学生が、革命の主人公のような振りをして左翼主義運動に関わったのでした。 つまり プロレタリア ( 注 参照 ) ではない者 [ ブルジョア、Bourgeois 金持ち階級 、あるいは プチ ( Petit ) ブルジョア 小金 ( こがね ) 持ち階級 ] に属する者が プロレタリア革命 を主唱する矛盾を犯していたのでした。注 : プロレタリア極限すればこんな 縄文時代の原始社会 を構築することが、 革命の最終目的である理想社会として まともに信じられていたのです。かつて中国の人民解放軍では 無階級社会の理論から 最初は軍隊に階級章が無く、初めて階級章が採用されたのは 1955 年のことでした。それまで戦場で指揮する者と指揮される者の順位を示す階級章がなくて、軍隊の指揮系統がどのように機能していたのか疑問を持ちました。 ( 12−2、革命ごっこの終了 ) 関西大学谷沢教授の 「 革命ごっこの夢が醒めるとき 」 によれば、戦後隆盛を極めたいわゆる 「 戦後左翼思想 」 は以下の段階を経て結論が出され、 最早終了しました 。
[ 13 : 与那国島で従軍慰安婦の慰霊祭 ]日本の最西端にある与那国島 ( よなぐにじま ) をご存じですか?。 住所表示は沖縄県 ・ 八重山 ( やえやま ) 郡 ・ 与那国町になりますが、この小さな島で 2013 年 3 月 23 日の朝、ある出来事がありました。 それは上の写真で見える島の久部良 ( クブラ ) 漁港の北公園で、 朝鮮人従軍慰安婦 ・ 与那国島慰霊祭 がおこなわれました。 島民らで構成された実行委員会の主催ですが、韓国 ・ ソウルにある日本大使館前に無許可で慰安婦の ブロンズ像を建てた、 「 韓国挺身隊問題対策協議会 」 の 韓国人活動家 約 20 人が参加 しました。 事前に与那国町内で配られた チラシ には慰霊祭について、1944 年 末 、朝鮮人 『 従軍慰安婦 』 53 名が、日本軍によって台湾から沖縄県の宮古島へ連行される途中、与那国島の久部良港で、アメリカ軍の空爆により 46 名が虐殺されました。 ( 中略 ) さまよえる霊魂が生まれ育った故郷へ帰れるように祈ります。と書かれていました。 しかし同町の糸数 ( いとかず ) 健一 町会議員 ( 60 才 ) によれば、「 自分は 60 年、この島に住んでいるが、多数の慰安婦が空爆により死んだことも、久部良港が空爆を受けたことも年寄りからこれまで聞いたことがない。慰霊祭には、別の思惑があるのでは 」 といぶかしがっていました。 同町総務財政課も 「 戦時中だけに米軍機の銃撃はあったが、 久部良港の空爆については 与那国町史にも記載がない 。年寄りに聞いても、 誰も知らない ということでした。慰霊祭開催の時期についても 年末に起きたとされる事件 ( ? ) について、 3 月末に慰霊祭を催すのは不自然なうえに、実行委員会に自衛隊配備に反対している人物がいるため、糸数議員は 自衛隊の島への配備反対運動の一貫としか思えない と語っていました。 ( 13−1、迷惑料 10 億円よこせ、与那国町長 ) 与那国島は平成 25 年 3 月末日現在で世帯数 766 世帯 、総人口 1,527 人 という小さな島ですが、尖閣諸島まで 150 Km 、石垣島まで 127 km、台湾まで 111 km 、那覇まで 514 km の距離にあります。しかし島には高校もなく自然だけが 一杯あるというだけの、 過疎化が進む貧しい島です 。 尖閣諸島まで 150 キロという対中国最前線の島では与那国町議会からの度重なる自衛隊誘致運動により、陸上自衛隊の沿岸監視部隊の配備計画が推進されようとしましたが、与那国町長 外間守吉 ( ほかま しゅきち ) の 「 基地を作るなら、迷惑料として 10 億円よこせ 」 によって暗礁に乗り上げています。その間の経緯については、
沖縄県民斯 ( カ ) ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ [その意味]とありましたが、写真は大田 実 海軍中将です。 それから 68 年が経過すると、 63 才の町長にとっては 祖国を愛する気持ちなど どこへやら 、あるのは 人並み外れた金銭欲だけで 、前述した元国務省 ・ 日本部長 ケビン ・ メア が述べた 沖縄は 「 ゆすり 名人 」 とは沖縄本島だけのことではなく、 与那国島の町長にとって 「 たかり 」 も 得意技であることが 、今回の件でよく分かりました。
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